第二話 ハラさん
『来月、彼女と温泉旅行を予定していたんですが、浮気された上フラれました。俺の傷心を癒してくれる動物っていますか?』
その電話は閉店間際にかかってきた。電話の向こうの男性は、ひどく意気消沈しているようだった。
そうだろうな、浮気をされて恋人にフラれたのだから。
同情したい気持ちをぐっと抑えて、言葉を発する。
「それですと、カピバラのハラさんが、おすすめですね」
『カピバラ……』
電話の向こうで男性が呟く。
「カピバラは多頭飼育環境が望ましく、仲間や家族のいる環境が安心できるため、レンタルではなく当店に併設している、ふれあい宿に宿泊して頂くことになりますが。いかがでしょう?」
カピバラのふれあい宿はハグハグでも人気がある。
自宅に動物を招くのは、マンションの契約違反になるとか、負担が大きいという人が利用する。
ちょうど、一昨日キャンセルが入り、たまたま空いていたのだ。
『じゃあ、ふれあい宿、予約します』
男性は最初より多少テンションを持ち直した声で言った。
⌘ ⌘ ⌘
週末、男性がふれあい宿に姿を見せた。
30代半ばだろうか。平均的な体つき、頭髪も薄くない。グレーのタートルネックニットにベージュのチノパン姿という、ありきたりな格好だ。
宿泊者名簿に記入をしてもらった後、カピバラのハラさん一家について説明をする。
「カピバラはアマゾンの水辺に生息している生き物です。ハラさん一家は、お父さん、お母さん、娘、息子というありきたりな家族構成です。
一日の食事量は3キロで、乾草、動物用ペレット、果物、野菜を食べます。栄養バランスを整えるために、ビタミン剤やカルシウム剤を添加して与えています。
意外と大食漢なんですよ。」
男性は顎に手を当て「へぇ」と頷いている。
その他にも、ゆとりある飼育スペースが必要なこと、排泄を水中で行う習性があるので、深さのあるプールが必要なこと、そのためレンタルではなく客に来てもらうことを伝えた。
ふれあい宿はハラさん一家のために、水を撒くことができる水はけのよい環境と水浴び用とトイレ用の2つの水場を設置している。
寝床には、おがくずやわら、タオル、毛布などを使用。
とても大切に育てている。
寒さに弱いため、今のような寒い時期は、屋外に家畜用ヒーターも設置されているのだ。
それらの説明を聞いて、男性は「ハラさんは幸せだなあ」と目を細めて呟いた。
⌘ ⌘ ⌘
部屋にはダブルベットと簡易キッチン、ユニットバス、テーブルと椅子がある。正面がガラス張りになっていて、そのガラスを開けるとハラさん一家が暮らす、カピバラの飼育スペースに入ることができる。
ユニットバスの側面もガラス張りになっていて、ガラスの向こうには、ハラさん一家専用のお風呂というか温水プールがある。
運が良ければ、人間がお風呂に入っている時に、ハラさん一家が自分たちのお風呂(温水プール)に入ってくることもある。
お風呂(温水プール)にいつ入るかは、ハラさんの気分次第。のんびり見守るしかない。
ハラさん一家は、じっとお風呂に入って温まるというより、温水プールのような感じで泳いだり、家族同士でじゃれあったりする。
⌘ ⌘ ⌘
客室のユニットバスに湯を張り、肩まで浸かる。
顔を上げるとクリーム色の天井が見えた。
「何やってんだか……」
ふとした時に、そう呟いている。
彼女にフラれてから三週間が経っていた。自分の中では、結婚も考えていた。それなのに……
悔しさの波にのまれそうになった時、視線を感じた。その視線の方に顔を向けると、ハラさん一家の一番小さい奴が、飴玉のように澄んだ瞳で俺のことを見ていた。
奴の目の前には彼ら用のお風呂がある。温泉の風情を出すためか、柚がいくつか浮かんでいる。奴はそっとお風呂に入った。
気持ちがいいのか体の半分まで湯に浸かると、じっとしたまま目を細めた。その様子を見ていると、苛立ちや嫉妬でごうごうと燃えていた気持ちが、静まるようだった。
しばらくすると、奴は泳ぐように水中を移動し、ガラス越しに俺の目の前まで来た。そこでまた動きを止め、じっとする。まるで、一緒に風呂に入っている気分だ。
『いろいろあるけど、まぁ、がんばりなよ』と奴は言うように、俺の顔を見つめる。ガラスに指をつけると、何かもらえると勘違いしたのか、奴は顔を近づけて来た。
「かわいいな、お前。……そうだな、頑張るよ」
奴がお風呂に入っているのを見て、残りの三匹もお湯につかり始めた。
⌘ ⌘ ⌘
二泊三の宿泊を終えて、男性(箕田さん)は帰って行った。今まで宿泊したお客様の中で、一番ハラさん一家と仲良くなっていた。
箕田さんがお風呂に入ると、四匹も釣られるようにお風呂(温水プール)に入っていたらしい。
箕田さんが帰った後、部屋の掃除をしていたら、開け放っていた窓からハラさん一家が侵入してきた。昨日までいたはずの箕田さんの姿を探すように、室内をうろうろし、鼻をひくひくさせている。
そんなハラさん一家を見るのは、初めてだった。本当に箕田さんに懐いていたのだな、と思った。そして、箕田さんが帰る間際に言った言葉を思い出す。
「ハラさんのお陰で立ち直れそうです!」
そう言った彼の笑顔は生き生きしていた。
ちょこっとメモ
カピバラはペットとして個人で飼えるそうです。
読んでいただき、ありがとうございました。