魔との邂逅④
もう一度歩み始めた帰りの道は、なんとなく須藤から離れて歩いた。
幸い自転車に故障はなかったのだが、須藤を置いてそれに乗っていくのはためらわれたので、押して歩いている。元々、須藤は必要なこと以外には口数が少ない。学校でそれは証明済みだ。むしろ、普通の人にとっては説明が必要なことも言わないので誤解を招く気がするが、須藤の日常には説明できないことも多々あるがために、こういった付き合い方をするようになってしまったのかもしれないと推測した。もとより説明したところで理解を得るのは難しそうだ。俺も今日の出来事が非現実的すぎて何から聞けばいいのかわからず、そのまま家までお互い無言のままだった。
うちに帰り着いてから、俺はようやく口を開いた。
「今日はもう帰れよ」
須藤は首を振った。
「毎日入浴することと、食事をとらせてもらうことが約束だから」
俺は天を仰いだ。
「須藤、お前ふざけてるのか?」
「ううん。あたしはいつも通り」
「そのいつも通りっていうのがふざけてるんだよ!お前、さっき人を殺したんだぞ!」
思わず声を荒げる。
OL風の通行人がびくりと足を止めた。俺がそれに気づいて顔をあげると、おびえた顔のその人と目があった。その女性は慌てて顔を伏せると、足早にその場を立ち去って行った。
ここでこのまま話を続けるのはまずいかもしれない。俺は仕方なく言った。
「中、入れよ」
須藤は言われるままに入って、いつも通りに居間のテーブルについた。俺も向かいに座る。いつの間にそこにいたのか、黒猫もついてきて、今日は廊下ではなく居間の隅で丸くなった。
俺は混乱していた。何から話せばいいのか。そんな俺に須藤の方から尋ねてきた。
「何で怒ってるの?」
「怒ってるんじゃない」
口に出してみて気づいた。そうだ。俺は怒ってるわけじゃない。だが胸の奥にもやもやとした感情がわだかまっているのは確かだ。
「でも、さっきは大きな声を上げたし、帰宅するように言ったでしょう?あたしに非があって拒絶しているんじゃないの?」
「違う。聞きたいことがあるんだ。岡松先輩は……死んだのか?」
須藤は首を傾げた。ややあって
「この世界からは消えたわ。生物としても死んだと言って間違いないと思う」
「そう……か」
まだ飲み込み切れてはいない。身近な人間が死ぬ、という経験がほとんどない俺にとって、そうやって断言してもらってようやく、「岡松先輩は死んでいる」という前提で話をする心構えがついただけだった。
「じゃあ、岡松先輩を元に戻せればよかったんじゃないのか?そんな方法はなかったのか?」
「あったかもしれない。でも、あたしはああするしか方法は知らないの」
「人を殺してるんだぞ!?何でそんな簡単に割り切れるんだよ!?」
「あれはもう人じゃないもの」
俺は須藤に対する感情の正体が分かった。さっきから須藤と距離を取ろうとしているのも、助けられた時に須藤が近づいてくるのに体が反応したのも。
須藤が怖いのだ。
俺が声を荒げているのも、別に怒っているのではない。いわば、虚勢を張っているだけだ。目の前の俺より小さな女子が、怖くて仕方がない。だからそれに懸命に噛みついて、自分に危害を加えないように威嚇している。吠えながら後ずさりする小型犬と同じだ。
「人じゃないって……人だろ?ほんのしばらく前まで人として生きて、そして形も少し変わってはいたけど……」
「時間の経過は問題ではないわ。一秒前に人の形をしていたからって、そんなことに何の意味もない。体組織の器質的な変化が起こってしまった時点で、それはもう人ではないの」
本当に、こいつは俺と同じ高校生なのだろうか。いや、同じではないと始めから自分で語っている。こいつは間違いなく、魔女なのだ。
「それに、阿蘇品君は捕食されかけていた。放っておけばあのまま命を落としていた。そして、あの場で取り逃していれば、あれはまた他の人を襲っていたわ」
理屈は分かる。
岡松先輩はどう見てもこの世界とは異質なものになってしまっていた。俺の姿を認めても迷わず襲ってきたことから考えても、そのままにしていれば遠からず俺以外の誰かが犠牲者になっていたであろうことも。
そして、須藤が自分に都合のいい嘘をついて自分の立場を肯定しようなどということを考えるとは思えない。須藤がそういうからには、犠牲を最小限に抑えるために知っている方法は本当に一つだけなのだろう。
でも、俺の感情はどうしても納得できなかった。
次の言葉を継げない俺に、須藤は話が終わったと判断したらしく席を立った。
「今日は何か納得がいかないようだから、お暇するわ。明日からまた、よろしく」
明日から、よろしく?
何を言われたのか分からなかった。
「ちょっと待てよ。須藤。なんだよ、よろしくって」
「明日の夜は阿蘇品君の家にお邪魔して、食事をしたいという意味だけど?」
「待てよ。ふざけるな!なんで俺がメシなんか作らなきゃいけないんだ!」
――人殺しのために。ぎりぎりでこの言葉は飲み込んだ。さすがにこれは言ってはいけない気がしたのだ。
須藤がつかっと一歩近づいてきた。そして、下から睨み付ける。
「約束、したでしょう」
「約束?あんなものどうだって……!」
「あたしたちにとって、約束は契約と同義よ。違えることは許さない」
俺はうっと言葉を詰まらせた。頭一つ分はゆうに小さい須藤に気圧された。
あたしたち――魔女たち。俺の知らない世界で知らないルールの元で生きる者たち。彼女らの中での約束の重要性。それは俺が友人と普段軽い気持ちで交わすそれとは異なるものであるようだった。
「じゃあ、また明日」
俺はそのまま立ち尽くしていた。
気軽に吐いた言葉を後悔しながら。