二つの太陽
二〇〇八年八月一日の記事
「穂高山中にて男性遭難」
―七月三十一日午後六時ごろ、岐阜県高山市北アルプス穂高岳の滝谷付近にて、愛知県山岳連盟会員でボ―イスカウト指導員の長尾良平氏(二十四)が遭難したとの連絡が、新穂高温泉の登山管理事務所に入った。長尾氏は友人等数名と行動していたが、遭難時はパ―ティに何らかの問題が発生し、長尾氏は単独で行動していた模様。滝谷では、昨日午後四時ごろに発生した震度五弱の地震によって中規模の崩落が断続的に起こっており、それに巻き込まれたとみられる。同県の山岳救助隊および山岳会は、滝谷の崩落が沈静化するのを待って、本日明朝より捜索を開始する。本格的な夏山シ―ズンを迎え、同県では登山者へより一層の注意を呼びかけている――
二〇一二年七月三十一日 中田和渡の登山記
◎午前五時
今日は夏山合宿当日のため、普段よりも早く起床。これくらいに起きていないと集合時間に間に合わないのもあるけれど、明日からは四時に起きなければいけないから、それに慣らすためにも。
楠原先生が、合宿中登山記をとることをすすめていたから、とることにする。仮にも文芸部員でもあるのだし、ちょっと物語っぽくアレンジしてもいいかもしれない。といっても、歩きながら書けるわけではないし、あまり内容に期待はできない。
準備はもう何度も点検したから、たぶん大丈夫だろう。といっていつも何かしら忘れていたりするから、今回も怪しい。でも、今回は、大会みたいに忘れ物をしても減点されないから気が楽。……ボ―ルペンで書いたことを後悔。
今の名古屋は晴れてるみたいだけど、向こうが三日間晴れているかどうかは心配。
(以後、◎印は中田和渡の登山記)
二〇十二年七月三十一日 飯原夏樹の行動記録
●午後一時三〇分
新穂高温泉に到着する。現在地標高・約一一〇〇m。天気・晴れ。ただし、西の山稜に雲がかかっている。北よりの風。気温二十八度。体調不良者なし。
(以後、●印は飯原夏樹の行動記録)
◎午後一時三〇分
やっと新穂高温泉に到着。長かった。今日は歩く時間よりもバスに乗っている時間の方が長いのだ。ずっと同じ姿勢で座ってないといけないのはかなりキツい。その上、高山からここまでのバスは、膝の上に荷物をのせていないといけないから、荷物が落ちないか心配で眠れもしなかった。登山の第一関門だ。
でもその分、バスを降りたときの感動は大きかった。何より、今まで写真でしか見たことのなかった景色が、目の前にあるっというのがいいね。それに天気も悪くない。もうちょっと涼しいと最高なのだけど。山の中だからって、期待していたほど涼しくはなかった。
全員で荷物の最終確認をしていたときに、先生から槍ヶ岳周辺の地図を渡された。どうして今までもらえなかったのだろう。まあ、確かに、持っていてもそんなに見る余裕はない。
細かい地図を見ると、当然たくさんの山の名前がのっていて、それでもってそのほとんどを知らないから、自分の勉強不足がよくわかる。 山の中にはおもしろい名前のやつもあって、その中に「穴毛槍」というのを見つけたとき、思わず「アナゲヤリ?」と声に出してしまった。それがすぐに聞きつけられて、メンバ―の中でちょっと盛り上がった。言葉の響きが気に入られたらしい。
「うっひっひ、あナげやリぃ」
いつものことだが、森町が口にするとなんでもヒワイに聞こえるから不思議だ。
「おまえら、山に失礼」
と言って、森町以下数名を鉄拳で制裁していたのは、賢次だ。部長だ。ワンゲルの。いつもの「岳人」手ぬぐいを頭に巻いている。賢次はK高ワンゲル部切っての山男だが、手ぬぐいを巻いているときは山男というより職人に見える。事実、山男気質なのか職人気質なのかの区別は難しい。とにかく、高校まではボ―イスカウトをやっていただけあって、ワンゲルでは一番頼れる存在だ。
隊列を組むようにと先生から指示が出た。時刻は午後一時四〇分。(ここから先は、一回目の休憩の時に書いている)
