第二十八話 もう一人の転生者
午後の授業も終わると、レオナルドは一目散に教室を後にした。嬉しそうな表情から、きっとマルグリータに会って今日のことを話すのだろう。
「リリアンナ様、さようなら」
「ええ、また明日」
ヤコブに声を掛けられ、レオナルドを微笑ましく見送っていた私は我に返る。慌てて笑顔を取り繕い、私は教室を後にした。ヤコブは最後まで、教室を出ていく私を見送っていた。
夕日が明るく照らす帰りの馬車の中、シヴァはポケットからメモを取り出した。
「ヤコブ・ヘルトルについて今の所集まった情報だ。今話してもいいか?」
「ええ、大丈夫よ」
昨日の今日でもう調べてあるとはさすが早い。シヴァとルネの優秀さに、私は素直に感心していた。
男爵家の次男だったヤコブは、幼少期からその大人びた言動と頭脳で神童と呼ばれていた。それで王家からも元々注目されていたらしい。神童は途中から普通の人に成り下がるのも珍しくないが、幼いながらに何本かの論文まで発表し、学園では最優秀と認められた。その功績から、今回側近候補に抜擢されたようだ。
低い身分からの成り上がりストーリーは大したものだ。素直に感心してしまう。
「調べてみても、ヘルトル男爵家は文官として細々とやってきた家で特別おかしなところはなかった。なんで側近候補なのかっていうのは、今回の話で納得できたか?」
メモをしまいながら話すシヴァを見て、私は頷いた。特別おかしなことは無い。ただ、彼が神童と言うだけ。本当に、それだけでいいんだろうか?
考えながら眉間に皺が寄っていたのだろう。急に眉間にシヴァのデコピンが炸裂する。
「いたっ」
「だから、そんな難しい顔するなって」
額を手で押さえると、いたずらっぽく笑うシヴァが見えた。その顔を見て安心する。確かに、何か難しく考えすぎているのかもしれない。
「へへっ……そうだね」
タイミングを見て、一度ヤコブとは話をしてみよう。そう思っていたが、そのタイミングは思っていたよりもすぐに来た。
「リリアンナ様」
翌日の放課後。今日も素早く帰っていくレオナルドを微笑ましく眺めていると、ヤコブが急に声を掛けてきた。振り返ると、彼は真剣な顔で私を見ている。
「急で申し訳ありませんが、大事なお話があります」
そんな言葉を、私は待っていたのかもしれない。ゲームには、彼は存在しないキャラクターだった。そんな彼が、わざわざ私にコンタクトを取ってきている。話をすれば、彼の謎が明らかになるかもしれない。
人気のない場所はどこだろうかと少し考え、さすがに放課後に王族専用食堂に人はいないだろうと思いつく。シヴァと合流して、彼には話が終わるまで廊下で待っていてもらえば大丈夫だ。
「私も、話してみたいと思っていたの。せっかくだから、食堂まで行きましょう」
私の言葉に、ヤコブは少しだけ表情を緩めて微笑んだ。
***
夕日が食堂の窓から長く斜めに差し込んでいた。豪奢なシャンデリアの光がまだ点されていないため、室内は昼間とは打って変わり、深みを帯びた薄闇に包まれている。磨き上げられたオーク材のテーブルも、石造りの床も、すべてが夕焼けの橙色に染まっていた。
私とヤコブは、昼食を摂った時とは違い広いテーブルに二人だけで座っている。シヴァは私達二人分のティーカップとポットを静かにテーブルに置くと、一言も発さずに人気のない廊下に控えた。
緊張を落ち着かせるために、私は目の前のカップに注がれたカモミールティーを一口飲んだ。温かいハーブの香りが、張り詰めた空気の中でわずかな安らぎを与えてくれる。
「それで、話って?」
私が促すと、ヤコブはカップに手を伸ばしながら口を開いた。その瞳の奥には、皆の前とは違う真剣な覚悟が宿っている。
「はい。おかしな話だと、笑われてしまうかもしれません。頭の狂った人間だと思われてしまうかもしれませんが、質問させて下さい」
彼の言葉が食堂の静寂に響き、空気の密度が一気に増したように感じた。緊張が走る。窓から差し込む夕日が、ヤコブの横顔に強い影を落としていた。
ヤコブは、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで問いかけてきた。
「貴女は、本当にリリアンナ・モンリーズですか?」
「え?」
急な発言に、つい戸惑ってしまう。この世界に来て初めて、指摘されたことだから。そう、私はリリアンナ・モンリーズではない。ただの女子高生の、佐藤穂香だ。
