変わる日常⑧
その夜も須藤はうちを訪れた。
須藤はあの使い魔の猫とやらをいつも一緒に連れている。外見はしつけの行き届いた普通の黒猫にしか見えない。
俺が猫に向かってぱたぱたと手を振ると、猫は小ばかにするように鼻を鳴らし、俺には一瞥もくれずに横を通り過ぎてお気に入りらしい廊下の一部に陣取った。
……いつかこの畜生には思い知らせてやらねば。
「お邪魔します」
その不遜な猫の飼い主は、一応は礼をもって家に上がってくる。むむ。今日もなんかすごい匂いがする。コールタールにヨーグルトをまぜてぐつぐつに煮込んだような、酸っぱさと焦げ臭さの混ざったなんとも言えない匂いだ。
さすがに俺は我慢できなくなって尋ねた。
「須藤、お前さ、すごい匂いするぞ」
須藤が立ち止って振り返るが、そこに気分を害した色はなく、きょとんとしていた。
「匂い?」
「そうだよ。前から思ってたんだよ。毎日毎日、どこでそんな匂いつけてこれるんだ?」
須藤が困惑した顔で尋ね返してくる。
「それは体臭が不快だということ?」
「い……いや、そういうことじゃなくてだな」
いくら須藤とは言えども傷つけてしまったかと、俺は慌てて首を大きく振った。俺としてもそんなデリカシーに欠ける発言をしたいわけではない。ただ、須藤の匂いは明らかに外部からのものだ。どうみてもモンゴロイドの10代女子である須藤から、こんな異臭の玉手箱みたいな体臭がするわけがない。となれば、どこかからその匂いがついてくる原因があるはずなのだ。
しかし、周囲にはこれだけインパクトをもたらしているその匂いが、須藤自身にはとんとわからないらしい。
「須藤って鼻炎だったりするのか?」
「現在の健康状態は良好よ。アレルギーもないし、総合性感冒も罹患してないわ」
「じゃあなんか家に匂いを出してるものでもあるんじゃないのか?」
「そういうものは……ううん。もしかして」
須藤は鞄からごそごそと何かを取り出した。それは小さなガラス瓶に入った液体だった。無色透明。揺らしてみると向う側の景色がぼやけてみえることから、結構な濃度をもったものだと分かる。それがなければ水と見分けがつかない。
「これのせいかな」
「なんだよ、これ?」
「いわゆる魔女の膏薬よ」
「悪いけど、いわゆるって言われても全然分からん」
「中世の魔女の言い伝えの中にあるでしょ?
魔女が魔宴に行く時に使う塗り薬のこと。それを使うことで魔女は瞬間移動してはるか遠くに行くことができたり、空を飛ぶことができるようになると言われているの」
「へえ~」
ただの水かと思ったらそんな素敵なものだったのか。サバトが何かは分からないが、友人同士の集まりみたいなものかなと勝手に想像した。
「もっとも、これは模造品でそんな効果はないけどね。用途も膏薬じゃないし」
俺は思わずよろけた。
「こらこら。そんなもんをもったいぶって見せたのかよ」
「仕方ないわよ。レシピは不完全な形でしか残っていないし、材料は現代では手に入らないものもある。それに時も星も土地も全てが違うのよ。中世ヨーロッパの術式をそのまま現代日本に持ち込んでも同じものはできないわよ」
「そうなのか?」
「そうよ。材料にしたってヒヨス、ベラドンナ、マンドラゴラ、コウモリの涙、双頭のガマとか……」
うーん。確かに簡単には手に入らない、というかどんな物かもあまり想像がつかないものばかりだ。
「時も中世と現代とでは方式が全く違う。神の御業たる天文、幾何の力を借りずして魔術は成り立たないの。だから、現代日本なら現代日本の魔術を編み出さなければならない。そういった意味では欧州の魔女たちは条件がいいともいえるわね。過去の記録も膨大だし。」
俺は魔術と言えば、かるーく使える便利なものかと思っていたが、須藤の話からすればむしろ普通の手段の方が簡単に思えてきた。瞬間移動の薬があれば学校まで通うのに便利だなと思ったが、そこまで難しい条件をクリアしなきゃならないなら自転車の方がよっぽど楽だ。
「でも、模造品でもこれにはちゃんと効能があるわ」
「効能?」
「そう。短時間ではあるけれど、時間の短縮が可能なの」
時間の短縮というのがどんなものかはわからないが、それはそれですごい効果のような気がする。
「服用すれば、数分間だけなら時間を短縮できる。周囲の時間の流れが遅くなり、自分はその中で早く動くことができるわ」
「へえー……試してみていいか?」
「あまりやらない方がいいと思うけど。体に負担がかかるし」
「ちょっとだけだと効果はないのか?」
「効果時間は服用量に比例するわ。あまりにも少量の接種なら効果そのものがでないけれど」
「じゃあ、ちょっとだけ」
須藤からその小さな小瓶をうやうやしく受け取り、明かりに透かして見る。やはり普通の水の様だ。蓋もガラス製で部分的にすりガラスになっていて、簡単には外れないように工夫されている。
もっとも自称魔女の薬なのだから、効果のほどは疑わしい。しかし須藤は何度か飲んでいるような口ぶりだったので、おそらく害はないのだろう。
それをそーっとあけて、口元に持っていき……
「ぐはっ!?」
脳天を杭で打たれたような衝撃が走った。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないだろ!なんだこの匂い!」
凄まじい刺激臭が俺の鼻を総攻撃しやがった。いや、これは匂いなんて言い方は生ぬるい。臭さの暴力、臭力だ。
唐辛子のみじん切りを鼻に突っ込まれたような感覚に俺は何度もむせ返った。
「もしかして、須藤の匂いの元って……」
「便宜上膏薬と呼ぶけど、これはあたしの研究の主たる目的の一つよ。毎日レシピを少しずつ変更して、より効果の高いものを調合しているの」
こんなものを毎日部屋で作っていたら、匂いが体中に移ってしまうのも道理だ。
「須藤!お前は、きちんと風呂に入れ!毎日だ!」
「わたしにはそんな習慣はない。水と燃料の無駄よ」
「無駄じゃない!これ以上なく有意義な使い方だろうが!少なくとも俺の家に来るときは風呂に入れ!うちの風呂使ってもいいから!」
須藤は俺の意図するところがいまいち分からないのか、じっと俺の顔を見た。それからこっくりとうなずいた。
「わかったわ。それじゃ、早速入浴してくる」
視界の端で、黒猫がつまらなさそうにふわあと欠伸をしているのが見えた。