変わる日常⑤
須藤は確かに約束を守り、昨日の不祥事に関して周りに広めることはなかった。
いや、もともとあいつは友達も少ないし、口数も多い方ではない。口止めなんかする必要はなかったのではないだろうか。それなら俺は余計な厄介事を抱え込んでしまったことになる。
しかし、油断はできない。須藤みたいな口数の少ないやつのぼそっとした一言だからこそ、これ以上ない真実味をもってクラス中いや学年中を噂が駆け巡ることだって考えられる。
「阿蘇品君があたしの下着を……」から始まって「阿蘇品君が下着ドロを」「阿蘇品君が下着を被って往来で…」「阿蘇品君が女性の下着を狙って夜間に徘徊を…」「阿蘇品君が女性の下着を次々奪い取って不埒三昧を!」ふくれあがっていく事実無根の風評を想像して俺は身震いした。
そんな俺の心の内とは裏腹に、見渡したクラスの中はいつも通りの風景だ。
少ない休み時間を利用して睡眠をとるやつ、次の授業のノートを必死で写すやつ、昨日のドラマのワンシーンで盛り上がるグループ、那由他様のお呪いに夢中になる女子3人、部活の打ち合わせに余念がない野球部員etc…
いつもと変わらない……
違和感があった。
本当にこれはいつもと変わっていないか?
俺はもう一度周りを見渡した。
早弁してるやつもいる。こっそり持ち込んだ週刊漫画雑誌の順番待ちをしているやつもいる。まだ終わっていないはずの今日の日誌を書いている日直や、那由他様のお呪い……そうだ。那由他様だ。
俺はこのお呪いを知っている。
机の上に紙を一枚置く。その上に書いてあるのは放射状の八角形だ。その紙とは別に短い鉛筆をくくりつけた棒を用意する。そしてその棒を複数人で握り、八角形の中心に突き立てるようにして、鉛筆を紙に押し付ける。後は待つだけだ。那由他様がその紙の上に降臨され、皆で握った棒は不思議な図形を紙の上に描きだす。それを読み解くと、那由他様の啓示が分かるといったお呪いだ。
テストの山を教えてくれるとか、想い人の好きな人は誰かとか。そんな些細な啓示をくれる実に庶民的な神様によるお呪いである。
一昔前に流行ったコックリさんに近いだろうか。
だがコックリさんは不随意的な筋肉の動きによるものだとか、お呪いに参加した人間の潜在的な意識が結果に反映されているだとかで結果には否定的な見方が後々提言された。おまけに自己催眠や集団ヒステリーの原因になるとかで、当時の教育現場では禁止されたものである。
それにコックリさんとは決定的に違う点がある。
一つはその結果が当たるということ。
コックリさんの場合は先に上げたような理屈からすれば、詰まる所占いの結果を出しているのは自分たちである。自分たちが知っていることや予想できる以上のことは、結果として現れないのだ。
しかし、那由他さまは違う。その結果は100%的中するのだという。
俺はやったことがないから分からないが、やったことのあるやつは口をそろえてそういうのだ。ただし、その代償というか条件もある。
自分が恥ずかしいと思っていることを告白することだ。その告白の重さによって、質問に答えてもらえるかどうかが決まる。これは高校生にとっては結構な難題だ。なにせ、本当にコンプレックスに思っていることでしか目的は果たせない。その上、周りに自分の友人がいるわけだから、その中で秘密が発表されることになる。
知りたいことはあるが、自分が恥をかくのもいやだ。だが、そういうもどかしさが、那由他様のお呪いにどことなく神秘性を持たせていることも確かだ。
俺はぼーっとクラスの女子たちがやっている那由他様の様子を見ていた。
紙の上に描き出された不可解な図形。それは一見するとなんだかわからない。二度見しようが何度も確認しようが、それは一緒だ。第三者の目から見れば。
那由他様に参加した人たちはどういうわけかその不可解な図形の意味するところが、たちどころに分かるようなのだ。
たとえばこんな具合だ。
那由他様をやっている3人の女子生徒がいる。
真剣な表情で短い鉛筆の先を視線で追う。もちろん、描き出された図形が何を示すのか、傍目にみている俺には分からない。八角形の檻の中をひっかかり、跳ねてつまずいた虫の軌跡を追ったようにしか見えない。
唐突に鉛筆の動きは止まり、女子たちがその図形をのぞき込む。そして黄色い歓声があがる。
「えーっ!?明日?早いよーっ」
「よかったじゃん、マサミ!早くて悪いってことないでしょ?」
「でも心の準備が……」
「それより、今日のうちに用意しないといけないんじゃない?」
「あ、そっか。明日渡さなきゃいけないんだ。えーっ!今晩徹夜じゃん!」
「そうそう。でもこれで先輩と…!?」
「もう、やだーっ!絶対ナイショにしといてよ!?」
ときゃっきゃと盛り上がる。すぐ横で見ていたはずの俺は完全に置いてけぼりだ。おそらく恋占いか何かの類をやっていたのだろう。あの訳の分からない、ミミズが盲腸でのたうち回ったような図には日時だの何をするべきだだの憧れのセンパイ♡といった情報が盛り込まれているらしい。
この秘匿性と共感も那由他様が人気になる理由の一つと言えるだろう。元々は女子の間だけのお呪いだったが、最近は男子の間でもちらほらとやる奴が出てきている。
「阿蘇品君、ああいうの興味あるの~?」
「おうっ?」
物思いにふけっているところに突然声をかけられて、思わず変な声を出してしまった。
声の主を見れば、涼やかに微笑む鳴神さんだった。相変わらず、清楚で可憐で可愛いなぁ。その笑顔を見ているだけでとろんとした気分になる。
「それとも、あの子たちの中に気になる人がいるとか?」
「い、いやっ!違う違う!」
とろんとした気分も吹き飛んで、首をぶんぶんふりつつ否定する。
「俺はあの那由他様ってやったことないからさ。どんなもんなのか見てただけだよ」
「そんなのみーんな知ってるでしょ」
「そう。知ってるんだよ。でも、これっていつから始まったんだろ」
「いつからかなー。結構前からだよね」
「それに俺、那由他様のやり方って誰から聞いたのか覚えてないんだよね」
これだけ詳しく知っているのに、覚えていないのだ。誰かに事細かに教えてもらったのか、もしくは噂を盗み聞きしたのか、インターネットのサイトで見たのか、テレビで特集でもしてたのか。まったく覚えがない。
「これだけ流行ってるんだし、誰かから聞いたんじゃない?」
「うーん。覚えてないってことはそうかもなぁ。でもさ、仕組みもよくわかんないんだよ。なんで質問に答えてもらえるんだろとか、あの落書きが理解できるんだろとかさ。電波?テレパシー?」
その言葉を聞いた鳴神さんが驚いた顔をした。
「阿蘇品君はそれが不思議なの?」
「ああ。だって、不思議だろ?」
「ふーん。そっかー。そうかもね~」
なんとなくはぐらかしたかのような返事をして、鳴神さんはにやりと笑った。およそ鳴神さんには似合わぬ笑み。俺がきょっとするのと同時に予鈴が鳴る
「あ、授業始まっちゃう。それじゃね~」
にこやかに立ち去る鳴神さんは、もういつも通りの顔だった。
今のは見間違いだったのか?
そう思いながら鳴神さんの背中を視線で追うと、その先にいた須藤と目があった。いつから見ていたのか、こちらをじいっと見ている。別に悪いことをしていたわけでもないがなんとなく目を逸らした。