帰路の僧侶
私の家にそのお坊様が尋ねていらしたのはそうですね、十年も昔のことになりますか。
ずいぶんと痩せておられて日に焼けて、供もなく、白い法衣はぼろぼろで砂色に染まっておりました。その背中に簡素な木造りの厨子を背負ってらっしゃって、杖も、錫杖というのですかね、もう柄が磨り減って、手垢で黒くなっており、一瞬どこかの追いはぎが、坊主の真似をして来たのかと思ってしまったくらいです。
ただどうにも落ち着いた穏やかな風情のお方でしたので、遠慮がちに「水をいただけませんか」と問われて、椀に一杯差し上げたのです。
あの日も今日のように、ご覧のようにね、雲ひとつない晴れた日で……まあ、このような砂漠のきわの小さな村などになりますと、雨や曇りのほうが珍しいのでございますが、そのお坊様はすじが浮いて見えるのどを震わせて、大変おいしそうに椀を空にすると、私に手を合わせてすぐにこの村を立ち去ろうとなさいました。
でも私はそれをおとめして、うちに今夜はお泊りになりませんかと声を掛けておったのです。
いやいや、私の家もこんな家ですよ。お坊様をお泊めするような部屋も余裕もございません。ましてお引止めするような天気でもない穏やかな日です。日もまだ高かった。なぜあのときに限ってお声を掛けたのか、今でも不思議でなりませんのです。だけどね、とにかくお坊様もとくべつに嫌がることもなく、この汚い家に入ってくださったのです。
その時妻は子どもを産むために実家に戻っておりましたので、私がお坊様の足を漱がせていただきました。お坊様は大変に遠慮なさったのですが、ほかに何もないもので、せめておもてなししたかったのです。
その足がね、大変な足なのです。私たちも百姓です、毎日足腰を使う。手のひらも足も硬くなる。でもね、そのお坊様の足ときたらまるで鋼なのです。足の裏は石のよう。私は驚いて「どうしなすったんですか」とお尋ねしました。
お坊様は「こんなのはなんでもないのですよ」と、本当になんでもないことのようにおっしゃりました。
「長い旅をしておりましてね、次第にこうなったのです。なんでもないことです」
それでその夜は、粥と、ありあわせで塩もさほどありませんで、味の薄い汁物を差し上げて、お坊様となにともなくお話をさせていただいて過ごしたのですな。
長旅をしていらしたとは、どこにいってらっしゃったのですか、と伺うと、天竺だ、と返ってくる。私はこれまたたいそう驚きました。天竺ですよ。あの遠くに見える山のそのまた向こうです。私などはあの山が天まで続いているので、越えることなんかできないと思っておりました。
お坊様は続けて、皇帝から十数年も前に、天竺からある経典を頂いてくるよう命を受け、今帰るのです、とおっしゃる。
最初は何人もの供を連れ、何頭もの馬を引き、盛大に都を見送られて出てきましたが、いつしか路銀も尽き、国からの便りもなく、供のものも逃げたり、死んでしまったりで、私しか残りませんでした。
そうして天竺へたどり着き、経典を授かりました。
その厨子の中には、天竺から頂いてきた経典が入っているのですよ。
お坊様は訥々とそのようなことをお話になりました。それを聞いて私は、お坊様が不憫でならなくなったのですな。
「十数年もだなんて、あんまりだ。都に戻ったって、いまさら誰がお坊様を迎えてくれるんですか」
お坊様は、うすい汁にふうと口をつけると、深く刻まれた目元のしわをさらに深くして少しお笑いになりました。
「そうですね、誰も待っていないかもしれません。皇帝も代が変わっているかもしれない。
あるいは私のことなど覚えておられないかも知れません。
それは旅の途中も、何度も私の心を訪れた不安です。
私の十数年は、私についてきたばかりに命を落とした従者たちは、砂漠の砂にひざを折って死んだ私の愛馬は、一切は無駄だったのではないかと」
月のきれいな夜でしたな。その、ほれ、そこの窓からちょうど月が見えましてね。
お坊様は時おりふと、済んだ目を上げて月を眺めながら、お話してくださいました。
「天竺へ着く前までは、それでもその経典さえ読めば、すべての理不尽、すべての苦しみ、悲しみに答えが出るのだと思っていました。仏様みずからのお言葉です。衆生を救う手だてがきっと書かれていると信じておりました。
そして天竺につき、私は経典を受け取って天竺の言葉を学び、二年もの間読みふけりました。しかし、何もわかりませんでした。
苦しみも悲しみも、嬉しさも喜びも、何もかもが無だとそこには書かれていました。
この世界には本当は何もないのだと書かれていました。
それは私の求めていた答えではありませんでした。
私は強く失望し、私をここまで旅立たせた皇帝を憎みました。
いたずらに過ぎてしまった年月と、失われた命を惜しみました。
これでも何もないと言うのか、悔しさも怒りも、すべてを諦めることが悟りなのかと」
救われない、とお坊様はつぶやくように、月に向かっておっしゃいました。
「何も救われない。経典など、何にもなりません」
私はこのように無学な百姓です。お坊様の難しいお話を聞いているうちに、なんと失礼なことをしたのでしょうか、眠ってしまったのです。
戸の開く音にはっと目を覚ますと、お坊様はすでに身支度を整えてお出かけになろうとしているところでした。
「お待ちください」
私は足をもつれさせながら、朝もやの中、お坊様を追いかけていました。
なんだか皇帝の命令などで十数年もの旅に時間を費やしたお坊様がお気の毒でならないような気がしたのです。話の途中で眠ってしまったことも詫びなければならないと思いました。
「も、もうご出発になるのですか」
「はい。起こしてしまいまして、申し訳ありません。このご恩は忘れません」
「あの、都に、お行きになるんですか? その……」
「そうです」
「なんにもならないと……」
お坊様は私を真っ直ぐに見つめて、一度深く頷かれました。
「何にもなりません。誰も何もこの経典一つで救われるものではない。
でも、私は私の国にこの経典を持ち帰るべきだと思うのです。
皇帝の命令などもはや私には関係ありません。
私はこの旅の中で、もがきました。苦しみました。
さまざまな人とさまざまな生き方を見ました。命が消え、生まれるのを見ました。
人の優しさと醜さを見ました。悟ることができない自分を見ました。
これから先も、私は悟るその日まで、あるいは死ぬ瞬間までそれらのことを考え続けるでしょう。
私はそれを故郷の人々と語ってみたい。
そのことが、私を悟りに近づけるような気がするのです。
そしてまた、そうなって初めて経典を心から読むこともできるかも知れない。
だから私は、この経典を持って帰り着きたいと思います」
お坊様はそして私に向かって手を合わせ、深く頭を下げると、まさに上らんとする太陽の方向へ旅立ってゆかれました。朝靄が紫と紅色に淡く砂の道を染めている時間でした。まるで五色の雲がたなびいているような空の色で、今でもその光景ははっきりと目に焼きついております。
こんな田舎の村です。今でもそのお坊様がご存命なのか、一体あの方はどなただったのか、それすらこの村ではわかりません。
でもね、私は仏様の一人にお会いしたような気がするのですよ。
どうやらあなたはそのお坊様のお名前をご存知のようですね。
もしお会いになられることがありましたなら、私がお話の途中で眠ってしまったことを代わりにお詫びして頂けますでしょうか。
<了>