隊列は、先頭から、副顧問の村沢先生、副部長の山さん、一年生七人、森町、伸也、自分、賢次、楠原先生の順だ。基本的に、山慣れしている人が前と後ろを固めて、その間は体力のない順に並んでいく。隊列では前の方が歩きやすい。
ともかく、合計一四人ともなると、かなり大がかりだ。新入部員が一人だけだったころもあったことを思うと、かなり持ち直した方、だと思う。
出発のかけごえは、特になかった。皆、思い思いに「よし」とか声を出したり、深呼吸したりしている。準備運動も各自だった。まったく、登山は団体種目だってことを誰か教えてやってほしい。時計を見ると、隊が動き出したのは、一時四十三分だった。
●午後一時四〇分
新穂高温泉より登山行動開始。予定では、午後五時三十分幕営地槍平小屋到着までの、四時間行動。目的地までの総水平距離は七一五〇m
中略
●午後四時二〇分
三度目の休止。滝谷との合流地点。天気・曇り。ときおり雷鳴が聞こえるが、落雷はなし。先生は行動に影響なしとの判断。東よりの風。気温二十五度。体調不良者はなし。ただし、湿度が高く、不快。植生・ヒノキやスギ・ダケカンバなど。また、トリカブトも自生していた。
◎午後四時二〇分
三回目の休憩。だいぶ足が疲れてきた。登山道に入ってからもそれほどきつい道ではなかったけれど、やはり肩に背負った荷物の重みが効く。それに、空が曇り出したのに合わせて湿気が強くなり、汗が止まらない。かぶっていた帽子も、思い切ってはずした。そのうち、帽子よりもレインコ―トが必要になるかもしれない。そんな空模様だ。
空が白ければ、地面も白い。ほとんど真っ白な岩がびっしりと転がっている。地図でみると、ちょうどここらへんは滝谷とルートが合流する辺りだ。滝谷の方には、軽自動車ぐらいの大きさの岩がごろごろしている。ここを登っていくのは難儀そうだ。伸也が岩に取りついて登ろうとしていたけれど、先生に止められていた。どうやら、ここでは岩雪崩が起きやすいらしい。避難小屋があるぐらいだ。この先使う機会がなければいいが……
水筒を両手で持ったままぼおっとしていると、地図とペンを手に持った飯原が、今ってどのあたりでしょうか、と訪ねてきた。ここらへんだよ、と鼻を高くして、地図の川と川がぶつかっているところを指さす。それくらいは分かるのさ。それ以外は分からないけど。
休憩も半分ぐらい過ぎたところで、後ろにいた賢次が前を通り過ぎて、一年生の太田に何やら説教を始めた。どうやら、植物を潰して座っていたのを見咎めたらしい。山で植物を踏んだり、その上に座ったりするのは、重大なマナ―違反だ。山の中だけじゃないだろうけど、山では特に。ここからの会話は、ちょっとおもしろかったから、覚えているだけ、そのまま書いておく。
「ったく、山では一度だめにするとなかなか元に戻らないんだからよお」
「すいません。でも、じゃあどこに座ればいいんすか」
「座るところがなけりゃ、立ってろよ」
「あぁ……」
「で、おまえはこいつの名前分かるか?」
「これって……ただの雑草じゃないんですか」
「残念。雑草なんて名前の草はねぇな。自分の勉強不足を雑草で一括りにするのは、傲慢なごまかしだぜ」
「すいません……」
「うむ。覚えとけよ。雑草なんて名前の草はない」
「それで、その草の名前は結局なんなんですか」
「こいつは……トリカブトの仲間だ」
「あぁ―」
気の抜けた断末魔をあげながら、太田が卒倒しそうになる。トリカブトと言えば、ふぐ毒の次に強い猛毒をもつあれだ。賢次の回りは、当然のごとくちょっとした騒ぎになった。ここでは、賢次がトリカブトを前に平然としていられる方が不思議だ。
「うっへっへ、とリかブとぉ」
うむ、やっぱり、森町の手に掛かると恐怖よりヒワイが先に立つから不思議だ。
賢次によれば、トリカブトも尻で踏みつぶすぐらいなら(人間の方は)問題はないらしい。洗っておくに越したことはないが、といいながら、彼は太田の尻に水筒の水をぶちまけていた。例の悲鳴があたりにこだましたことは言うまでもない。
