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天国と地獄が溶け合うとき  作者: 東京卑弥呼
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第五話「実行」

幸恵の行動は早かった。いや、髪を切った時からもう既に動き出していたのだ。

幸恵は翌朝、篠宮家が見える場所にそれとなく馴染んでいた。

幸恵の事前調査によれば午前八時に亜紀は会社に出社するため白いコートを羽織り、家を出る。

午前八時、調査通り亜紀は白いコートを着て家を出た。そして、そのまま駅の方へ向かって行った。

幸恵は亜紀の後姿を見送りほくそ笑んだ。

「何もかも予定通り」

幸恵は篠宮家の前まで歩いた。幸恵は亜紀と同じ白いコートを着ている。

「慌ただしい朝と思って堂々と行けばいい」幸恵は己の心を奮い立たせた。

幸恵は亜紀と入れ替わるように篠宮家に入って行った。オーディションの幕が上がったのだ。

篠宮家の玄関を開けて入ると、突然、年配のお手伝いさんの女性として出くわした。

「あら、お嬢様。どうしたんですか?」

「忘れ物しちゃった」

「そうですか」

女性は、何も気にすることなく、そのまま奥の部屋に戻った。

幸恵は、脱いだ靴を手に持ち、目の前にある階段を上がって二階へ行った。二階には五つのドアがある。幸恵は亜紀の部屋が二階の角部屋にあることを知っていた。篠宮家を偵察に来ていたとき、夜、亜紀が帰宅すると二階の角部屋に灯りがつくことを知っていた。一番端の角部屋に行き、ドアノブをそっと回し中を覗いた。間違いなく女性の部屋。幸恵は部屋の中に入り、窓から外を眺めた。自分が外から眺めていた場所を見て、この部屋が亜紀の部屋であることを確認した。

「とりあえず、第一審査は通過したわ」

幸恵が思いついた妙案とは、自分が亜紀に成りすまして亜紀の部屋に入り、亜紀の帰りを待つ。そして帰ってきたところで亜紀を連れ出す。家にはお手伝いさんもいるが、亜紀に瓜二つの存在がこの世にいるなんて思いもしないはず。それにお手伝いさんは家の手伝いをするためにいるのであって家族の出入りにそう気を使うことはない。自分が篠宮家の日常の中に上手く溶け込みさえすれば万事うまくいく。これこそまさに女優を目指してオーディションを受けてきた自分にとって最善の策。

〈私は今、篠宮亜紀を演じる〉

そして、幸恵は考えれば考えるほどこのオーディションが今までで一番、人生を賭けたオーディションはないと思えてならなかった。万一、失敗しても潔く終われる。なんの悔いも残りはしない。幸恵の心は晴れ晴れとしていた。

幸恵は窓から離れ、部屋の中を見回した。幸恵は亜紀の部屋に入ってから亜紀を連れ出すところまでイメージを持っていた。足音も立てず息をひそめて静かに待つ。万が一、お手伝いさんが来たときは亜紀として振舞えばいい。アドリブ審査と思って立ち振る舞えばいい。

まさに一世一代、人生を賭けたオーディション。

幸恵は、改めて亜紀の部屋を眺めた。クローゼットが目に入った。幸恵はクローゼットを開けた。クローゼットには沢山の洋服が入っていたが人が充分、余裕で隠れることが出来る広さがあった。幸恵は、いざとなればここに隠れてもいい、と思った。それからまた部屋を見渡した。壁にコルクボードがあり写真が数枚貼ってある。幸恵はその写真を眺めた。写真は亜紀が両親とリゾート地で楽しんでいる思い出の写真。クルーズ船の上で仲睦まじい親子の写真。

「ほんと、両親までまるで違う。私は親まで裏の人なの?」

幸恵は、ベッドに腰掛け、幼い頃に想いを馳せた。

幼い幸恵は台所で料理を作っている母のスカートを引っ張っている。

「ママ。今度はヒロインになるからね!」幼い幸恵は泣きべそをかきながら母に訴えた。

「幸ちゃん、そんなに引っ張らないで」

「ほんとだよ!」

「幸ちゃんはずっとママのヒロインよ」

幼い幸恵は母のスカートに顔をうずめた。

幸恵は我に返り、深く息を吸った。

この計画には自分の人生を逆転させるだけでなく、両親の幸福もかかっている。落選続きのオーディションに終止符を打って、今度こそヒロインの座を射止めてヒロインになる。そして、母を喜ばせる。幸恵の表情には強い決意が現れている。

