05
寮母と別れた後、岬は自分の部屋である217号室の扉と向き合った。
この扉の向こうに自分のルームメイトがいるのだ。それを思うと、岬の中でワクワクが止まらなかった。
寄宿制のお嬢様学校は岬の憧れであったし、暁音には非常に申し訳ないが、キスをしてくれる(と岬は勝手に脳内変換している)ルームメイトと聞いた以上、やはり行かないという選択肢は除外されるのであった。
大きく深呼吸をしながら、岬はルームキーを使って扉を開ける。
扉の先には明かりのついていない短い廊下があった。左側には二つの扉がある。おそらくバスルームとトイレであろう。その廊下の先にはもう一つの部屋があり、扉はなく、部屋の照明が廊下へと漏れていた。玄関からでは部屋の奥までは見ることはできない。
とにかく、ルームメイトはまだ起きているらしかった。
「すみませーん。一条和佐さんはいらっしゃいますかー?」
玄関から呼びかけてみるも、返事がない。
「夜分遅く失礼します。あたし、ルームメイトの上野岬です」
もう一度呼んでも反応がなく、岬は仕方なく靴を脱いで奥の部屋へと訪れた。
ホテルのツインルームのような印象の部屋だ。クローゼットに、簡易なつくりのベッドが二つずつ、同じく二つの机は窓に面して置いてあり、その窓には分厚いカーテンがかかっている。夜中であれば当然のことだ。
そして、机におさめられていた椅子のうちの一つが現在引き出されており……。
そこには、裾の長いネグリジェを着た少女が読書をしていたのであった。
肩まで柔らかく波打たせた、新雪のような髪を持つ美しい少女。
彼女の姿を見た瞬間、岬は胸が騒ぐと同時に、少々意外と思っていた。
暁音から重度の人間嫌いと聞いたから、ずいぶんと不健康で退廃的な印象と決めつけてしまっていた。だが、実際はそうではなかった。灰色の目には理性と生気に満ちており、白い肌はきめ細かく、ネグリジェに包まれた肢体も十分健康そうに見える。
ただ、ちらりとこちらを見る目はかなり不機嫌そうであった。こればかりは暁音の意見に頷かざるを得ない。見てくれがとてもいいだけに、敵意に満ちあふれた表情がひどくもったいない。
普通の人間なら彼女の容姿と態度で気後れしそうであるが、岬は物怖じせずに彼女に近づいて、改めて挨拶をした。
「一条和佐さんですね? 初めまして、上野岬と申します」
同い年の少女相手につい敬語になってしまう。それだけの雰囲気を彼女は持っていた。
和佐は読んでいた本を閉じて膝の上に置いたが、声をかけてきた編入生に向かって顔を上げようとしなかった。うつむいたまま沈黙している。
さすがの岬も怪訝に思い、少女の顔をのぞき込もうとした。その瞬間である。
岬の顔にいきなり両手が差し出された。
「!」
黒い瞳が大きく見開かれる。
ほてった頬に冷たい手の感触がなんとも心地よいが、顔を引っ張られ、灰色の瞳が至近距離までせまってきたときには心臓が止まりそうになった。
乾いたいい匂いが鼻腔をくすぐる。シャンプーの残り香だろう。そのかぐわしい香りを間近で受けながら、岬はふと美しいルームメイトの唇に目がいった。
白い肌に浮くように存在する桜色の唇は、みずみずしく、つやにあふれていた。
それは三年前にルームメイトを追いだした武器と聞くが、正直なところ、逃げ出すのがもったいないほどの極上な唇だと岬は思っていた。
こんな唇でキスされたらどんな気持ちになるんだろう……。
思わずうっとりしていると、白髪のルームメイトはここで初めて口を開いた。
「ここは、あなたの部屋じゃない」
美しい声は、しかし冷ややかだった。表情もまた氷のようである。
「この部屋に二人もルームメイトはいらないわ。さっさと出て行って」
「ちょっと……んむうッ!」
何かを言うより先に、白髪の美少女はさっさとと編入生の唇を奪ってしまった。
岬は素直に面食らった。いきなりのことすぎて歓喜の声を上げる余裕もない。
「んちゅっ、あふ、ちゅぱっ……」
頬を押さえながらネグリジェの美少女は立ち上がる。膝上に置いてあった本が床に滑り落ちたが、それすらも気づいていないようであった。
和佐のキスは清楚な見た目とは裏腹に非常にアグレッシブであった。吸い付くように唇を押し当てたかと思えば、上唇を甘噛みしたり下唇をついばんだりもしてくる。
(うわっ、一条さん。キス、うますぎ……)
暁音の前で特殊な性癖を白状しただけあって、キスに関しては素人ではない。だが、ルームメイトの扇情的なキスにはさすがに全身が熱くなった。頬が上気し、表情がとろけているのがはっきりとわかる。
(まったく、どこで習ったのか教えてもらいたいよ……)
いつのまにか、和佐の手は頬から肩へと移り、編入生の背中を壁に押し付けている。
和佐は灰の瞳を閉ざしているものの冷静だった。頬を官能の色に染めず、ただひたすら事務的に編入生の唇をむさぼっていた。
岬もまた黒い目を閉じて、ひたすらにキスの感触に溺れていたが、しばらくしていきなり唇が離され、岬は驚いて目を開けた。
目の前には、不機嫌極まりない灰の瞳で睨みつけるルームメイトの顔がある。
「……なんて顔してるのよ」
声も明らかに怒っている。先ほどまで熱烈にキスをした者の態度とは思えない。
対して岬は、白髪の少女の神経を逆なでさせるような笑みを浮かべ、それと同時に若干名残惜しそうな口調で言った。
「舌は入れてくれないんですね?」
「…………」
「あ、でも、じゅうぶん気持ちよかったですよ。ありがとうございます」
そう言った次の瞬間、岬の顔から笑みが消えていた。
和佐の手が再び肩から頬に移る。だが今回は思い切り強い力で岬の顔を押しつぶそうとする。
「あっ、あっひょんふひへ~!」
「何を言ってるか全然聞こえないわ!」
ことを起こした当事者にしては立派な態度である。
ひょっとこのような顔になっていた岬はしばらくして解放されたが、その際、自分の頬をさすりながら嘆いたものである。
「もう、なんてことするんですか。明らかに人に見せられない顔になってましたよ」
「そいつはよかったわね」
吐き捨てるように言い、和佐は落とした本を拾い上げて椅子に座り込んだ。
偉そうに脚を組むネグリジェの少女に、岬はなれなれしく笑いかける。
「一条さんのことは前もって聞いてましたが、聞きしに勝る美人さんですね。とっても素敵です」
心からの賛美だが、その彼女はフンと鼻を鳴らすだけだった。
「社交辞令ね。まさか、あなたが部屋に来たのは……」
「えへへ、もちろん一条さんにキスされると聞いたからですよ~」
和佐は盛大に舌打ちした。もっとも、その苛立ちは自分自身にも向けられている。
何せ、相手のことを理解せずにキスをせまってしまったのだから。