01
よく澄み切った四月初めの空である。
透き通る雲が音もなく流れ、箱谷山に生い茂る豊かな緑が鮮やかに萌えている。箱谷山は紅金市有数の憩いの場所であり、上空から見ればさながら山の斜面に沿ってできた緑色の雲のように見えるだろう。
その雲の中腹にひときわ瀟洒な建物の群れが建ち並んでいる。
この地方随一のお嬢様学校である聖黎女学園。その全貌であった。
聖黎女学園は中高一貫校で、生徒たちは六年間を寮で過ごすことになっている。十年ほど前に大改装が行われ、かつての卒業生たちを戦慄させた『ぼろ寮』の面影は完全になくなっており、敷地内に合計七棟ある寄宿舎は、今はとても快適な作りになっているらしい。
現在、それらの寮は入学式が始まるまでの一週間の入寮期間にあった。簡単に説明すれば、在籍中の生徒はこの一週間の間に実家からここへやって来なければならない、というものである。
その入寮期間の四日目の朝。三号棟の217号室に入っている一条和佐は史上最悪の目覚めを迎えていたのであった……。
◇ ◆ ◇
和佐が上半身を起こしたとき、分厚いカーテンはすでに開け放たれていた。理由はわかっている。だが、その理由のことを思うと、和佐は忌々しさをおぼえ、毛布を蹴り飛ばしたくなる心情にかられるのであった。
一条和佐は15歳で、来週には高等科の一年になる予定を控えていた。この年の少女にしては背が高く、すらりとした体躯を飾り気のない白のネグリジェで包んでいる。発育がよすぎるせいか、胸の部分がかなり窮屈そうだ。
そして何より特徴的なのは、うなじまでかかった雪のように真っ白な美しい髪。
和佐は自分の髪に対していい思い出がない。逆に不愉快な思い出ならいくらでも挙げられるが、今となってはこの髪の存在もありがたかった。
というのも、この異質な髪の毛のおかげで和佐は最高の孤独を保つことができた。人を寄せつけず、中等科に入ってから三年間、本来つくべきはずのルームメイトもやって来ず、平穏な時間を過ごすことができたのである。
だが現在、その安らぎの時間はもろくも崩れ去っていた。
なぜならば。
「一条さーん。ちょっと来ていただけますかー?」
明るい少女の声が洗面所から響き渡り、和佐は毛布を掴んだまま硬直する。
石化が解けると、ネグリジェの少女はわざとらしく大きなため息を吐いた。行きたくもなかったが、そのとおりにしないとさらに面倒なことになることを彼女は知っていたのである。
ベッドから降りて洗面所へ向かう。
高等科に入る前に、和佐の元に新しいルームメイトがやってきた。ルームメイトは同学年どうしが鉄則であるから、そのルームメイトも必然的に中学校を卒業したばかりということになる。中等科ではなくて中学校と表現したのは、そのルームメイトが他の学校から黎女(聖黎女学園の略称であり俗称)へと途中編入された少女だからであり、その彼女に対する歓迎の意思があるかどうかは、晴天とは真逆である和佐の仏頂面を見れば明らかだ。
どうしてこんなのと一緒にいなければならないの……という感情をありありと顔に出しながら、和佐は洗面所のドアを開ける。
瞬間、明るいを通り越してむしろ鬱陶しいとさえ思える元気な声が和佐の耳朶を打った。
「じゃじゃーん! どうですか、これ」
硬直する和佐に向かって編入生の少女は、喜色を満面にしながら両手を広げていたのであった。
「………………」
立ちくらみを何とか抑えながら、和佐は目の前にいる少女の情報を思い起こす。
編入生の少女の名前は上野岬というらしい。厳しい編入試験と面接を突破した唯一の少女と聞くから、いかほどのガリ勉少女かと思いきや、予想に反して外見は普通の少女に見えた。
身長は白髪の少女よりわずかに低かったが、この年の女子にしては十分な高さだ。前に垂らした二つの長い三つ編みは、くりくりとした丸い瞳と同様、黒々と濡れている。
薄桃色の頬は健康的にふくらんでおり、桜色の唇はみずみずしく何とも愛らしい。顔立ちは可憐そうに見えて、同時に年相応の愛嬌に満ちており、それでいながら、プルーンのような瞳には厳しい試験を乗り越えた以上の鋭い知性が見え隠れしていた。
この編入生が他の生徒と打ち解けるのはさほど難しくはないだろう。だが、和佐は見た目だけでも彼女とは付き合えないと確信していた。なれなれしい人物は和佐の最も苦手とするところであったが、なんにしても、昨夜の出来事の後では苦手の一言で片付けることはとうていできなかった。まったく、見た目に反してとんでもない娘であると和佐は今でも苦々しさをおぼえていたのである。
衝撃から何とか立ち直ると、和佐はルームメイトの眩しい笑顔から憤然と背を向けた。
「ちょ、ちょっとお、無言で退場は無しでしょう!」
岬は慌ててネグリジェの袖を引っ張り、ネグリジェの少女はうんざりしたように振り返って尋ねた。