それにしても気になったのは、すぐ横に座っていた伸也が、賢次と太田との一部始終を、ずっと神妙な顔をして見つめていたことだった。どうも、こっちに来てから何かに思い詰めているように見える。騒ぎを聞きつけた楠原先生が、猛然と輪の中に入っていった。まあ、トリカブトにはこれで大げさすぎるってこともないだろう。
とにもかくにも、山の名言がまた一つ増えた。
「雑草なんて名前の草はない」
●午後四時三〇分
行動再開。体調不良者なし。
●午後五時四五分
槍平小屋に到着。予定より一五分遅れる。現在地標高一九九〇m。天気・曇り。すでに太陽が隠れたため、テント場は暗い。東よりの風。気温二十三度。体調不良者なし。すぐに設営と炊事にとりかかる。
二〇〇七年二月 XX小学校六年E組 長尾伸也の作文
表題「将来の夢」
僕の将来の夢は、兄といっしょに山に登って、植物の調査をしたりすることです。僕の兄は、日本アルプスという山がたくさんあるところで、どこにどんな植物があって、どんなふうに生えているのかということを研究しています。そして、兄は、ボーイスカウトで教える仕事もしていて、山や自然のことにとてもくわしいです。兄はいつも、山の頂上で見る太陽が大好きだと言っています。頂上で深呼吸をしながら太陽をあびると、とても気持ちがよくて、いやなことも忘れられるそうです。でも、僕は体が弱くて、山に登ってはいけないと言われているから、兄といっしょに山に登ることができなくて、残念です。
だから、いつか大きくなって、山に登れるようになったら、兄といっしょに登って、植物の研究を手伝って、それから、いっしょに太陽をあびたいです――
●午後八時
天気・晴れ。風弱い。気温十三度。本来の就寝時間だが、槍平小屋到着の遅れと炊事のもたつきのため、就寝は八時三十分に変更。各自、明日の準備をしたり、小屋の中で遊んだりしている。体調不良者なし。
ミ―ティングで挙げられた注意点
・一定の速さで歩くこと
・日焼けへの注意
◎午後八時
設営と炊事とミ―ティングが終わって、一日目はもう、明日の準備をして寝るだけになった。けれど、就寝時間が少し遅くなって、手が空いたメンバ―は、小屋の方にいって遊んでいる。自分もその一人だ。
槍ヶ岳ともなると、山小屋もしっかりしていて、快適な部屋で寝ることができるし、食堂もある。ジュ―スだって買える。もちろん、ペットボトル一本三〇〇円は下らないのだが。何もしないにしても、外のテント場にいるよりかは、小屋の中にいる方が暖かい。ちょっと変に思うかもしれないけど、今、外は季節が分からなくなるぐらい寒い。防寒着のセ―タ―の上にレインコ―トを着てもまだ足りないぐらいだ。川の水も、氷のように冷たい。
それでも、小屋の中に全員いるわけではない。何人かは、星でも見に外に出ている。寒さと風が吹き流してしまったのか、昼間の曇り空はいつの間にか消えてしまった。小屋の窓からも、澄み切った空気の中で星が瞬いているのがよく見える。今夜は満月だ。
食堂の端の、木製の机―ものを書くには、少しごつごつし過ぎの―が正面に置かれている窓からは、月明かりに照らされたテント場の様子を眺めることができた。テント場には、K高のネ―ムが入ったテントが四つと、それ以外のが二つ。そのうち三つが青色で、二つがオレンジ、一つが黄色だ。夜のテントは、どこか眠っているハチュウ類のこうらのようにも見える。ここからは見えない川の流れが、ざあざあと音を届けている。なかなか悪くない絵だ。
よくよく目を凝らしてみると、その絵の中心に、誰かが二人立っている。一人は、頭に巻かれた白い手ぬぐいからして、賢次だろう。もう一人は、よく見えないが、一年生ではないらしい。とすると、小屋の中には森町も山さんもいるから、消去法で伸也ということになる。珍しい取り合わせだ。何をしているのかも話の内容も想像できない。ただ、二人ともどこかを見つめるようにして動かないから、やっぱり夜空を見ているのかもしれない。こいつは剣呑だ。ん、剣呑の使い方はこれであっているはずだが? 森町に見咎められないことを祈るしかない。なんて。
