第2話:監視という名の結婚
第2話:監視という名の結婚
雨に濡れた石畳が、ぼんやりとした行灯の光を反射していた。
蒼馬は、大老の側近である侍の後を、ただ黙ってついていった。水たまりを避けることさえせず、その足取りには、生きる意志のようなものが、全く感じられない。まるで、絞首台へと引かれていく罪人のようだった。いや、罪人の方が、まだましだろう。彼らには、少なくとも、己の罪に対する怒りや、死への恐怖といった感情があるはずだから。
今の蒼馬には、それすらなかった。心は、静まり返った冬の湖面のように、何も映さない。
通されたのは、幕府の中枢、大老の私室だった。
部屋の中央には、白髪を綺麗に結い上げた、痩身の老人が座っている。幕府を、事実上、その掌で動かしている男、朽木大老。その目は、老齢にもかかわらず、底光りのする、鋭い光を宿していた。
「……結城蒼馬、か。見る影もないな」
朽木大老は、値踏みするような目で、蒼馬を頭のてっぺんから爪先まで眺めた。その視線は、かつて彼が英雄だった頃に向けられていた、賞賛と期待の色とは全く違う。まるで、使い古して、刃こぼれのした道具でも見るかのような、冷たい色だった。
「鬼灯衆の若き狼も、牙を抜かれれば、ただの痩せ犬か」
侮蔑の言葉にも、蒼馬の表情は変わらない。彼は、ただ、無言でそこに立っているだけだった。
その反応がつまらないとでも思ったのか、大老は、ふん、と鼻を鳴らすと、本題を切り出した。
「貴様に、一つ、機会をやろう。失墜した貴様が、再び、陽の当たる場所へ這い上がるための、最後の機会だ」
大老は、懐から一枚の書状を取り出し、蒼馬の足元へと滑らせた。
「時任家の娘、雛子。この娘と、祝言を挙げよ」
その言葉に、蒼馬の眉が、ほんのわずかに動いた。
時任家。古くから、帝側に仕える、公家の一門だ。幕府とは、決して相容れない家のはず。
「……何故」
数週間ぶりに、蒼馬が発した、意味のある言葉だった。
「時任の家には、代々、『夢見』の力が伝わる。未来に起こる凶事を、夢で視る力だ。今、帝都では、幕府転覆を目論む不穏分子が、水面下で蠢いておる。その連中の動きを、事前に察知する手立てが、我らには必要だ」
なるほど、と蒼馬は内心で合点がいった。
つまりは、こういうことだ。
時任家は、その力を幕府に利用されることを恐れ、娘の存在を隠している。だが、幕府は、その存在を嗅ぎつけた。しかし、公家である時任家に、表立って手出しはできない。そこで、白羽の矢が立ったのが、自分だ。
濡れ衣を着せられ、全てを失い、飼い殺しにされている、元・鬼灯衆指揮官。
彼と、時任家の娘を、偽りの夫婦として結びつける。そうすれば、幕府は、体裁を保ったまま、合法的に「夢見」の力を、その監視下に置くことができる。
「貴様の任務は、時任雛子と夫婦となり、その生活の全てを監視し、彼女が視た『凶夢』の内容を、一言一句違わず、我らに報告すること。そして、その力が、本物か、偽物か、その利用価値を、冷静に見極めることだ」
それは、人道にもとる、あまりにも非情な任務だった。一人の少女の心を、精神を、土足で踏みにじり、その能力を、道具としてしゃぶり尽くせと言っているのだ。
もし、一月前の蒼馬であったなら、彼は、即座にこの任務を拒絶しただろう。彼の矜持が、それを許さなかったはずだ。
だが、今の彼に、矜持などというものは、残っていなかった。
彼は、ゆっくりと床の書状を拾い上げた。そこには、彼の名と、時任雛子の名が並んだ、婚姻届が記されている。
返り咲くための、最後の駒。
今の自分に残された価値は、それしかない。ならば、その役割を、完璧に演じきるまでだ。心を殺し、感情を排し、非情な監視者となりきる。
かつて、穢れを屠るために振るっていた冷徹さを、今度は、一人の無垢な少女に向けるのだ。
「……拝命、いたします」
蒼馬は、人形のように、無機質な声で答えた。
その返事を聞いて、朽木大老は、満足そうに、口の端を吊り上げた。
「よかろう。祝言は、三日後だ。心しておくがいい」
大老の私室を出ると、雨は、いつの間にか上がっていた。
だが、空は、相変わらず、分厚い雲に覆われたままだ。
蒼馬は、雨上がりの、湿った土の匂いを、深く、深く、吸い込んだ。
それは、まるで、これから自分が足を踏み入れる、暗く、湿った、心の墓場の匂いによく似ていた。
彼が赴くのは、祝言の席ではない。
一人の少女の人生を監視し、利用し、そして、いずれは壊してしまうかもしれない、新たな戦場だった。