表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

赤蜻蛉

作者: 泉田清

 息苦しくて目覚めた。鼻をかむ。ティッシュには赤いものが飛び散っていた。ぼんやりと赤い風景のなか独り身悶える、そんな夢をみたのはこれが原因らしい。     

 晩秋は鼻血が出やすい。空気が乾燥しているためだと思われる。一晩かけ鼻腔が干からびるのを想像した。ひび割れ、出血し、凝固し、また出血する。血の自己完結。思わず身震いした。


 「おはようございます」。階下の駐車場へ出ると、向かいの老人が煙草を吸っていた。煙を吐き出し「おはよう」彼は言った。煙が秋晴れの空に昇っていく。そこを通りかかったアキアカネが煙たそうに進路を変え、ボロボロの羽で飛び去った。バタン。車に乗り込み「まだトンボがいるのか」思わず独り言ちた。

 職場近くの、駅前をマイ・カーで通る。古びた木造の無人駅、の向かいには、駅舎よりも大きな二階建ての雑居ビルがあった。それが数日前から、防音パネルで覆われている。解体工事。長年親しまれたビル、通称「駅前銀座」は突如終わりを迎えた。自分もよく通ったものだ。

 

 二十代。「駅前銀座」の一階奥にあるスナック・バーに、ほとんど毎週末通った時期があった。そこのホステスの一人、「ユリ」に夢中になった。彼女は自分の三つ歳上で同郷だった。「また来たの!」呆れながらいつもそういって店に迎え入れてくれた。自分は厄介な客だったろう。金払いが悪く、安酒で長時間粘っては「ユリ」を独占しようとする。愛想が良かったのは最初の数回のみ、あとは本人も他のホステスも迷惑そうにしていた。が、若い自分にとって周りの反応など気にならなかった。燃え上がる情念は過熱するばかりだ。

 ある日、意を決して「ユリ」の誕生日に花束を持って行った。白百合の花束。「わあ、ありがとう」と言ってくれたが、本人はじめ、店にいた客までもが困惑していた。変な空気だなとは思ったものの、自分としては得意げだった。花束はカウンターの隅に置かれた。高級クラブならいざ知らず、この場末のスナック・バーには、大きすぎる花束を活ける花瓶など無いのだった。花言葉は純潔。水商売の女に対して純潔の花束を贈るとは、最高に皮肉が利いている。後にこの店で「白百合事件」として語り継がれたという。

 「白百合事件」の翌週。いつものように店へ行った。が、「ユリ」の姿は無かった。「彼女、あるお客を気味悪がって辞めちゃったよ」ホステスの一人が教えてくれた。その時はそうか、と思った。「まったくひどい奴もいるもんだ!」義憤の念に駆られ、憤慨さえした。

 次の日の朝。目が覚め、酔いからも覚めると「あるお客」が自分であることにようやく気付いた。自分の行動、周りの反応を鑑みるとそうとしか思えなかったし、事実そうだったろう。「ああ」つぶやいた後、しばらく消し炭のように蹲った。「ユリ」がどこで何をしているかは今でもわからぬ。陥らなくてもいい絶望に陥り、当時努めていた会社を辞めた。まったく、何の誰に対するアピールだったというのか。


 ---あれから何度か転職して、また「駅前銀座」のある街に就職した。それも焼失し、いま解体工事が行われているのだった。

 二週間前の19:00。残業していると、ウー!ウー!。消防車のサイレンが鳴った、立て続けに三度も。外に出てみると、駅の方角の夜空が真っ赤に照らされていた。ここから見えるほど炎の勢いは凄まじかった。一緒に残っていた二人は走って火事場見物へ出かけた。自分は残った。対岸の火事よりも早く帰ることのほうが大事だ、やはり自分はおかしい人間なのかもしれない。帰ってきた二人は興奮していた。「いや凄い火の手だった、何軒か燃えてたよ」、「銀座で止めろ!って消防団員がいってたなあ」。五棟全焼。それが被害の全容である。


 次の日の朝。カーテンを閉め切ったアパートの独り部屋で、地方新聞を眺めた。ごく小さな被害報告があるだけだった。全焼した「駅前銀座」の写真とともに。唯一焼け残った「とんぼ」の看板が米粒程に映っている。その店こそが、自分が通い詰めた店の名前なのだった。

 天窓からは早くも秋晴れの空が覗いている。この空の下、まだトンボはいるだろうか、もう若くはないわが身はそう思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