しばらく変化のない窓の外を眺めていると、さっきまで囲炉裏で手をあぶっていた楠原先生がやってきて、長尾と安田はどこかと聞いてきた。あそこにいますよ、と答えると、先生はなぜか、ふむ、とうなった。少しの間窓の外を眺めてから、この手帳をのぞき込んで、中田も好きだなあ、と言ってまた帰って行った。ええ、好きですとも。
少しすると、やっぱり同じところに立ち尽くしている二人に、背の高い人影が近づいていって、また少し経つと、三人は方々に散っていった。こっちもそろそろ、テントに戻る時間だ。
二〇〇八年八月二日
山岳救助隊による報告(書面)
―長尾良平氏の御家族の皆様におかれましては、そのご心配のほど、深くお察し申し上げます。当方におきましても、全力をかけて捜索を継続しております。
さて、このほど、良平氏の捜索活動において進展が得られたために、これをご報告する次第であります。
第一に、良平氏の遭難場所は、氏のものと見られる血痕の発見状況などから、滝谷の中流域付近と推定されます。これは先日のご報告内容と一致します。
第二に、良平氏の遭難時身につけていた物品が、滝谷中流で多数発見されました。発見されたのは、氏のアルペンステッキ・ヘッドライト・手ぬぐい、上着など衣類品です。これらが発見された当時、幾つかの岩と木材とが氏の衣類でつながれ、アルペンステッキと石組みをつっかえとして支えられている状態で残っていたため、良平氏はその下で落石を逃れようとしていたと思われます。氏の同行者にすでに発見された物品の確認を済ませております。
以上の事実に基づき、今後の捜索活動は、良平氏の物品が発見された地点付近に重点を移し、隊員総動員態勢で氏の救出を目指す所存であります―――
二〇一二年八月一日 中田和渡の登山記
◎午前四時
目が覚めたとき、同じテントだった賢次はもう起きていて、外で朝食の準備を始めていた。一年生はまだぐずついていた。気持ちは分かる。非常に寒い。夜中には何回か目が覚めた。きっと理由は寒さと寝床の固さだ。ずっと腰の辺りに大きな石が当たっていた。
手帳を開いていると賢次が来て、書いてばかりいないで手伝うように言われたから、とりあえずペンを置く。
二〇一二年八月一日 飯原夏樹の行動記録
●午前四時
起床。天気・快晴。風弱い。気温八度。非常に寒い。体調不良者なし。これから朝食の炊事にとりかかる。
二〇〇八年四月一日
愛知県山岳連盟月報 特集記事
表題「雑草なんて名前の草はない」
―今特集では、愛知県登山連盟会員であり、ボ―イスカウト愛知連合指導会員の長尾良平氏に談話をいただき、その模様を掲載した。長尾氏は、XX大学において高地における植生を研究し、同大学大学院に身をおく現在も、日本アルプスにおける新種の植物の発見など、弱冠二十四歳にして、その方面で多大な成果を上げている―
はじめに
「この度は、自分のような若輩者を、この特集の紙面に載せていただき、まことにありがとうございます。たまには若者の声も聞いてみようということなのかもしれませんが―とにかく、名誉なことだと思います。」
近年の活動について
「私がこの数年来、大学生活を通して行ってきたのは、もっぱら日本アルプスの植生を探るための調査登山です。もちろん、山に登ることを主体としたことも多々ありました。そのようなときは、登山中に見つけた植物の記録をこまめにとりながら、これはなんだ、あそこに見えるのは何の木だ、と、同行者と植物の名前を当てあうのを楽しみに登っています。
日本アルプスの植生といえば、ウェストン氏らの時代から、冒険登山が繰り返されるたびに、少しずつ研究がなされていきました。しかし、今でも未踏・未研究の場所が、少しでも登山のル―トを離れれば、たくさん残っているわけです。そうした場所の植生を、ちょくちょく道に迷いながら調査し、成果を体系化していくのが私たちの研究です」
タキダニトリカブトの発見について
