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「何事だっ!」
アルフレッドは立ち上がり、報告を求めた。
一人の兵士が転がるように駆け込んで来る。
「ほ、報告します! ば、化け物が突如我が陣地内に進入しました! 剣や砲撃では歯が立ちません!」
「なんだと!?」
剣が効かないとは、どういう事だろうか?
おまけに砲撃も効かないのならば、この砦の装備では対抗するべき手段がない。
もう一つの手段である魔術はこの砦では用意されていない。
三百年前の大戦で失われた『機械』という技術に代わり、新たに生まれた『魔術』。超自然の力を利用する、共和国の最新技術である。
剣よりも銃よりもずっと強力な火力を持つが、魔術を扱う魔術士の数は少ない。そもそも一人前の魔術士を育てるには時間がかかるし、魔術の素養を持つ人間の数も多くはない。
「……」
目を細め、何かを考え込む尋。
心当たりがあるらしい様子だが、混乱する室内では誰も気にする所ではない。
「すぐに出る! クレスタ大尉は俺と来い」
「はっ」
長身の赤毛の男がアルフレッドに続く。
名をジョン・クレスタ。タチアナと違い、平民からの叩き上げ軍人である。軍学校を出たアルフレッドとも違い、まさしく一兵卒から昇り上がった人物である。
「ホーヴァ―少尉は藤間殿の護衛を」
「はっ!」
勢いよくタチアナが飛び出る。むっとしているのが顔に表れているが、根っからの軍人体質の彼女は任務には忠実だ。
「いえ、護衛には及びません。それよりもアレは私に任せてもらえませんか?」
アルフレッドの申し出を断り、尋は立ち上がった。
「は? 何をおっしゃって――」
「アレが魔物、魔界の住人ですよ。声を聞けば分かります。普通じゃないでしょ、あんな叫び声」
尋の言葉にしん、と室内は静まり返った。アルフレッドも何も言い返せない。
言われなくてもあの鳴き声の主がそこらにいる獣だとは誰も思っていない。剣も銃も効かないなんて、普通ではない。
だが魔界の住人となると話は別だ。
魔界。
そんな世界、果たして実在するのか? 共和国ではそんな話全く聞いた事がない。マンガやゲームの中を別にして、だが。
「それは……そうだが」
アルフレッドは躊躇う。
魔界の住人云々よりもずっと、汚染による生物の異常進化と考えた方が納得がいく。
大戦で汚されたのは大地だけではなかった。生物もまた然り。汚染された大地で生きた結果なのか、それとも直接汚染された生物の子孫なのか、ともかく異形の生物は存在する。辺境にはそういう生物が多い。アルフレッドだって、それなら見た事がある。剣や砲撃が効かないのは初めてだが。
「遠慮はいりませんよ。私の実力も知ってもらう良い機会ですし、ね」
「しかし……」
戸惑うアルフレッドを全く気にかけず、尋はすぐ後ろの窓に近寄った。
「失礼しますよ」
一言だけそう断ると、尋は窓を開けた。
そして窓枠に足をかけ、身を乗り出す。
「それじゃそういう事でよろしくお願いしますね。手は出さないで下さいよ」
顔だけアルフレッドの方に向け、笑顔のままで更に付け加えた。
「邪魔なだけですから」
そう言いたい事だけ言い捨て、尋は窓から飛び降りた。
「なっ!?」
タチアナはその挑発的な言葉を聞き、再び激高する。
「貴様!!!」
「ホーヴァ―少尉!」
腰の銃に手を掛けすらしたタチアナだったが、アルフレッドの声に我に返る。
「っ! ……しかしっ」
「君の気持ちは分かるが、ここは彼女の言う通りだ。まずは彼女の実力を見物させてもらおう」
「……了解いたしました」
「各部隊に連絡! 化け物の対処は藤間殿に一任するように」
「はっ」
アルフレッドの指示を受け、ちりぢりに散っていく部下達。
作戦室の窓の向こうは荒野がただ広がっている。その向こう側は帝国軍の領地。
アルフレッドは窓辺に寄った。
