第六話「現実」
幸恵は目を覚ました。頭が回らず、状況がわからずぼやけていた。幸恵はハッとした。頭上に人がいる。よく見ると自分の姿が鏡張りの天井に写っているだけだということに気づいた。
「目が覚めたみたいね」
幸恵は声を掛けられた方を見た。
亜紀がソファに脚を組んで座っていた。亜紀の傍に見たことのない体格のいい男が一人立っていた。
幸恵は亜紀を眠らせて連れ去ったことを思い出した。
「もう大丈夫よ。あなたを誘拐した犯人はあなたを置いて逃げたから」
「誘拐?」
「そう、あなたは私に間違えられて誘拐されたの」
「……」
「父の仕事で時折、金銭トラブルで脅迫ごとがたまにあるのよ。今回もそれで脅迫されていて暫く私たち家族を見張って、もらっていたの。そしたら私を誘拐しようとした犯人が家から出てきたあなたを私と勘違いして誘拐したの」
「……」幸恵は状況がいまいち呑み込めなかった。
「私もあなたもここにいる巻田さんに助けられたのよ」
亜紀の隣に立っている巻田が幸恵に微笑み、軽く会釈した。
「ここは?」
「ラブホテルよ。ここなら人目に触れることもないから。穏便にことを済ませるにはうってつけだわ」
亜紀はソファから立ち上がり幸恵の傍に来た。
「それにしても、ほんとそっくりね。いや、そっくりというかまるで生き写しだわ」
「……」幸恵は亜紀にマジマジと見られた。
「犯人たちも戸惑っていたらしいわよ。あなたを私と勘違いして誘拐して、不必要な私を路上に放り出したら、あなたと同じ顔でしょ。何が何だか混乱していたらしいわよ」亜紀は愉快そうに笑った。
「……」
「でも、そのおかげで犯人に隙が出来て助け出されたんだけどね」
「……」幸恵は亜紀の説明を聞いても、自分の段取りにないことを聞かされ、状況が旨く呑み込めなかった。
「でも、ほんと、私のことであなたを巻き込んでしまってごめんなさいね」
「え、」
「だってそうでしょう。父の揉め事で誘拐された人が私と間違えられた人だなんて。それで私の身代わりになって不幸な目に合ったら最悪だわ」
その言葉に幸恵は愕然とした。なぜなら、自分は自分が幸せのために亜紀を誘拐しようとしたのだ。自分が幸せになるために亜紀を身代わりにしようとしていたのだ。そのことしか頭になかった。しかし、亜紀は違う。亜紀は自分と間違えられた人間が不幸な目に合うことを嫌っている。亜紀の言葉に幸恵は亜紀との人間性の差を感じ、ショックを覚えたと同時に自分の心の卑しさが浮き彫りになり恥ずかしくなった。
〈私に幸運が巡ってこないのはこういうことだったんじゃないの〉
思惑の全てが瓦解した。
「あなたの家まで送るわ」
「いえ、近くの駅でいいです。電車で帰ります」
「いいの?」
「はい」
幸恵は一人になりたかった。一刻も早く亜紀と別れたかった。
幸恵は巻田が運転するセダンの後部座席に乗り、近くの駅まで送ってもらった。
車中無言だった。幸恵も話しかけられたとしても話す気分にはなれなかった。
駅に着くと助手席に座っている亜紀が振り返って幸恵に声をかけた。
「なんか、私の家族の揉め事に巻き込んでしまって、ほんとごめんなさいね」
「いえ」
「もう誘拐した犯人は来ないと思うけど、一応、気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます」幸恵は頭を下げた。
セダンは幸恵を降ろして走り去った。
幸恵は亜紀と別れ、どこか安堵した。改札を通り、家路に向かう電車のプラットホームに立ち電車が来るのを待った。昼過ぎのせいかホームに人はまばら。幸恵は電車を待っている間、自分のした行いを顧み、独り言を呟いた。
「私って、なんてバカな女なんだろう。どこまでバカなんだろう。自分の不運を人のせいにして。馬鹿げた眉唾を本気で信じ責任転嫁して。そんな人間が幸運なんて掴めるわけがない。簡単に騙されて食い物にされるだけだわ。それに私と彼女とは人間性も違いすぎる。心が卑し過ぎる。ほんと何やってんだろう」幸恵は自分の情けなさに涙が込み上げてきた。すると突然、幸恵のスマホがバイブした。スマホの着信画面に母と表示。