「この新種のトリカブトの発見は、全くの偶然でした。発見時は、どちらかと言えば登山メインのつもりで夏の槍ヶ岳山域に入っていたのです。滝谷の中流域、二つの沢が合流するあたりのところで足を休めていたとき、同行者の一人が不注意で植物の上に座っているのを見つけて、すぐに立たせました。そのとき、彼の尻に敷かれていたのがこのタキダニトリカブトでした。
はじめ、私はその潰された植物が何なのだろうと、自分の知識から探り出そうとしました。葉の形や容姿から、トリカブトの仲間だろうということは予測がつきました。しかし、そこから先が分からない。私の知っているトリカブトの仲間と照らし合わせても、微妙にどこかが違っているし、トリカブトとよく似ていることで有名なニリンソウなどとも違っている。そういうわけで、その株の一部を採集して、大学で調査をしたところ、新種のトリカブトであるということが判明しました。後に分布を調査したところ、滝谷の周辺にのみ群生していたことから、タキダニトリカブトと名付けました。この発見は、Y君の不注意のおかげと言わなくてはならないでしょう」
●午前五時三十分
登山行動開始。予定より三十分の遅れ。天気・快晴。北よりの風。気温十二度。体調不良者なし。行動予定時間十時間、総水平距離約七四〇〇m。午前十時登頂予定。
◎午前五時三十分
朝食の片付けが終わった。予定よりだいぶもたついている。この様子だと、出発までまだかかりそう。
テント場は昨日の夜よりもだいぶ寒い。これが山では普通なんだろうか。天気は気持ちの良いくらい快晴で、雲一つ見あたらない。でも、太陽は山にまだ隠れているから、明るくはない。この様子だと、頂上に着くまで晴れてそうだ。
昨日、就寝の前に伸也と二人で何をしていたのか、賢次に聞いてみた。賢次は、ただの昔話としか言わなかった。妙に馬鹿にされた気がする。昔っていつだ。
出発間際に、なにやら一年生が集まって騒いでいた。耳をそばだてたところによると、どうやら、誰かが昨日のトリカブトの葉っぱをちぎってもってきていたらしい。なかなか度胸があると思う。でも、その騒ぎはすぐに賢次に鎮圧された。あれほど本気で怒ったあいつも珍しい。主犯の鳩尾に思い切りアッパーショットを食らわせていた。あのトリカブトはよっぽど貴重な種類だったらしい。まあ、自業自得だ。
今日も出発の合図がかけられた。昨日と同じ並び順、と思ったら、伸也が賢次の後ろに並んでいた。体調でも悪いんだろうか。とにかく、前にいるのは森町だ。少しいやな予感がする。
表題「雑草なんて名前の草はない」について
「『雑草なんて名前の草はない』というのは、私が高校生の時、山岳部に所属していたときの恩師の先生からいただいた言葉です。
私がまだ、それほど植物というものに興味を持っていなかったとき、抜き打ちで植生のテストをやることになりました。そのとき、先生に指さされた植物を見て、つい、頭に浮かんだとおり「これ、雑草じゃないんですか」と答えてしまいました。それに対して、先生が、例の言葉で私を諭したというわけです。先生の説教はこんな風に続きました。
「雑草なんて名前の草はない。あるのは君の怠慢だ。そもそも、植物にだって、我々と同じように一株一株固有の名前があるのかもしれない。しかしそれを無視して、人間はこちらで勝手に決めた名前でひとまとめに同種の植物を呼んでいる。植物から受けている恩恵を考えれば、それだけでも無礼なことだ。ましてや、その名前さえも知ろうとせずに、雑草呼ばわりするのは、身の程知らずというものじゃないか」
僕はこれと同じようなことを、もう少し柔らかい表現で(先生はずいぶん大時代なところのある人でした)、ボ―イスカウトの植物講座で教えています。
そもそも、最近の学生だけでなく、多くの人は、身の回りの植物について知らなすぎる。もちろん、庭の草取りをするときに、いちいち抜いていく草の固有種名を考えないといけないとか、そういうことではないですが。それにしても、私たちの生活は、植物や自然から離れすぎてしまった。今でも私たちの生活のほとんどは植物から享受したもので成り立っているのに、そのことを思い出させてくれる機会がどんどん少なくなっています。そうした傾向というのは、あれこれと理由を考える前に、直感的にも、間違っているんじゃないかと思います。そうした傾向の中では、トリカブトみたいな植物を尻に敷いていたとしても気づかないわけですし、それはとても危険なことです。もちろん、利己的な考えのもとで植物を知ろうとしても、その知識は限定的で、屈折したものになってしまいます。植物の知識というものは、自然に対する敬意やあこがれの中から、自然に育ってくるものだと思います―――