今まで一度も言われたことがない核心を突く言葉を、ここで言われるとは思っていなかった。
ヤコブは言葉を続ける。彼の声は低いが、その言葉に私は圧倒されそうになる。
「おかしな話かもしれません。それでも、気になるんです。私は、別の貴女を知っています。その記憶の中の彼女と、今の貴女はあまりにも違いすぎる」
彼はカップの縁を指先で撫でた。考え事をしている時の癖なのかもしれない。
「彼女は、男性相手に屈託なく笑うような人じゃない。あの従者にも、あんなに親しく接することなんてない。何もかもが違って、おかしいのです」
夕暮れの光が、彼の表情を一層複雑に見せる。
「貴女は、一体誰なんですか?」
ヤコブの話に、私は言葉を失った。全身の血の気が引いていくように、体が冷えていくのを感じる。
私以外に、ゲームのことを知っている人がいる。彼は、全てを知る神様なのか。それとも、私と同じ転生者なのか。様々な考えが頭をよぎるが、ここで安易に答えを出すわけにはいかない。私には今の身分も、立場もある。何が起こるのかは分からないのだから。
私は、絞り出すように声を上げた。
「……1つだけ、聞いてみてもいい?」
ヤコブは紅茶を口に含むと、静かに頷いた。
「貴方こそ、誰なの? 私も、貴方のことを知らないわ。アレクサンドの側近候補は三人だったはず。一人は来年入学してくる。貴方は、数に入っていないのよ」
私の言葉が、先ほどの彼の問いかけと同じくらいの重さを持って、食堂に響いた。重い沈黙が流れる。
ヤコブは、何かを確信したように目を閉じた。少しだけ空気が緩むも、私は緊張を解けない。彼はすでに、自分の中で何かの核心を得たのだろうか。
「前世、と言えば信じてもらえるでしょうか? 私はかつて、日本と言うこことは違う世界の違う国で暮らしていました」
窓の外の景色が、まるで遠い記憶のように霞んで見えた。その言葉で、私も確信する。ヤコブは、私と同じ転生者だったのだ。
「そこでの名前は上野明彦。ゲーム制作会社で働いていました」
窓の外では、太陽が地平線に沈みきり、食堂の薄闇はさらに濃くなっていた。壁のタペストリーの色は消えて、私たちは2つの世界と、1つのゲームの秘密を共有する人間なんだと理解する。
ヤコブの言葉の後、私はしばらく動けなかった。全身の血の気が引いていた体は、熱いティーカップの熱で、ゆっくりと温度を取り戻していく。
「そう……そう、なの」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。今の気持ちは、なんて表現したらいいか分からない。
彼は敵ではないのだ。私と同じ、この世界の部外者だった。その事実が、ゆっくりと私に染みわたってくるのを感じる。
「私も、日本で暮らしていたわ。私はただの学生で、この世界はゲームをプレイして遊んでいただけだったけど」
私の話を聞いたヤコブは、それまでの張り詰めた表情を一変させ、心からの喜びを露わにした。
「ああ……やっぱり、プレイして下さっていたんですね。嬉しいです。製作者冥利に尽きますね」
彼の晴れやかな笑顔を見て、私ははじめて、この世界に来てからの不安感と孤独を自覚した。誰にも言えなかった。相談なんてできなかった。頭がおかしいと、狂っていると思われても仕方がない話だったから。どれだけ好きな人でも、シヴァにも、お父様にもこんなこと言えやしない。それでも、今の立場上、公爵令嬢として完璧に振る舞い、このリリアンナ・モンリーズとしての人生を歩まなくてはならなかった重責と秘密が、目の前の彼なら分かるのだ。
「ええ……ええ……」
言葉が続かず、気がつけば、私の頬を熱い雫が伝っていた。はじめて理解者に会えた安堵が、私の中の堰を切ってあふれ出していた。そういえば、この世界に来てから、前世のことで泣いたことなんてなかった。ずっと緊張と不安を、一人で抱え込んでいたから。
「私は、佐藤穂香。……面白い、ゲームだったわ。友人とすっかりハマってしまうくらいに」
震える声で前世の名前を告げた。
「そうですか。ご友人と……本当に、嬉しいです」
ヤコブの笑顔は晴れやかだった。その目には、私への疑念の色はない。ただただ、共通点を持つ仲間に対しての親しみの色だけが宿っていた。