幸恵は、ふと机に置いてあるフォトフレームに目が行った。ベッドから立ち上がって何気なくフォトフレームが置いてある机に近寄り、フォトフレームの中にある写真を見た。

一瞬にして全身に強い衝撃が走った。

幸恵はその場に立ち尽くし、フォトフレームから目が離せなかった。頭の中は激しく混乱した。

暫くしてから恐る恐るフォトフレームを手に取り、食い入るように眺めた。

「どういうこと……」と自然と口を突いて出た。

幸恵は唖然としながら、フォトフレームを机に戻した。

「まさか……」

幸恵は動揺を振り払うかのように頭を振った。

「こんなことでブレちゃいけない。兎に角、今は決めた計画をしっかりやろう。考えるのはそれからだ」

このとき幸恵は、篠宮家を外から眺めている男がいることを知る由もなかった。

男は宅配便屋に変装し、白いワンボックスタイプの軽自動車の運転席から篠宮家を眺めていた。幸恵が篠宮家に入って何の異変もないことを確認すると、ポケットからスマホを取り出して電話をかけた。

「もしもし、今、篠宮家の前にいます。彼女、篠宮家に入って行きました。おっしゃる通り、篠宮亜紀に成りすまして入ったようです。さすが女優。いい度胸してます」男は笑った。


幸恵は亜紀の部屋で亜紀が帰ってくるのを静かに待った。別段、隠れることもなく、椅子に座ったり、ベッドに横になったりして亜紀の帰りを待っていた。その間、亜紀の部屋には誰も来なかった。考えてみれば、大人になった子供の部屋にたとえ親でも勝手に入ることはあまり考えられない。入る必要性がない限り部屋には誰も来ない。幸恵の心配は老婆心に過ぎなかった。ただ時間が経つのがとても遅く感じ、どうしても考え込んでしまい、気持ちの浮き沈みを激しく感じた。幸恵は不安感を払拭するためにこの計画が成功した後の明るい未来の自分を想像して心を落ち着かせた。何より、この計画が成功して女優になって母を喜ばせることを想像すると幸せな気分になると同時に気持ちを強く持つことが出来た。

〈夢の中に希望に満ちた未来がある。きっと夢は叶う〉


窓の外も暗くなり、夜の帳が下りると同時に幕は上がった。

もういつ何時、亜紀が会社から帰宅してもおかしくない。幸恵は灯りのついてない部屋の中で徐々に緊張してきた。その緊張は亜紀として家に入る比ではない。緊張の余り眩暈のようなものを時折感じた。

〈今まで沢山のオーディションを受けてきたけど、こんな緊張したことはない〉

それもそうかもしれない。なぜなら、幸恵は人知れず、誰にも怪しまれず、穏便に亜紀を連れだそうとしているのだ。ある意味、犯罪。そうとわかっていても幸恵はこの計画に、このオーディションに全てを賭けていた。その極度の緊張とその緊張から自分を落ち着かせようとする意志とがせめぎ合っていた。

緊張と緩和を何度か繰り返しているうちに、突然、山場が訪れた。玄関で亜紀の「ただいま」という声が聞こえた。そのまま階段を登って来る音がした。そして、ドアノブが回り、灯りのついてない亜紀の部屋に亜紀がドアを開けて入ってきた。亜紀がスイッチを付けて部屋に灯りがついてドアを閉めるとドアの脇のスイッチとは逆の壁に幸恵は立っていた。何気なく亜紀が幸恵の方に顔を向けると幸恵は手に持っていた催眠スプレーを亜紀の顔めがけて吹きかけた。亜紀は「何!?」と声を上げて、手で顔を覆おうとするも幸恵は亜紀の腕を掴んで無我夢中で催眠スプレーを吹きかけた。亜紀は少し抵抗した。すると幸恵はハンカチで亜紀の口元を押さえた。亜紀は藻掻くも、やがて抵抗はなくなり、亜紀はその場で眠った。それでも少し騒ぎがあったせいか一階にいたお手伝いさんが二階にやってきてドアの外から声をかけてきた。

