筋肉痛
目を覚ました時、見覚えのない天井が目に入った。
すぐにここはよろず屋に備えられている一室なのだろう。ということだけはわかった。
何故なら、すぐ横でシエラが本を読んでいたからだ。
「──おや、おはようございます。良い夜ですね」
目覚めたのに気づいたシエラは、いつもの優しい笑みを浮かべる。
あの地獄の特訓を強いた人と同一人物には、とても思えない。
「気分はどうですか?」
「……死ぬかと思った」
「生きていて良かったですねー」
「誰のせいだ」
「うーん、強いて言うのであれば、体力のなかったレーナさんのせいですかね?」
「くそ、言い返せない」
「事実ですからね」
辛辣な言葉を投げられても、怒ることはしない。
言い方は荒いが、それが真実なことに変わりはないからだ。
反論など出来る訳がない。
「私は、どれくらい寝ていた?」
「半日丸々ですかね。……凄い汗だったので、勝手にスラに食べさせましたけど、大丈夫でしたか?」
「スライムに食べさせた? それはどういうことだ?」
「そのまんまです。眠っているあなたをスラの身体に放り込んで、体に付着している不純物を取り除きました。……ついでに鎧の汚れも取っておきましたよ」
はい、と手渡された鎧は、新品同然の輝きを取り戻していた。
言われてみれば、あんなに汗をかいていたのに、自分の体からは汗臭さを感じない。
スライムは全てを食べる魔物だ。
体の不純物を食べる程度、造作もない。
綺麗にしてくれたことに感謝はするが、眠っている間に魔物に取り込まれているのを想像すると、ちょっと複雑な気分だ。
「次からは許可制で頼む」
「了解しました。……さて、そろそろ夕飯の時間帯です。落ち着いたら下に来てください。今日は頑張った褒美にタダで料理を振舞ってあげます。スラが」
「……そうか、助かる」
「いえいえー」
シエラは部屋を出て行く。
すぐにその後を追いかけようと体を起き上がらせる。
「──っ、くぅ!」
だが、全身に走った激痛のせいで、起き上がるのを断念する。
筋肉痛だ。
久しく感じていなかったそれに、レーナは苦笑する。
「そりゃあそうだ。あんなに体を動かせば、筋肉痛になるのは当然のことだったな」
二時間掛けて走っても、折り返し地点まで到達することは出来なかった。
山の入り口まで来ることは出来たが、そこでレーナの全てを出し切ってしまっていた。
その原因は体力だけではない。むしろ、体力は別にどうでもいい。
一番の問題は、魔物の数だった。
最初は、まだいい。振り切ることも出来たし、弱い魔物だったので簡単に倒すことも可能だった。
だが、山に近付くにつれて、魔物の数は異常なほど膨れ上がり、必殺技を一体一体に打たなければ倒せないほど、強力なものになっていった。
スライムは事前に手出しをしないように、と言われていたのだろう。
倒した魔物を回収することはしても、戦いに参加することは一切なかった。
何度か倒れそうになっても、いつものように「ぴゅい!」と鳴くだけだった。
明日も走るのだろうか。
そう思うと、泣きたくなった。
大の大人が情けない?
そう思うなら一回やってみろ。とレーナは言いたかった。
気絶するまで走り続けなければならない恐怖。気絶したら魔物に襲われる恐怖。
その恐怖に反して、意識が遠のいて行く感覚は、まさしく拷問を受けている囚人を模擬体験しているかのような地獄の時間だった。
明日はもっと厳しいものとなる。
それは確実だ。
何故なら、この筋肉痛を抱えながら走らなければならないのだから。
「うん、絶対に泣く。死ぬ」
耐えられるとは思わない。
どんなに足掻いてでも強くなる。
レーナは騎士になりたかった。
だが最初に、彼女自身の目的を果たすため、とりあえずは冒険者として活動を始めた。
──現実はそう甘くはなかった。
幼い時から剣を振ってきたレーナは、実力だけには自信を持っていた。
しかし、冒険者として活動していく内に、自分の実力はそこまで高くないのだと理解した。
このままでは騎士になるどころか、目的を果たすことさえ出来ない。
そう思い悩んでいた時、よろず屋を紹介してもらった。
そこで鍛えてくれと頼んだ。勿論、レーナもそれなりの覚悟はしていた。
だが、それはレーナの予想を遥かに上回って、彼女に襲い掛かった。
「はぁ……辛い……」
自然と出た一言。
誰かに聞いて欲しかった訳ではない。
その時、タイミング良く扉が開かれた。
シエラが聞き耳を立てていたか? 今の言葉を聞かれていたかもしれない。
そう思って焦るレーナ。なんとか首だけを回して扉を注視するが、どんなに待っていても誰も入ってこない。
……まさか、幽霊?
