第七話「狂気乱舞」
深夜、寝静まる人形町の一角に一台のセダンが路上に停車した。
助手席に座っている男が運転席に座っている巻田に声をかけた。
「ここで待っててくれ。そう長くはかからない」
「わかりました」
セダンの助手席から降りた男は幸恵の彼氏、優だった。
優は車から降りると、まるでよく知った町を歩くように人形町を歩いた。路地裏を歩き古びた雑居ビルに入った。その雑居ビルはピノキオが居を構えている場所。ドアの中からピノキオの笑い声が聞こえてきた。優は躊躇うことなくドアノブをゆっくり廻して静かにドアを開けた。
ピノキオと花がテーブルに向かい合ってジュースを飲みながら談笑していたが、ピノキオはドアを開けてゆっくり入ってきた優を見るなり一瞬にして笑顔が消えた。花も振り返って優を見て口に含んだジュースをゴクリと飲み込んだ。
「お久しぶりです。僕のこと覚えてますか?」
ピノキオは表情は凍り付いている。その表情を見れば覚えていないわけがない。花はそそくさと自分の定位置である沢山の市松人形の中に身を置き人形と同化した。
ピノキオは額に冷や汗をかいていた。
優は花が据わっていた椅子に腰かけ、対面にいるピノキオを見た。
「どうやら覚えているようですね。それは良かった。でも、ピノキオさん。あんた少し、おしゃべりが過ぎたんじゃないかな。特に表と裏の入れ替えが出来るなんて、あんまり軽々しく言わない方がいい。僕も、あまり過ぎたことをほじくり返されたようで、どうも気持ちのいいモノではない。僕の気持ちわかりますか?」
ピノキオは怯えた表情で小刻みに何度も頷いた。
「そうですか。わかってくれますか」
優はテーブルに置いてある花が飲んでいたフルーツジュースを一口飲んだ。そして、フルーツジュースを見て花とその周りの市松人形たちを見た。
「ほんと、ここは時が止まっている。何一つ変わらない」
ピノキオは冷や汗を流すだけで身動き一つ取れなかった。
「彼女、もうここへは来ないとは思いますが、もし来たとしても余計なこと話さないでください。戯言だったと誤魔化してください。いいですね?」優は、優しく諭すように言うも目は笑ってない。
ピノキオは小刻みに頷いた。
「よかった。ピノキオさんも昔と変わらず物わかりがよくて。今日はそれだけ言いに来ました。心配しないでください。あなたさえ静かにしていれば、私がここへ来ることはありませんから」
優は立ち上がった。ピノキオは優を見上げた。
「それじゃ、お元気で」
優は、静かにドアを開け、部屋から出て行った。
ピノキオは深く息を吐いた。緊張が解け、体が脱力した。部屋にはピノキオの呼吸音だけが聞こえる。
すると花がピノキオの傍に来た。
「帰ったよ」
「ああ、そうだね」
花は椅子にあがり、テーブルの上にのり自分の振袖の袖でピノキオの額の冷や汗を拭いた。
「花」
花はニコッとした。
ピノキオは花の顔を見てホッとした表情をした。
ピノキオがなぜ優にそこまで怯えるのか?
ピノキオは優の甘いマスクの奥に潜む悪魔の存在を知っている。非情さに徹することが出来る人間ということを知っている。
優は十年前、弁護士になるため司法試験を受験していた。司法試験は2006年から新司法試験制度が導入され、受験資格に「法科大学院を卒業した者。又は、予備試験に合格した者」となり、法科大学院卒業ではなく予備試験では口述試験があるが法科大学院を卒業すれば、司法試験は短答式試験と論文試験の筆記試験だけ。優は新司法試験制度になる前の受験資格を必要としない旧司法試験制度の受験生だった。旧司法試験制度も短答式試験と論文試験の筆記試験があり、更にそれに合格すると口述試験があった。口述試験での不合格率は筆記試験と比べると圧倒的に低く、問題にするほどのことではなかった。試験官の差配で決まるようなものだったのかもしれない。しかし、優は合格率の低い難関の筆記試験、論文試験に受かりながらいつも口述試験で落ちていた。口述試験がある旧司法試験制度は2011年まで実施されていた。
優は不合格率の低い口述試験で尽く落ちていた。優はそれが全く理解できなかった。優は不合格率が圧倒的に低い口述試験でいつもなぜ落ちるのか、落ちる理由に迷い、落ちる理由を探していた。そこで裏の世界で生きる占い師、灰目と出会い、表と裏の世界を知った。優もまた裏の人、作られた人間だった。
優は幸恵と同じようにピノキオに会いに行き、自分の正体を知り、表と裏の入れ替えが出来ることを知った。