「お嬢様、どうかなさいましたか」

「何でもないわ! 大丈夫」幸恵は大きな声で言った。

お手伝いさんは、その言葉を聞いて部屋の外から離れ、階段を降りて行った。幸恵はその音を確認してから亜紀を見た。亜紀は死んだように眠っている。幸恵は〈もしかしたら死んだ!?〉と思い、胸に耳をあてた。

心臓の鼓動が聞こえる。

幸恵は大きく息を吸って吐いて、自分を落ち着かせた。

「あとは、連れ出すだけ」

幸恵は亜紀に事前に亜紀の部屋のクローゼットから探して用意したフードのついたアウターを着せた。フードを被せて顔を見えなくした。

「これでいいわ」

幸恵はスマホを取り出して電話をかけた。

「あ、もしもし、お願いしていた西村ですけど。今すぐ出ますんで来てくれませんか? なら着いたら電話ください」

幸恵は、電話を切った。亜紀の顔を見た。

「あとは私と一緒にピノキオのところに行けば全てが終る」

幸恵は、この部屋を出る身支度をした。

身支度をし終えた頃、スマホがバイブした。

「もしもし、西村です。……わかりました。今行きます」

幸恵は持っていた靴をその場で履いた。そして、眠っている亜紀を背負った。背負いながら片手に催眠スプレーが入っているバッグを持ってゆっくり階段を降りて、細心の注意を払って玄関に行った。そして、外に出ようとドアを開けたところで後ろから亜紀の母親に声をかけられた。

「亜紀ちゃん、どうしたの!」

母親は幸恵を亜紀と間違え、幸恵が背負っているフードを被り顔が見えない女性の姿を見て驚いた。

「いや、ちょっと気分が悪いっていうから」

「そうなの。なら救急車呼ぼうか?」

「大丈夫! 今、この子の迎えが来ているから」

「大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。気にしないで。ちょっと帰りが遅くなるかもしれないけど」と言いながら幸恵は亜紀を背負ったまま、「じゃぁ、言ってくるから」と言って玄関を出た。

母親は家から出てこなかった。

幸恵は息を吐いた。

「よし、あと少しだ」

幸恵が篠宮家を出ると、家の前にはワゴンタイプの黒の個人タクシーが止まっていた。

運転手は幸恵が背負っている亜紀を見て驚いた。

「どうしました?」

「何でもないわ。ただ酔っぱらってるだけだから。前もって言っていた人形町の場所に向かってください」

「わかりました」

ワンボックスカーは篠宮家を後にした。

幸恵は安堵し、シートにもたれ、やっとリラックスすることが出来た。一息ついてから、独りごちた。

「人って案外、見ているようで見ていないのかな。母親でさえ間違えるなんて……。でも、それほどこの人と私は似てるってこと」

幸恵は亜紀の顔を隠しているフードを上げた。幸恵と瓜二つの顔がそこにあった。

「これで全てが変わる。何もかも……」

幸恵は亜紀の顔を見た。亜紀の頬に引っ付いている髪を頬からずらした。

「ほんと、あなたに何の恨みもないんだけどね……」

幸恵は亜紀の寝顔をジッと見た。これから何が起こるのか、何も知らない亜紀。

幸恵は、どこかうしろめたさを感じた。

「この期に及んで何を迷う。もうここまで来たんだ。まずはピノキオのところに無事に行くことが先決」

そう思って幸恵はスマホのGPS機能で現在位置を確認した。すると人形町へ行く方向とは全く真逆な方向へ進んでいることに気づいた。

幸恵はシートから体を起こして運転手に尋ねた。

「運転手さん。ちょっと、行先、違うんじゃない?」

「いえ、そんなことありませんよ」

幸恵はスマホを片手に持って、シートから状態を起こして運転手に詰め寄った。

「いや、違うわ。方向が逆よ!」

運転手は答えなかった。

「運転手さん、ちょっと」

その時、幸恵はバックミラーに目が行った。自分の後ろの後部座席に見知らぬ男が映っている。

「誰!?」幸恵は大声を出して振り返ろうとするも見知らぬ男の長い腕が幸恵の肩を掴み、強引に引き寄せられた。そして、体を片手で押さえられ、抵抗する間もなく口元に布を当てられた。幸恵は頭を振るも大きな手が口元を布ごと押さえつけて藻掻けない。そうこうしているうちに幸恵はやがて力なく意識が遠のいていった。



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