「もしもし」
「もしもし、幸ちゃん? 幸ちゃん、人轢いた?」
「え、人? 人なんて轢いてないわよ」
「ほんとに轢いてないのね?」
「轢いてないって。今、電車に乗るからきるよ」電車がやってくるのがホームから見えた。
「さっき幸ちゃんに車で轢かれたって人から検査代やら治療費やらでお金がかかるから、とりあえず百万振り込んで欲しいって言われたの」
「え、何言ってるの!?」
幸恵はホームに来た電車に乗るもすぐ電車から降りた。
「お父さんに言ったら、幸ちゃんに電話して確認しろっていうから。ほんと轢いてないのね!」
「轢いてないわよ。そんなのウソに決まってるじゃない!」
「そう。ならよかった。母さん、危うく騙されるとこだったわ」
「ちょっと。しっかりしてよ」幸恵は飽きれるも、ふと今の自分と重なった。幸恵は真顔になりピノキオの言った言葉を思い出した。
『たとえ君が表の人のための人身御供であっても、両親は君を望んだんだ。そのことを忘れないで欲しい』
「やっぱり、親子だな」幸恵はポツリと呟いた。
「幸ちゃん。たまには帰っておいで。母さん、幸ちゃんの好きなかぼちゃのいとこ煮作るから」
「わかった」
「待ってるからね」
「じゃぁ、母さん、切るよ。バイバイ」
幸恵は虚空を見上げた。
「ほんと、何やってんだろ」
幸恵は、口を真一文字にし、一筋の涙が頬を伝わった。
亜紀は、幸恵が自分の部屋になぜ居たか、なぜ自分の家から出てきたのか、一言も尋ねなかった。
―なぜ?―
そして、亜紀の部屋で見たあの写真……
亜紀は幸恵を駅で降ろしてから運転する巻田に話しかけた。
「彼女、だいぶ意気消沈してたわね」
「おそらく、彼女は自分と亜紀さんを比べていたんでしょう」
「比べていた?」
「亜紀さんに、自分のせいで不幸になる人がいたら最悪と言われて、自責の念にかられたんでしょう」
「そうかなぁ」
「彼女、もう亜紀さんのところに現れることはありませんよ」
「言われた通りにしたけど、捕まる時はやっぱり反射的に少し抵抗したかな」
「まぁ、そうでしょう。でも、若干抵抗した方がリアリティが増すんじゃないんですか」
「じゃぁ、よかったのね」
「上出来です」
「でもほんと驚いたわ。あんなにそっくりな人がこの世にいるなんて、ほんとビックリしたわ。彼女が眠っている間、ほんとマジマジと見ちゃったからね」
巻田は笑った。
「でも、これで、もうあなたに災いは起きませんよ。今まで通り幸せに暮らせます」
「そこがちょっと私にはわからないのよね。厄払いのようなものなんでしょ」
「まぁ、そうです。でも、これでお兄さんのようになることはありません」
「そう言われると、信じるしかないんだけど」
「信じていいんですよ。これであなたは何も心配するようなことはありませんから」
「そう」亜紀は窓の外の景色に目を向けた。
亜紀を乗せたセダンは篠宮家に向かって走っていた。
幸恵がマンションに帰ってくると、部屋に優がいた。
「ただいま」
「昨日、どこ行ってたの?」
「心配した?」
「そりゃ、するさ。なんの連絡もないし。幸、変なこと言ってたろ? もしかしたら面倒なことに巻き込まれてるんじゃないかって」
「大丈夫。それはもう終わったから。ほんと私のバカさ加減にはホトホト呆れたわ。身に染みたわ」
「じゃぁ、幸が信じていたあの訳の分からない話は終わったんだ」
「終わった終わった。終わったっていうか目が覚めたわ」
「それは良かった。こっちもホッとするよ」
「なんか色々疲れたから、もう寝る」
「それがいい。ゆっくりお休み」
優は自室へ入って行く幸恵を見た。その視線はどこか冷めていた。
幸恵は自室のドアを閉めて、ベッドに腰を下ろした。そして、自分の机を見て亜紀の部屋で見たフォトフレームを思い出した。
「あの写真は、一体何だったんだう……」
幸恵は椅子に座り、ノートパソコンを開いた。