優は自分の努力が表の人に搾取される。そんなことは到底受け入れられなかった。そして、表と裏の入れ替えを目論んだ。表と裏を変えるというのは天国と地獄を逆転させるようなもの。表の人間を叩き落さない限り、決して陽の目を見ることは出来ないと悟った。
そして優は計画を実行した。
その後、ピノキオは優のしたことをニュースで知り、優に恐怖を感じるようになった。
優はセダンの助手席のシートに全身を預け、目を瞑りあの頃に思いを馳せていた。
運転している巻田がちらりと優を見た。
「どうしました? 疲れましたか?」
「ここの来ると昔のことを思い出す」
「……」
「表の人間の生き写しに気づいてそれを利用したのはいいが幸は詰めが甘かった。人生、そう安易に変わるものではない。非情に徹し、死に物狂いで挑まなければ大事を成すことなど出来はしない」
「幸恵さんは優しい人だから」
「……そうだな」
優は、幸恵が亜紀に成りすまして篠宮家に入った連絡を受けた時、優は巻田を亜紀と接触させた。そして、篠宮家に亜紀と瓜二つの幸恵が亜紀に成りすまして部屋に潜入していることを知らせ、亜紀に狙わていることを伝えさせた。亜紀はそれを聞いた時は半信半疑だった。俄かに信じられなかった。しかし、巻田に亜紀の兄である将貴のことを言われ、考えが変わった。
「あなたのお兄さんはあなたに何て言ってました? 自分と同じ人間がいる。そんなこと言ってたんじゃないんですか?」
将貴は亜紀にそう訴えていた。亜紀は将貴から「亜紀も俺と同じ目に合うかもしれない。気を付けろ」と忠告を受けていた。亜紀は単なる兄の妄言と思い受け止めてはいなかった。しかし、突然、巻田に兄のことを言われ、用心するのに越したことはないと思い、とりあえず信じることにした。
巻田は、亜紀が家に帰ってからどう振舞って欲しいか、幸恵にどういうことを言って欲しいか、を伝えた。
亜紀は不安だったが、巻田に「もし、何かあったら、必ずこちらで何とかしますから安心してください」と言われ、巻田の言うことに従った。従わざるおえなかった。兄の言ってることが事実なのかどうかもわからなかったし、そもそも今、何がどうなってるのか、どうして自分が狙われているのか、何も理解できていなかった。亜紀に出来ることといえば全て巻田に任せること。それが一番上手くいくと思った。その巻田を影で操っていたのが優だった。巻田は優の手下。優は幸恵が表と裏の世界を言ってきたとき、巻田とその仲間に監視させ、幸恵の動きを全て把握していた。幸恵が事前に個人タクシーと契約したことも。優は幸恵が契約した個人タクシーを買収した。その結果、巻田に幸恵を最後の最後で捕らさせた。結局、幸恵は優の監視下に居たに過ぎなかった。
巻田が優に話しかけた。
「何とかするっていいましたけど、もしなんとかならなかったらどうするつもりだったんですか?」
「どうもしないさ。変わるのなら変わればいい。亜紀が不運を背負い、幸に幸運が回って来るだけのことだ」
「怖い人だ、先生は」
「いい思いさせてるだろう」
「ええ、どこまでも付いていきます」
優を乗せたセダンは夜の闇に消えていった。
ピノキオは、ココアを飲み、やっと落ち着きを取り戻した。すると突然、部屋のドアが静かに開いた。
ピノキオはドアを開けて入ってきた人物を見るなり、愕然とし、思わずココアの入ったカップを零してしまった。花はピノキオの影に隠れた。
「ああああ、もう来ないって言ってたのに!」
「誰が?」と言って入ってきたのは幸恵だった。
ピノキオは顔を引きつらせ怯えた。
幸恵はすかさずピノキオの傍に駆け寄りピノキオの手を握った。
「怖がらないで! 私はあなたに危害を加えるためにここに来たんじゃないの!」
「いやだ!」ピノキオの怯えは止まらない。
幸恵は跪き、目線をピノキオに合わせて、両手でピノキオの手を握った。
「落ち着いて。何もしないから」
ピノキオは顔を引きつらせたまま黙った。
「落ち着いて、ね。今日はちょっと確かめたいことがあってここに来ただけだから」
「確かめたいこと……」幸恵の優しい眼差しに、ピノキオも少し冷静さを取り戻しつつあった。
「さっき、ここに優が来たでしょ。今泉優が」
ピノキオはその名を聞いて再び怯え、震え始めた。
「落ち着いて。わかってるの! もう何もかもわかってるの。優って篠宮亜紀のお兄さん、将貴さんの生き写しでしょ。優は篠宮将貴の裏の人でしょ」
ピノキオは顔を引きつらせたまま。
「怖がらないでいいの。もう全てわかってるから。優が篠宮将貴を冤罪で獄中に入れたんでしょ」