窓からは外の様子がよく見えた。
鉛色の空、近いうちに雨が降るかもしれない。雨は貴重だ、こんな荒野では尚更。
魔物の姿が見えた。紫の、狼のような獣だ。首輪をし、大小様々な傷を負っている。大きさは普通の獣の五、六倍。見上げるような巨体だ。
「さて、言葉通り見物させてもらおうか」
「文字通り、高見の見物でありますな」
「……そうだな」
ジョンの言葉に、何故か奇妙な脱力感を覚えながらアルフレッドは肯いた。
「首輪くらい外しとけって……全く。あーあ……お前のことは気に入ってたのに、こうなっては仕方ないな。あーあ……一戸建てに犬を飼う私の夢が……」
腰の刀に手を掛けながら尋は一人、小さな声でぼやいた。
撤退する兵士達は誰も、その呟きを耳にできなかった。逃げ惑うのに必死だ。
誰か一人でもその呟きを聞いていれば、これから先の帝国軍との関係は大きく変わった事だろう。だが共和国軍側に不幸な事に、この呟きを聞いた人間はいなかった。
人間は。
「舐めた口を叩くな小娘がっ!」
紫の獣はばっちりその呟きを聞いていた。
「殺す! 殺す殺す殺す殺す! 喰らい殺してやるわ!!!」
言葉と共に地響きのような唸りが轟く。
獣はピンと大きくたった耳を持つ、狼に似た魔獣だ。
黒い白目に浮かぶ黄色の瞳孔。
体毛は紫。ふさふさで、ゆらゆらと風ではない『何か』によって揺れている。
大きさは尋の身長の約二倍。口を開けると、ぱくりと尋を丸呑み出来そうなでかさだ。
魔獣の首にはまるで飼い犬のように首輪がある。細い革製の首輪で、魔獣の体毛と同じ紫色、よく見ると真ん中に黄色の水晶がはめ込まれている。
「怖い怖い。お前なら一噛みで殺れるだろうね、折角いい番犬になりそうだったのに……」
言葉では残念がっているが、楽しげな表情と声音だ。
それが魔獣の神経を逆撫でた。
「ぬかせっ!!!」
吼えると同時に魔獣は尋目掛けて突進した。
それはまさしく一陣の風。
あっという間に尋の眼前に現れる。
前足を尋に振りかざしつつ、魔獣は大きく口を開けた。
「っ」
尋はさっと空いた手で呪符を取り出し、構え、息を吹きかける。
符術とは帝国に古くから伝わる呪術の一つである。紙等に書いた文字に霊力を込め、術を発動させる。呪符には基本の形があるものの、術者が独自に創り上げる事で無数に術を編み出す事が可能だ。
共和国の複雑で形式化された魔術と違い、単純な術構造であるが故の強さ
を持つ。
尋が持つ符に書かれた文字は雷。
一瞬白い輝きが起こり、一瞬の間の後に轟く雷鳴。
「!!!」
獣は一瞬身体を硬直させたが、それだけだ。
尋の身体目掛けて再び牙を剥く。
「ほっ」
ひらりと尋は身をかわす。
楽しそうな笑顔だ。
ダンスでも踊っているような。
しかし尋自身の言葉通り、一噛みでもされれば尋の身体は一瞬で砕け散るだろう。
一瞬の隙が命取りになる。
そんな極限の中、尋は笑っていた。
「貴っ様!!!」
直ぐさま方向転換し、頭から突っ込む獣。
噛みつこうと大きく口を開け、尋だけを見据えて飛びかかる。
完全に頭に血が上っている。冷静さの欠片もない。だから同じ手にまたかかる。
「単純だな、お前も」
口元は笑みのまま呆れたような言葉を口にしつつ、素早く腰のポーチから呪符を新たに三枚取り出し、獣に向かって投げつける。
三枚の呪符はそれぞれ獣の頭上、左右で浮かんだまま制止する。
「何度も同じ手に引っかかって」
指で印を造ると術が発動。
雷撃が走り、同時に首輪が強く輝いた。
「っ!!!」
獣の身体が大きく揺れる。
「ニンゲン、ごときに……」
「その台詞も二度目だね。いや、三度目かな?」
ごおぉん、と地鳴りのような轟音を立てながら獣の身体は倒れた。
「……まあ、どうでも良いけど」
指の印を解いた尋は皮肉気な笑みを浮かべていた。
自らを嘲笑っているようでもある。
ごろごろと、黒雲がなった。
雨が降り出しそうだ。