第1話:失墜した狼と空っぽの器
第1話:失墜した狼と空っぽの器
雨の匂いがした。
じめついた畳の匂いに混じって、黴と、墨と、そして紙魚が食んだ古い紙の匂い。結城蒼馬は、書庫の片隅で、ただ目を閉じていた。聴覚だけが、やけに鋭敏になっている。遠くで聞こえる、幕府の役人たちの足音。自分を嘲笑うかのような、乾いた笑い声。そして、窓を打つ、冷たい雨音。そのすべてが、今の自分のための鎮魂歌のように聞こえた。
一月前まで、彼は英雄だった。
幕府直属、対・穢れ特殊部隊「鬼灯衆」。その若き指揮官として、蒼馬は数多の「虚」を鎮めてきた。彼の戦術は、この国の誰のものとも違っていた。前世、というにはあまりに朧げだが、彼の魂に刻まれた、異世界の記憶。それが、物理法則を無視する「穢れ」に対し、常に最適解を導き出した。誰もが、彼の神懸かった采配を「天賦の才」と讃え、その双肩に、幕府の未来を託した。
――過去形だ。
全ては、あの夜を境に、灰燼に帰した。
最も信頼していたはずの副長、榊の巧妙な罠。蒼馬の名を騙り、鬼灯衆の配置図と、幕府の重要機密が、帝側の有力貴族へと流された。証拠は、完璧に捏造されていた。蒼馬がいくら無実を叫んでも、幕府上層部にとっては、一つの醜聞を早急に処理することの方が重要だった。
昨日まで自分を「英雄」と持ち上げていた者たちが、手のひらを返し、汚物でも見るかのような目で、彼を「裏切り者」と断じた。彼のために命を懸けると言った部下たちは、誰一人、彼を庇おうとはしなかった。皆、保身のために、沈黙という名の刃で、彼を刺したのだ。
処刑こそ免れたものの、彼の地位も、名誉も、そして、積み上げてきた全ての信頼も、一夜にして剥奪された。残されたのは、この書庫の資料整理という、閑職にも満たない屈辱だけ。
雨音が、強くなる。
脳裏に、最後の光景が焼き付いて離れない。
久我美冬。
彼の許嫁であり、有力貴族の娘。彼女だけは、信じてくれると思っていた。
裁定が下された日、彼女は、蒼馬の前に現れた。だが、その口から紡がれたのは、慰めの言葉ではなかった。
「……申し訳、ありません。家の、決定です。あなたとの婚約は、白紙に、と」
その瞳には、涙が浮かんでいた。だが、それは、蒼馬に向けられた悲しみの涙ではなかった。家の決定に逆らえない、自分自身の不運を嘆く、自己憐憫の涙だ。蒼馬には、それが痛いほど分かった。
彼は、何も言わなかった。ただ、空っぽの目で、彼女を見つめ返しただけだ。
その視線に耐えられなくなったのか、美冬は「ごめんなさい」と、蚊の鳴くような声で呟き、逃げるように去っていった。
その瞬間、蒼馬の中で、何かが、音を立てて砕け散った。
信頼、愛情、未来への希望。そういった、温かくて、脆いもの全てが、ガラスのように砕け、彼の心を、空っぽの器に変えた。
以来、彼は、感情というものを、意識の外へ追いやった。
怒りも、悲しみも、絶望さえも、感じない。感じてしまえば、心が壊れると、本能が警鐘を鳴らしていた。
彼は、ただ、息をしているだけの、抜け殻だった。
書庫の窓から、冷たい隙間風が吹き込んでくる。蒼馬は、ゆっくりと目を開けた。そこには、何の光も宿っていない、底なし沼のような、昏い瞳があるだけだ。
その時、書庫の重い扉が、軋みながら開いた。
入ってきたのは、幕府大老の側近である、初老の侍だった。その男は、かつて、蒼馬の武功を誰よりも讃えていた男だ。だが今、その目に浮かんでいるのは、あからさまな侮蔑と、厄介者を見る色だった。
「結城蒼馬。大老様からの、お呼び出しだ」
その声には、何の敬意もこもっていなかった。
蒼馬は、何も答えず、ただ、静かに立ち上がった。
雨は、まだ、降り続いている。
まるで、この世の全ての汚濁を洗い流そうとするかのように。だが、蒼馬は知っていた。一度、泥にまみれた魂は、二度と、元の白さに戻ることはないのだと。
彼は、空っぽの器のまま、新たな運命が待つ、雨の中へと、その一歩を踏み出した。