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本当に一瞬の休憩

「深淵を覗く時、深淵もまたお前を覗いている。という言葉があるだろう?」


 全てを飲み込むような暗黒世界。

 その中で勉強している時、レーナはポツリと呟いた。

 机の反対側に座っていたシエラは、本から視線を上げ、いきなりどうしたと言いたげに見つめた。


「ええ、誰かがそんなことを言っていましたね。それがどうしました?」

「……私な。その言葉を言った人は正しいと思うんだ」

「はぁ……」

「ここに居るとな、何も感じないんだ。シエラの声以外の音は何も聞こえない。何も見えない……はずなのだが、何故か見えるのだ。机と、一枚の紙、そしてシエラ、お前だ。何も見えない空間に、それだけが見える。これが深淵の正体なのだろうか」

「いや、違うと思いますけど」

「私は、常に深淵に覗かれているのだ。そして、私も深淵を覗き、こうして机と紙とお前を見ることが出来ている。これが深淵の正体ではないとしたら、一体何だというのだ……!」

「そこら辺の家具屋にある木製の机と、適当な雑貨屋で買ってきたメモ用紙ですけど? 後、私も深淵という名前ではないです」


 レーナはこの部屋に入って、三時間が経っていた。

 そのせいで混乱しているのだろう。そう思ったシエラは、開いていた本を閉じる。


「そろそろ休憩にしましょう」

「……休憩? それはどんな地獄だ?」

「地獄ではありませんよ。勉強を止めて、休むことです」


 そこでようやく、レーナは休憩の本当の意味を理解した。

 ありえないと目を見開き、喜びで涙が溢れる。


「ほ、ほんとに……本当に休んでいいのか?」

「ええ、息抜きは大切ですからね。一時間くらい外に出ましょう」


 そうして固く閉ざされた扉を開く。


「お、おお……おおっ……!」


 よろよろと、おぼつかない足取りで外に出るレーナ。

 暗黒の境界線から脱出を果たした少女は、その場で力なく座り込んだ。


「やっと、やっと地獄から脱出出来たんだ……私は、まだ生きている!」


 一時間後には元の部屋に戻ることになりますけどね。

 と思ったシエラは、言っても面倒なことになるのがわかっていたので、何も言わなかった。

 良かったですねーと他人事のように言うだけで、その弱々しい背中を見守った。


「──それで、どうでしたか?」

「何をだ?」

「あの部屋の感想です」

「…………今は、考えさせないでくれ」

「ふむ……仕方ありませんね」


 勉強部屋に人を招いたのは、初めてのことだった。

 あの部屋に広がる深淵に触れているだけで、徐々に対象の精神を蝕み、正常な判断が出来なくなる。ついでに魔力を吸い取り、シエラの力として流れ込む効果もある。

 その中で勉強会をすれば、精神力と集中力を鍛えることが出来る。

 魔力が枯渇すれば部屋を出て、魔力が回復したらまた戻る。それを繰り返すことで魔力の最大量と回復力が上がる。


 なんて一石二鳥な特訓……いや、授業なのだろうとシエラは思った。

 だから、こうしてレーナで実験をした。

 その感想が欲しかったのだが、拒否されてしまっては仕方ない。


「では、相談室の方に移動しましょう。スラが紅茶を淹れて待ってくれているはずです」

「ああ……」

「大丈夫ですか? まだ足取りがおぼつかないようですが」

「大丈夫だと、思うのか……?」

「大丈夫ではないでしょうけど……時間が経てば大丈夫ですよ。今のレーナさんは、魔力が枯渇しているだけですから」

「魔力が枯渇だと? だが、私は魔力が……」

「それは間違いです。人は必ず魔力を持っています」


 魔法適性がある人にも、適性がない人にも、人には必ず魔力が宿っている。

 魔力保持量は人によって異なり、魔法の適性がない人が、常人の何倍も魔力を保持している時も稀にある。


 知らない人は多い。……というより、これを知っている人は極少数だ。


 最初にシエラが見出した。

 その後、確信を得るために魔法に精通している同僚と協力し、その説を確実なものへと進展させた。

 これは現国王にも報告している。つまり、この情報を知っているのは、四人だけとなる。


「そうなのか……ということは、私にも魔力があるのだな?」

「はい。それも、凄い量です。適性があったら、今頃魔法使いとして活躍していたでしょうね」


 レーナは適性がないのに、魔力保持量だけは凄まじい希少な人物だった。

 普通の人はあの暗黒世界に一時間と居られない。それ以上存在しようとすると、間違いなく自我が崩壊する。

 だが、レーナは最初こそ恐怖に駆られて発狂したが、それでも三時間は存在できた。


 それだけで一種の才能だ。


 だからこそ──勿体ない。

 どれか一つだけでも適性があれば、レーナはシエラの同僚と並ぶくらいの実力になっていた。


「シエラは、その適性に関係ない魔法を教えてくれるんだろう? なら、私はそれで十分だ」


 結局、自分は騎士でありたいと思っていただろうなと、レーナは言う。

 これは性格だ。後衛で戦うより、最前線で体を張って戦う方が、戦っているという実感が湧く。


「なるほど、いわゆる脳筋ですね」

「……馬鹿にしていないか、それ」

「いいえ、馬鹿にしていません。だって私も、レーナさんに近い性格ですから。大剣を気の向くままに振って、敵を斬り殺す。体を裂く時に剣から伝わる感触が大好きでした」

「シエラのような顔の奴がえげつないことを言うと、少し現実味があって怖いな」

「ええ、事実ですから」

「…………そうか」


 共にいる時間はまだ少ないが、シエラは嘘を言うような人ではないとレーナは知っていた。

 だから、今の言葉も嘘ではないのだろう。

 それはわかっている。わかっているのだが、それでも現実味がない。


「でも、レーナさんはそれでいいと思いますよ。あなたにはやはり、剣がお似合いです」


 そう言われて、レーナは嬉しくなった。

 初めてシエラに、剣を認めてもらえたような気がしたからだ。


「あなたの信念は強い。心は時に、限界を超える力を発揮する。剣を信じ続けていれば、いつか剣もそれに応えてくれるでしょう。だからレーナさんは、これからも自分を見失わずに頑張ってください」

「……ああ、そうだな。言われなくても、私はこれまでに培ってきた剣の腕を信じている。だからどんな試練も──」

「そうですかそうですか。では、更なる枷を追加していきましょうか」

「…………え?」

「大丈夫です。その信念があれば、何でも乗り越えることが出来ますよ。一時間後、次あの部屋に入る時は、深淵の効果を倍にしますね」


 今よりも厳しくなる? 効果が二倍? 一時間後、またあの部屋に……?

 レーナのつぶらな瞳から、ハイライトが消え去る。


「…………いやぁ……しんじゃ、死んじゃう」

「死にませんよ。死ぬよりも辛いことはあるでしょうけれど、大丈夫。死にません」


 それの何が大丈夫なのだ?


 絶望して首を振るだけの人形のようになったレーナは、そんな簡単な質問さえ言うことが出来なくなっていた。

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