地獄の走り込み
「すまない。何て言ったのか聞こえなかった。最近、耳が遠いようでな」
「大丈夫ですか? 気絶するまで走ってくださいと言いました」
ちょっと100メートル走ってきて。
そのくらい軽く言われた言葉に、レーナは額に手を当ててよろめいた。
軽い頭痛がする。
「ああ、私は地獄に来たのか……」
「ここはドランヴェイル王国ですよー。勝手に堕ちないでください」
「…………その、気絶するまでとは、どういう意味だろうか。辺境生まれなのでな。方言のせいで意味が通じていないのかもしれない」
「気絶するというのは、意識がなくなるまでという意味です。つまり、レーナさんの意識がなくなるまで走っていただきます」
「ああ、間違いじゃなかった。やはりここは──」
「よろず屋ですよ」
「……はぁ……そうだな」
いつまでも現実逃避をしている場合ではない。
ならば、やってやろうではないか。
平面を走るだけ。そう、それだけのことなのだ。
そう決心し、シエラに案内された場所は──王国の外だった。
「質問、いいだろうか」
「何でしょう?」
「どうして外に出たのだ?」
「どうしてって……言ったではないですか。走るって」
「え、いや、だがそれは闘技場とか……」
「……?」
「あ……何でもないです、はい」
この人は何を言っているんだろう?
本気でそう思われている顔をされたレーナは、もう何を言ってもダメだと悟った。
自分に出来ることは、受け入れることだ。
強制的にそう思わされているような気がして、怖くなる。
「では、あの山が見えますね? あそこまで走って、戻って来てください」
シエラがそう言って指差したのは、遥か遠くに霞んで見える山だった。
──ん? おかしいな?
レーナは思った。何かがおかしいと。
山。
山だ。
それは違いない。確かに見える。
走って戻ってこい?
何を言っているんだ?
「山……」
「そうです。山です」
「あそこに走って、戻ってくる?」
「はい、今度はちゃんと聞こえていたようで安心しました」
レーナを馬鹿にしているのではなく、耳が治っていて本当によかったと安堵している顔だ。
悪意は感じない、だが、それ以上におぞましい何かがある気がしてならない。
「折り返し地点に目印を置いておいたので、わかりやすいと思います。……と言っても初めて行く道でしょうから、迷うかもしれません。なので、スラの分体を同行させますね」
「ぴゅい!」
シエラは淡々と説明を続ける。
わざとか? わざと無視しているのか!?
レーナは叫びたくなった。
精神的なストレスで禿げそうだ。
「あ、道中に魔物も出るので、その場合は倒してください」
「え?」
「素材回収はスラに任せていいので、倒すだけでいいですよ。山に近づくにつれて、魔物の出現頻度は上がっていきますからね。強さも比例してますよ」
「は?」
「うっかり死なないようにお気をつけて」
「…………」
死にたい。
素直にそう思った。
「では、全力疾走で行ってらっしゃい!」
「ぴゅいぃいいいい!」
号令と共に、スライムは飛び出した。
弾丸のように、山に一直線に向かって、駆け出す。
「お前が張り切ってどうするっ!?」
「ほらほら、レーナさん! 急がないと置いて行かれてしまいますよ!」
「だ、だが……!」
「だがもめがもないですよ。山で迷子になったら死んでしまいますよ?」
「う、ぐっ……」
前を見る。
そこには、立ち止まってレーナを見つめるスライムがいた。
「ぴゅい、ぴゅい」
触手を人間の手の形に変形させ、クイックイッと手招きをする。
『早く来いよ。置いていくぜ?』
そう言われている気がして、無性に腹が立つ。
「ちっ、くしょぉおおおおお!」
「行ってらっしゃーい」
レーナは駆けた。
理不尽な現実から逃れるために。
地獄を打ち砕くために。
シエラはハンカチを振った。
特に意味はない。
「さて、暇ですね」
ああだこうだ言いながらも、レーナはしっかりとやってくれる。
他の人よりは根性があるようだと、シエルは彼女のことを評価していた。
「ですが、気合が空回りしすぎですね。……持って、二時間ってところでしょうか」
それまで何をして暇を潰そうか。
シエラの脳内は、そのことしか考えていなかった。
叫びながら走り出して行った冒険者のことを、どうでもいいと思っているのではない。
あの子にはスラが付いている。だから安心だと心配していないのだ。
「……まぁ、こっちはこっちの用事を終わらせながら、適当に待ちますか」
持参したレジャーシートを広げ、そこに座る。
そよ風が気持ちいい。
やはり、時々外に出るというのは良いものだ。
そんな悠長なことを思う。
──二時間後。
全身から滝のように汗を流して倒れている少女が、山の中で見つかった。