それはそれで怖いと身構える。
そして────
「ぴゅい」
ベッドの下の方から鳴き声が聞こえた。
入って来たのは、シエラの使い魔であるスライムだった。
角度の問題で入って来たのが見えなかっただけか。
幽霊じゃなくて良かったと、レーナは安堵した。
「ぴ、ぴゅいっ」
スライムはベッドに飛び乗り、レーナの枕元に移動する。
「ぴゅ、ぺっ!」
そして、何かを吐き出した。
水色の液体が入った小瓶だ。
「……ポーションか?」
「ぴゅい」
「まさか、くれるのか?」
「ぴゅい!」
スライムは瓶の蓋を外し、先端をレーナの口に付ける。
そして、零れないようにゆっくりと流し込んだ。
「ぷはっ。……痛みが、和らぐ。ありがとう、スラ」
「ぴゅい!」
これで筋肉痛が少しは和らいだ。
どうにか体を起こし、スライムに礼を言う。撫でてあげると、嬉しそうに鳴いた。
スライムは空になった瓶を体内に収納すると、触手を振ってベッドから降りる。
そして、部屋を出て扉を閉めた。
「……本当に、賢いスライムだな」
人語を理解し、気遣いも上手で、家事をこなし、看病までもしてくれる。
あれほど知性のある魔物は早々いない。下手な人間よりも性格がいい魔物って何だ。無理があるだろう。
だが、実在しているのだから驚きだ。
「ありがとう、本当に……」
そのスライムのおかげで、回復することが出来た。
もう居ない魔物にレーナは、再び頭を下げたのだった。
◆◇◆
「おかえりなさい」
「ぴっ……」
「姿が見えませんでしたが、何処に行っていたのですか?」
「ぴ、ぴゅい!?」
わかりやすく身体を硬直させるスライム。
その様子にシエラは、ふふっと悪戯に笑う。
「レーナさんのところに行っていたのでしょう?」
「ぴゅい」
「あの人は大丈夫そうでしたか?」
「ぴゅい!」
「そうですか。いえ、別にポーションを使ったことを怒っている訳ではありませんよ。むしろ、お礼を言いたいくらいです」
「ぴゅい?」
「はい、感謝ですよ。私は、それが出来ませんから……」
少し寂しそうに、シエラは呟いた。
その場に何とも言えない空気が漂う。
「ぴゅい……」
「違いますよ。スラのせいではありません」
「ぴゅい、ぴゅい?」
「ええ、私はとても助かっていますよ。いつも影でフォローしてくれて。──さ、早く夕飯の準備をしましょう」
「ぴゅい!」
台所に並ぶ。
野菜を切るのがシエラの仕事で、調理をするのがスライムの仕事だ。
ここ数年はこのスタイルで料理を作っている。
「…………ねぇ、スラ?」
「ぴゅい?」
「料理は、この数年で覚えましたね」
「ぴゅい」
「丁寧な口調と笑顔も、覚えました」
「ぴゅい」
「ですが、人の心は……まだわかりません」
「……ぴゅい」
シエラの手が止まる。
そして、物憂げに顔を上げた。
「人は、難しいのですね」
いつか、私にもわかる時が来るのでしょうか。
その問い掛けに、スライムは答えることが出来なかった。