「社交辞令で聞いてあげるけど……」
「はい」
「なんだというのよ。その格好は」
「制服です」
しれっと答える岬である。その回答は正しかった。
聖黎女学園の制服はライラック色のワンピースに同色のケープというものだ。袖は長く、スカートの丈は膝の半分を覆い隠し、その裾には黒のレース飾りが縁取りされていた。学園指定の紺色のハイソックスを履き、胸元の紐リボンがなんとも可愛らしいが、編入生の少女が制服を着ていることは尋ねるまでもなく、見ればわかることだった。
「……私が聞きたいのはどうしてあなたが制服を着てるかということよ。今日、制服を着るような用事があるなんて私は聞いてないけど」
「あたしも聞いてません」
「……じゃあ、どうして制服なんて着てるのかしら」
「えへへ、入学式まで待ちきれなくって。それに一条さんにあたしの制服姿をどうしても見せびらかしたかったんです♪」
嬉しそうに頬を染める岬に、和佐は深々とため息を吐いた。くだらないことで呼び出されるような生活が三年間も続くことを想像すると眩暈さえおぼえてくる。
「……そう。あなたの目的も果たせたようだし、私は部屋へ戻らせてもらうとするわ」
「せっかくだから聞かせてくださいよー。感想」
「そんなことわざわざ言う必要は……」
「かんそう!」
声高にせがんでくる。答えないといつまでも解放してくれそうにないと思い、和佐はくたびれたようすで応じた。
「はあ……とてもよく似合ってるわよ」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいです。たとえそれがうわべだけだとしても」
これでようやく編入生は満足してくれたようである。
和佐はやれやれという思いで部屋へと引き返し、岬は新参の小間使いのような足どりで彼女についていく。
岬は自分のベッドに勢いよく小尻を落とし、足をぶらぶらさせながら言った。
「今日はいい天気ですねー。ところで、一条さんの今日のご予定は? もしなければ学園内を案内してくれませんか? もしくは街まで一緒に出かけません? あたし、このあたりのことは全然知らないんですよ」
よく喋る少女である。彼女が遠方からやって来て、紅金市について何一つ知らないことは寮母からすでに聞いていたが、それにいちいち付き合う気にはまったくなれなかった。
「嫌よ。どうして私があなたとなんか」
「えへへ、一条さんと一緒にデートがしたいからですよ~」
屈託のない笑みを浮かべてくる。思春期の男児なら十人中十人が惚れ込むに違いない愛らしい笑顔と台詞だったが、あいにくそれらのものも白髪の少女の不興を買うだけだった。
「出会ってから一日も経ってないのにデートも何もないでしょ」
「でも、出会ってすぐに一条さん、あたしにキスしてくれたじゃないですか」
クローゼットに手をかけようとした和佐の動きが止まった。
顔が一瞬のうちに紅潮する。
それは怒りと恥ずかしさの両方から来るものであり、和佐は編入生の少女に振り返って冷ややかに言った。
「社交辞令で断っておくけど」
声と同じくらい冷たい視線で和佐はルームメイトの少女を睨みつける。
髪の色と同様、これまた滅多に見られないような硬質な灰色の瞳であった。
「昨夜、あなたにキスしたのはあくまで嫌がらせのため、あなたを部屋から追い出すためにしたことなの。断じて、あなたを喜ばせようとしたわけじゃないわ」
和佐の言うことはすべて真実であった。
昨日の夜、217号室に訪れた編入生の少女に和佐はいきなりキスをした。
むろん、愛情によるものではない。むしろいきなりキスされることで不快感を抱かせるつもりだったのだが、そのキスされた張本人と言えば、
「またまたそのようなこと~」
と、心から嬉しそうな笑みを浮かべる始末。
「あんな情熱的なキス、そうないですよ~。あたしも思わず興奮しましたし。できれば一条さんとは、またお願いしたいですね」
「二度としないわよ」
吐き捨てるように和佐は言うが、岬は相変わらず楽しそうにはにかんでいる。
その純情無垢に見える顔は、とてもキスだので喜びそうな少女には見えない。
だが現実は、彼女が口から出る言葉の通りであった。
この先、自分のように騙される人がたくさん出てきそうだわと思いながら、和佐は別のことをぼやいた。
「そもそも、同性にキスされて喜ぶのがおかしいのよ。はぁ……。こんなのとルームメイトだなんて悪夢としか思えない……」
言いながらも白髪の少女はクローゼットから衣服を取り出し、もう一度ベッドルームを出ようとする。
編入生の少女が驚いてベッドから跳ね起きた。
「一条さん、どちらへ行かれるのです?」
「着替えるのよ。いちいちついてこないで」
冷ややかに言い放ちながら和佐は洗面所へ駆け込み、そのまま扉を閉めてしまった。