魔との邂逅⑤
バイトがなかったので今日も家庭科室に向かう。真っ直ぐ家に帰る気分にはなれなかった。
家庭科室は広い。
この広い特別教室が、今日は特に広く感じる。
ここにもう来ない人のことを考えてしまっているからだろう。
今日来ているのは本橋と村木。二人はもくもくと編み物をしていた。
二人も会話が少なく、余計に寂しさを感じさせた。俺も二人とは軽い挨拶を交わした程度だ。
中嶋先輩はほとんど毎日来ていたはずなのだが、今日は来ていない。岡松先輩は……無論来ていない。
俺は持ってきた食材を机の上に広げ始めた。据え付けの冷蔵庫を開けて、入れておいた卵やら生クリームやら製菓用のチョコレートやらを取り出す。本当は2,3日前に入れておいたのだが、バイトやらの関係でそのままだったものだ。
賞味期限にはまだ十分余裕がある。いつもどおりに粉をふるってバターを計る。家庭科室のいいところは、あとで洗う手間はあるが、食器やボウルなどには事欠かないことだ。
製菓の材料は計量が一つの重要なポイントだが、それを分けて置くためにはいくつも容器が必要になる。計りながら調理をすすめるのは、ここぞ!という火加減のポイントを逃したりすることも多いので、可能ならば使う分は先に計り分けておきたい。その点、ここならば実習用で余るほどあるので困らない。
チョコを溶かすと、独特の甘い香りが開く。チョコ好きならば、この香りだけでもノックアウトされそうだ。
いつもやっている作業をするときだけは、煩わしいことを忘れられる。
「阿蘇品君、今日は何作るの?」
本橋が編む手を止めてそう尋ねてくる。顔に食べさせてほしいと書いてある。こういう欲求に素直なところが、家庭科部の中でも愛されキャラでいられる一つの要因なのだろう。
「ガトーショコラ。できたら食べるか?」
「うん!もち!」
ガトーショコラのレシピはメレンゲの手間さえ惜しまなければさほど難しいものではない。材料を一通り混ぜ合わせたら型に入れて、あとはオーブン任せだ。本物のオーブンなら薪の量とかで難しいのだろうが、最近では便利なオーブンレンジのために、ボタンを押してぴっぽっぱであとは待つだけ。シフォンケーキもそうだが、いくつかのポイントを押さえれば、文明の発達が補ってくれる。全くいい世の中になったものだ。
ゆっくりとカカオの焼ける匂いが室内に立ち込めてきたところで、新たな来客があった。
「一樹!またなんか作ってるのかな?」
「お前の分はないぞ、成人」
またどこからともなく成人が現れた。
こいつにも食わせるとなると本当に材料が足りない。別に奥の二人が成人が入ってきた途端にこっそりきゃーきゃーと盛り上がっているのが悔しいから意地悪をしようというわけでは、断じて、ない。
「そんなこと言わないでくれよ~一樹~。俺は一樹の料理の一ファンとして、ちょこっと味見をさせてもらいたいだけなんだ」
「どのくらい食べたいんだ?」
「このくらいかな?」
両手で大きな丸を描く。
「帰れ」
「うわっつめたっ!単に期待の大きさを示しただけなのに!それならこんだけ、こんだけ。ほんっとーにこんだけでいいから!」
今度は親指と人差し指ですきまを作って見せる。こんだけを繰り返すたびに少しずつ大きくなってきている気はしたが、もうツッコむのも面倒くさい。
「わかったわかった。じゃあ後で分けてやるから」
「さすが心の友よ!」
「心はこもってないからなー。誤解すんなよー」
俺の言葉は届いているのかいないのか。成人はほくほく顔で椅子に座って焼き上がりを待っている。それから、ふと思い出したようでこう尋ねてきた。
「そういや、ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「なんだ?」
「あー。岡松先輩のこと。元女子バスケの部員だったんだけど、なんかなかったか聞きたくてさ」
不意打ちで出されたその名前に、俺は思わず硬直した。
「岡松先輩ですか?」
そう言ったのは村木だった。本橋と同じクラスで俺と同学年。おっとりとしていて、あまり俺と積極的に話すこともない。それでも用事がある時に二言、三言交わしたことはある。確か3年に彼氏がいたはずだ。
俺の不自然な挙動を悟られぬうちに村木が答えてくれて助かった。
「そう。昨日家に帰ってないらしくってさ。なんか知らない?」
「うん……今日はこちらにも来てません」
それはそうだろう。来られるはずがない。
「帰ってないって……家出?」
本橋が驚いた顔でそう聞く。成人は眉を寄せて
「それが、どうもよく分からないんだよ。昨日、体調不良で早退したらしいんだけど、それから家に帰った後、どこかにいなくなったって。
女バスの恭子とかが心配してんだよ。岡松先輩が辞めたあとも仲良かったからさ。一樹の顔を見たかったからついでに聞きに来たんだよ」
「え。岡ねぇって部活辞めてたの?」
「ん……ああ。体悪くしたからって」
心なしか歯切れ悪くそういう成人。
「岡松先輩、落ち込んでたもんね……そっか。辞めちゃってたんだ……」
家庭科部の二人も知らないうちに辞めていたらしい。辞めるということは、復帰は難しいほどに腰の調子は悪かったということか。それよりも、俺は岡松先輩の最期が頭をちらついて離れなかった。
「家に帰った後で、いなくなっちゃったの?」
「そうそう。家に帰って、具合が悪そうだってことで親が寝るように言ったんだってさ。で、夜、様子を見ようとして部屋に入ってみたら」
もぬけの空だった、と。
「岡ねぇの家って東区の方だよね?」
「だね」
俺の家も東区だ。だから、偶然にもあそこで出会ってしまったのだろうか。もし俺と岡松先輩の家が離れていたら、岡松先輩がああなってしまう結果は変わらないかもしれないが、少なくとも俺が巻き込まれることはなかった。
卑怯な考え方だというのは自分でも分かっている。しかし、そう思わずにいられなかった。
「どうしたんだろう……岡松先輩、何かあったんですかね」
「……親に何も言わなかったのかな?」
「昨日岡松が出て行ったのは両親も気づかなかったらしいんだよ。ただ……」
「ただ?」
「出て行ったとき、岡松の部屋の窓が開いてたって。だから、最初まさか!……って窓の下を覗いたらしいんだ。もちろん、何もなかったけどね」
まさか!のくだりで女子二人が一瞬肩をすくめたが、すぐに安堵する。
だが、俺は安堵などできなかった。窓が開いていた理由を俺だけが知っていた。その現場を実際に見たわけではないが、あの背中の足が壁をつたって降りていくのが容易に想像できた。
「ちょっと、外行ってくる」
俺は話の輪から逃げるように抜けた。
気分が悪かった。昨夜覚えた吐き気と同じだ。俺の周りに死臭がまとわりついているようだった。
廊下に出て、少しでも新鮮な空気を吸いたかった。
「一樹!」
廊下に出たところで成人に呼び止められた。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「大丈夫。少し、体調悪いんだ。今日は」
「本当か?何か隠してないか?」
成人の目は俺を心底心配していた。しかし、昨日の出来事を話せるわけもない。なにせ俺自身がまだ信じられない話を人にしてどうなるというのだろうか。
「ほんとに、大丈夫だ」
俺がそういうと成人はまだ何か言いたそうだったが、そのまま黙った。成人をその場に残して、少しでも家庭科室から遠ざかろうと歩き続けた。
平穏な日々が崩れていく音がいつまでも頭の中に響いているような気がした。