第二一話 田豫と杏英と時々人妻
目の前には私の肩を叩いた女の子。
とりあえず、素直に尋ねる事にした。
「何処かでお会いしましたか?」
「なっ!」
彼女の開いた口は塞がらなかった。そして、握った両拳をぷるぷると震わせ、
「薄情者め! お前など知らないのだ!」
と言って女の子は背を向けて去り始めていた。
あの喋り方……それと杏家の屋敷に居るって事は……間違いない、あの子だ。
「杏英ですね! すみません、えーっと、奇麗に御粧しされていたので気付きませんでしたよ」
とりあえず、お世辞。それに実際に杏英は可愛い。将来、美人になるに違いない。
「ふん、今更褒めたって遅いからな」
機嫌が治ってないように見えた。しかし、一旦場を去ろうとしたのに戻って来ながら喋っていた。素直じゃない系女子かな?
「あの聞きたい事があるんですが」
「なんなのだ?」
「厠は何処にありますか?」
「着いて来るといい」
どうやら厠まで誘導してくれるらしい。
しかし、一抹の不安がある。
「まさか……杏英、厠で事を済ませるまで私の近くに居るつもりですか?」
「そ、そんなわけなかろう‼ 阿呆!」
批難された。どうやら完全な取り越し苦労だった。
彼女に着いていくと屋敷の裏にある中庭に出る。離れに厠がある様だ。
「中庭の奥にあるのだ。行ってくるといい」
「ありがとうございます」
私は少し駆け足で厠へと向かった。なんだかんだ膀胱が決壊しそうだ!
五分後。
「…………ふぅ」
なんとか決壊を防いだ私は手を洗っていた。もちろん、蛇口を捻って安心安全な水道水が出る時代ではない。その為、厠の外にある大瓶に手を洗う為の水が入っている。杓を使って水を掬うといったところだ。
手を洗う前に私は懐から小瓶を取り出す。
小瓶には石鹸の代わりとなっている穀物のとぎ汁が入っている。二一世紀の日本で育った私は衛生観念に余念が無い、厠から出たらとぎ汁を使う事にしていた。
しかも、とぎ汁は私が居た日本で美容アイテムとして再注目されていた。洗顔効果はもちろん、保温、保湿、紫外線対策や防臭効果、そして皮膚の補修。その他、様々な効果がある。これぞ転生者の知恵ってやつだ。
厠から屋敷へ戻ろうとすると、中庭で杏英が大人の女性と話していた。
彼女は何歳なんだろうか? 美しい人だな。
「あ! あやつが田豫だ」
杏英は歩いている私に指を差していた。
「初めまして、田君」
「あ、は、初めまして、何処かで会った事ありますか?」
真正面から女性を見る。恐らく、初対面。彼女から漂う気品が、より一層美しさを引き立てていた。故に声が上擦ってしまった。
女性は長い髪を、後頭部で巻いて団子にし、簪を挿していた。団子の厚みから杏英より長い髪という事が分かる。
「いいえ。私はこの子の母親よ」
「えっ……こんなお若いのに!」
「あらあら」
若くして嫁がされたのだろうか? 若くないにしても美魔女だ。今年で精神年齢は四〇代後半になるので、やはり大人の女性がグッとくるのだろう。
「あら、田君の手、凄い艶だわ」
私の片手を杏英の母親が握り出した。
「ぁあ……えーっと小瓶にとぎ汁を入れて歩いてるんですよ。それで手を洗ったり」
「変なやつなのだ」
杏英が余計な一言を言ってくれた。
「へぇ、私も真似ようかしら。お肌が美しいわ」
「いえいえ、美しいのはそちらですよ」
と言って女性の手を握り返した。というか自然にやってしまった。女性と付き合った事がないので距離感が掴めない。しかし、子供故に不自然に思われていないのかもしれない。
「あら……お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞なんかじゃないです」
反射的に反論してしまった。手を握りながら見つめ合う私達。
「「あっ……」」
と言って手をお互いに離す。気のせいかも知れないが今の私同様、彼女も少し頬を赤らめているような気がした。
――ドンッ‼
突如、脳天に強い衝撃‼
「痛っ‼」
「お、お前は人の母親に何をやっておるのだ‼ どうかしてるんじゃないのか!」
杏英が憤っていた。どうやら彼女に脳天直撃チョップをされたらしい。かなり痛い。全力でやりやがったなこの子。
というか、端から見たら八歳児が人妻を口説いている様に見えたかもしれない。
そりゃ……娘の杏英だって怒るに決まっているか。
「母上。こんな変態放っておいて、行くのだ」
「ふふ……じゃあまたね」
杏英は怒りながら母親の背中を押して屋敷へと戻って行った。あと、誰が変態だ!
とりあえず、私も屋敷に戻らなければ。
失態を反省しつつ、祝い事に参加するのであった。
二一話まで読んでいただきありがとうございます。
↓感想、評価、ブックマークをお待ちしています。




