ゴミになった初恋は、ドレスで包み燃やしました
最初で最後の貴方のキスは、強烈なアルコールと、薄荷と、そして甘酸っぱい汗の香り。
知っていた貴方と、知らない貴方がせめぎ合う、とても危険で複雑な香りだった。
「ルイーゼ……僕は、君との婚約を破棄する」
たった数秒前まで、自分を好き勝手に喰んでいた唇は、まだ艶やかな色を残したままそう告げた。
◇◇◇
物には特に執着しない。形あるものはいずれ無くなるからだ。
だから私が嫁ぎ先に持っていくのは、伯爵令嬢とは思えぬ程のささやかな荷物だ。
伯爵令嬢と言っても、私は本当は伯爵夫人の遠縁に当たる準男爵家の娘であり、両親を亡くした為にこの家の養女となった。
本当の娘同然に可愛がってもらい、この家の嫡男である令息とは婚約までさせてもらったが……
夢見心地だったあの夜会の帰り道、キスと共に、彼の口から婚約破棄を告げられたのだ。
夢から覚めるのは容易ではなかった。強い刺激に翻弄されたまま……何日も、何日も。
しばらくして婚約を破棄された理由を知り、つかえていたものが、すとんと清々しい涙になって落ちた。
財政難の伯爵家を救う為、彼を見初めた裕福な侯爵令嬢と結婚するのだと。
初めて逢ったその瞬間から、彼は私の初恋だった。
自由な金髪や、細長い背中から漂う、薄荷と甘酸っぱい汗の香り。
金髪が紳士らしい形に整えられても、背中が壁みたいに高く広くなっても。大好きなその香りは変わらなかった。
彼が私をどう思っていたのかは分からない。遠い親戚か妹か、或いは、何かに見せかけた情だろうか。
『恋』でも『愛』でもない。そう思っていた。
────あのキスをされるまでは。
◇◇◇
「酔いざましに……少しだけ、歩いて帰ってもいいか?」
もちろん、こんな貴方を一人で歩かせる訳はない。
私も一緒に馬車を降りると、大きな手に自分の指をしっかり絡め、屋敷までの一本道を歩き出した。
「はあ……外は気持ちいいな」
……そうかしら。
昼の熱と夕立の跡が残る、湿った空気を吸いながら首を傾げる。
きつく締められたペチコートの中は、汗がじっとりと滲み、どちらかと言えば不快に近い。
普段はしゃんと伸びた彼の背筋は、今はだらんと反ったり、私の肩に凭れかかったり。
仕立ての良い革靴は、柔らかい土の上をゆらゆらと彷徨い、重力を失くしているかにも見えた。
あまり酒に強くない人が、何故ここまでグラスを呷ったのだろう。無理に勧められたのか、それとも何か……
屋敷の灯りがやっと見えてきた。ここまで随分時間が掛かった気がする。
重いドレスで大きな男を支えて歩いたのだから、額はとっくに汗まみれだ。つうと流れ目に入るも、彼を支えるのに必死で拭うことも出来ない。
先に自分だけ屋敷に戻って助けを呼ぶ手もあったが、そうしなかったのは、この二人の奇妙で幸せな時間を楽しんでいたから。
彼は不意に立ち止まると、私の手を強く引き、一本道を逸れて草むらへと入った。
さっきまでおぼつかなかった足取りは、急に重力を取り戻し、大股で何処かへ向かう。やがて、幼い頃に二人でよく遊んだ大木までやって来ると、私の背を太い幹に押しつけた。
いつの間にか、下半身は彼の膝に、両手首は熱い手に掴まれ、身動きが取れない。
ふわっとかかるアルコールのにおいに、恐る恐る顔を上げれば……見知らぬ男が、潤んだ目で自分を見下ろしていた。
生暖かい風が吹き、よく知っている香りまでも私の鼻腔へ届ける。
薄荷と甘酸っぱい汗の……
◇◇◇
一時は清々しかった涙も、あの複雑な香りを思い出す度に、ドロドロと粘度を増し、次第に上手く流れなくなった。
何故彼は、最後にあんなことをしたのだろう?