ピノキオの口が自然と開き、何か言葉を発しようとしたとき、幸恵がピノキオの口に優しく人差し指をあてて押さえた。
「あなたは話さなくていいから私の話を聞いて。もう全部わかってるの。私と同じように優は自分が篠宮将貴と瓜二つということを利用して篠宮将貴の恋人のマンションで篠宮将貴に成りすまして恋人をナイフで殺害した。そして、優はマンションの防犯カメラに自分の顔を晒して、表も裏もないカオスを生み出し、篠宮将貴を窮地に追い込んだ。そして、おそらく優の仲間が篠宮将貴を匿うと言って騙して睡眠薬をもってここに連れてきたんでしょ。そして入れ替えが終ったら、港に、岸壁に係留している釣り船に凶器のナイフと一緒に船に置いてきた。そして翌朝、船長に発見されるように仕向けた。そうなんでしょ」
ピノキオは幸恵から事件の全容の推理を聞かされ、それが当たっていることに驚いた。
「どうして知ってるの?」
「篠宮亜紀の部屋に入った時、彼女の机に置いてあるフォトフレームに篠宮亜紀と今泉優が一緒に写っている写真があったの。初めは優がなぜ篠宮亜紀と一緒に写っているのか、さっぱりわからなかったけど。灰目さんが私のような裏の人に会うのは久しぶりと言っていたのを思い出してピンと来たわ。そして、ネットで調べてみたらすぐわかったわ。御曹司、恋人を殺害と世間を騒がせる大ニュースだったんですものね」
「……」
「あなたが怯えるのも無理ないわ。優のやり口の凶悪さに恐れおののくのも当然だわ。私だって怖い。そんな人が私の彼氏で、しかも法曹界で弁護士として生きているなんて考えられない。優のせいでなんの罪もない人が死に、無実の罪で刑務所に収監されてるなんて許せない」
「許せないって、どうするの? もう、これ以上、変なことになって、もしものことがあったら僕は!」
「大丈夫、あなたに危害が及ぶようなことはしないから。これは騙し続けてきた私と優の問題、いや、無実の罪で投獄されている篠宮将貴さんや、殺された恋人の仇でもあるから。私は私のやり方でやるわ。決してあなたに迷惑が及ぶようなことはしないから」幸恵の瞳は怒りで研ぎ澄まされている。
「……」ピノキオは不安げな表情をした。
「でも、もし及んだら、ここから逃げてね」幸恵は冗談っぽく言ってピノキオと傍にいた花に微笑んだ。
優は、オフィスビルの最上階にあるレストランで眺めのいい窓側の席でランチをとっていた。
テーブルに置いてある優のスマホがバイブする。優はスマホをもって化粧室に向かい、化粧室で電話を取った。
「もしもし今泉です」
「今、大丈夫か?」
「ええ」
「お前御指名で仕事の依頼が来たぞ」
「本当ですか」
「ほんと、羨ましい奴だな。こないだの案件のお客さんがお前のこと知り合いに紹介したらしい。その紹介された相手が凄い。政治家の奥さんだ」
「いいですね」優の顔が綻んだ。
「なんか親族が経営するお店のことで色々相談に乗って欲しいらしい」
「そうですか」
「そうですかじゃないよ。これで上手くやって気に入られれば政治家と強いパイプが出来るんだ。弁護士から政治家への転身も夢じゃない。全くお前は運がいいよ、ほんと羨ましい。あと折電するって言ってあるから、粗相のないようにしろよ。それに美味しい話があったら俺にも回してくれよ。色々手伝うから」
「先輩、気が早いですよ」
「じゃあな」電話が切れた。
優は、席に戻り、椅子に座る前に窓の外を見た。眼前に広がる街。その街を見下すように優は眺めた。
「これも、彼のお陰かな」
優が言ったその彼とは他ならぬ篠宮将貴。幸恵の件で優が巻田を使ったのもそこにある。まさか自分が陥れた兄の妹に会うわけにはいかない。会って篠宮将貴の言うことが真実であってはいけない。戯言でなければいけない。無論、将貴の両親は戯言でないことを知っている。それは先祖代々、成功者になる望みを叶えために自分たちの生贄たる裏を捧げてきた一族にとって表裏はまさに人生において切っても切れない宿命のようなもの。しかし、それはたとえ眉唾的で怪しいモノであっても道徳的にも倫理的にも表沙汰にすることは許されない。墓場まで持っていかなければいけない闇の掟。故に両親は真実を知っていても泣き寝入りすることしかできない。表裏の秘密を守るために悲劇も受け入れることしかできない。
そして、その悲劇に会った篠宮将貴は今も刑務所に収監され不遇な目を受けている。
「俺に運が集まってくるのはいいが、あの髪だけは頂けないな。どうもあのショートヘアを見ると彼を想起させる。不快になる。そろそろ、潮時かな」と優は呟いた。