これから捨てる物を何故、わざわざ手に取り、開く必要があったかのか。
開かれた後で捨てられる物の気持ちは、少しも考えられなかったのだろうか。
淡く綺麗だった初恋は、悪臭と共に、ただのゴミになった。
いつか私が貴方を捨ててやるのだと、そんな気持ちとは裏腹に、これだけはずっと処分出来ずにいた。
クローゼットの奥から、カバーを掛けて大切に保管していた翠色のドレスを取り出す。
私の目と同じ……分身みたいな色の。これを着た、まだ何も知らないあの夜の私は、きっと人生で一番綺麗だった。
これからしようとしていることとは逆に、カバーを丁寧に外し、ドレスを取り出す。
色も、デザインも、あの夜と全く変わっていない。……変わってしまえばいいのに。
あまり肌を露出せず、かつ野暮ったくならない、ギリギリのラインに仕立ててもらった襟元。
震える手でドレスを抱くと、そっと鼻を寄せる。
まだ……残っているわ。あの夜の香りが。
確かに残っている。
頭を置かれた襟元、押さえつけられた襟元、そして……顔を寄せられた襟元。
どうしても洗えなくて、しまっては取り出して、こうして鼻を寄せては処分しようと決意する。
でも結局出来ずに、カバーを掛けて、またしまうの。
でも、もう終わりにしたい。
これに残っているのは、綺麗な初恋なんかじゃない。……ゴミは処分しなきゃ。
用意していた裁ち鋏をドレスに入れると、ウエストから真っ二つに切り裂いていく。
用の無いスカート部分をその辺に放ると、襟元を乱暴に切り刻んでいく。躊躇しないように、荒い呼吸よりも更に前のめりで。
バラバラになったそれで、ゴミをくるりと包むと、勢いよく燃える暖炉の火に投げ入れる。
もう二度と悪臭が甦らないように、火かき棒で、遠くへと葬った。
◇◇◇
「ベルさん、お客様です」
今夜はもう客も来ないだろうと、ソファーでくつろいでいたところを下女に呼ばれた。
こんな嵐の中……女を抱く為だけに、わざわざ来るなんて。
半年前に大雪の中やって来た、しつこい客を思い出しウンザリする。この仕事を始めたばかりの頃の恐怖や絶望はない。ただ、ぬるい嫌悪感があるだけだ。
グラスに濃い酒を注ぎ一気に呷ると、油断していた頬に白粉を叩き、唇に真っ赤なルージュを引く。
下着に近い薄いドレスにガウンを羽織ると、カツカツとヒールを鳴らし、商売部屋へ向かった。
ドアの向こうに立っていたのは、見知った客でも、見知らぬ客でもない。
いつの日か……暖炉で燃やしたはずの、ゴミだった。
「ルイーゼ!」
低くて、少しくぐもった、懐かしい声。
「君は……! 本当にこんな所で!」
“こんな所”
「子爵が事業に失敗して、借金返済の為に、君を高級娼館に売ったと……それを聞いて、居ても立っても居られなかったんだ」
「……そうですか」
「君の幸せを願って、資産家のあの男の元へ嫁がせたのに……まさかこんなことになるとは!」
“幸せを願って”
「君を取り戻しに来たんだ。僕と一緒に帰ろう。こんな所は、君の居る場所じゃない」
“君の居る場所”
あの夜のように背を壁に押しつけられ、久しぶりに激しい恐怖に襲われる。
私は咄嗟に、ヒールばかり高い安物のパンプスを脱ぐと、ゴミの胸に力一杯投げつけた。
裸足で冷たい床の上に立つと、何とも心地好い。生暖かかった、あの夜よりずっとね。
呆気にとられるゴミへ、ペタペタとにじり寄り、膨らんだ胸をピタリと押しつける。
「ねえ……私の居場所って、どこ?」
「それは……!」
「私と帰ってどうするの? 立派な奥様がいらっしゃるのに……ああ、愛人にでもする気?」
「そんなことする訳」
「まさか、“こんな所”で働いていた女を、伯爵家で受け入れてくださるの? “親戚”……もしくは“妹”として。ああ、もう侯爵家だったかしら」
胸と腰でゴミを押し続け、足を繰り出す内に、いつの間にかベッドまで辿り着いた。
縁に膝をぶつけ、布団に仰向けに倒れるゴミの上へ、私は跨がる。
「捨てる物を開いてはいけないのよ……決して。一度捨てた物もね」
怯える目を見下ろすと、言いようのない高揚感が湧き上がる。
ああ……あの夜のゴミも、こんな気持ちだったのかしら。
首輪みたいに縛られたクラヴァットをほどくと、高級なシャツを両手で引っ張り、ボタンを引きちぎる。解放され、露になった胸板を、細い指でつっとなぞりながら囁いた。
「私はもう、貴方を燃やしたのよ。二度と甦らないで」
顔を寄せると、あの夜のゴミと同じように、ノックもそこそこに扉をこじ開けた。
だけどもう、あの悪臭はしない。薄荷と汗の、退屈で単純な香りだわ。
そこに私が、強烈なアルコールを注いであげる。ほら……危険で複雑になってきたでしょう?
捨てられると分かっていて、開かれるのはどんな気持ちか。全身でじっくり教えてあげる。
忘れないで、あの世まで、ちゃんと持っていくのよ?
ボロボロの、灰みたいな私をね。
◇◇◇
「あら、大変!」
娼婦の一人が新聞を開き声を上げる。
「侯爵様のお屋敷が全焼したんですって! ほら、この間爵位が上がったばかりの。侯爵夫妻と数人の使用人が、煙に巻かれて亡くなったって」
「……そう」
「暖炉の火の不始末らしいわよ。空気が乾燥しているから、私達も気を付けないと」
「……本当に、本当にそうね」
あんなに強烈な煙のにおいを嗅いでも、結局、あの悪臭までをも燃やすことは出来なかった。
何度も鼻腔に甦っては、死ぬまで私を苦しめるのだと……
ドレスを灰にしたあの時に、本当はもう分かっていたけれど。
だけどこれでいい。ゴミだろうがなんだろうが、もう貴方は私のものだから。
この手で燃やした、私だけのものだから。
一枚のクラヴァットを取り出すと、もう鼻を寄せることもせず、暖炉の火に投げ入れる。
煙が目に沁みて、清々しい涙が溢れた。
ありがとうございました。