●午前七時四十分
千丈分岐点に到着。二度目の休止。現在地標高約二五〇〇m。天気・快晴。しかし太陽はまだ稜線から出ず。西よりの風。気温十八度。これより槍ヶ岳西面のカールに入る。背後には笠ヶ岳。下川が引き続き腹痛を訴えている。その他は体調不良者なし。灌木見られず、ハイマツがところどころ群生している。
●午前九時四十分
槍ヶ岳山荘に到着。現在地標高約三一三〇m。天気・快晴。日差が強い。北よりの風。気温二十四度。体調不良者なし。休憩の後、午前一〇時より登頂開始。
二〇〇八年八月二十五日付け
岐阜県警山岳課保管 安田 聡太氏の事情聴取記録
供述調書
本籍 ********
住居 愛知県名古屋市********
(電話 ********)
職業 大学院生(XX大学)
氏名 安田聡太 昭和五十九年六月十日生(二十四歳)
上記のものに対する遭難事件の発生経緯及び発生時における状況について、平成二十年八月二十五日 岐阜県警高山警察署において取り調べたところ、任意次のとおり供述した。
一、私は、本年八月三十一日午後七時ごろ、岐阜県高山市穂高岳山域滝谷付近の避難小屋において、本件で遭難した長尾良平氏と逗留をしていました。これは、その後発生した長尾氏の遭難事件について、その発生経緯と発生当時の状況について取調を受けているものです。
二、私は、遭難事件発生の二日前、七月二十九日より、前述の長尾良平氏、******氏・******氏と、穂高岳西面の植物分布状況を調査するための研究登山をしていました。山行の行程は、初日に上高地から涸沢を登って穂高岳山荘に一泊し、二日目は穂高連峰を北へ縦走して南岳小屋に一泊、三日目は南沢を降りて槍平小屋に荷物を置き、滝谷を中心に植生調査をし、槍平小屋に一泊。四日目に新穂高温泉へ下るというものでした。研究登山は大学院での活動の一環として、同じメンバーで頻繁に行われていたものです。
三、申し遅れましたが、遭難事故発生時のメンバーでは、長尾氏が最も登山経験を有しており、その他は、大学入学後に登山を始めた初心者でした。ですから、当日の登山行動に当たっての諸判断はすべて長尾氏に委ねられていました。長尾氏は小学校在籍時にボーイスカウトを始め、高等学校在籍時には山岳部に所属し、大学入学後も積極的に登山を続けていました。平成十七年年からは、ボーイスカウトの指導員も勤めていました。私の弟が彼の指導の下でボーイスカウトをしていたこともあり、私は彼を全面的に信頼していました。
四、遭難事件発生の当日、私たちは午前五時に起床して南岳小屋を出発し、午前十一時ごろに槍平小屋に到着して、その後午後五時まで、付近の植物分布などについて調査する予定でした。具体的な調査内容としては、昨年平成十九年に長尾氏が発見したタキダニトリカブトの分布と自生状況の調査に重点を置いていました。タキダニトリカブトは滝谷付近でしか発見されておらず、大きな研究課題となっていました。
五、遭難事件発生の直前、七月三十一日の午後四時十七分、山鳴りが聞こえるほどの地震が起こりました。私たちが滝谷避難小屋の近くを歩いていた時でした。後で聞いたところによると、その地震の震源地は上高地の近くで、震度は五弱でした。その時、揺れによって焦燥を来したために、私は足を踏み外し、転倒しました。その際右足首と腰を負傷したため歩行困難に陥りました。そこで、私は滝谷避難小屋に残ることになり、長尾氏に一日分の食料を槍平小屋から持ってきてもらい、その日の夜は、私と長尾氏はその避難小屋で明かすことにしました。残りの******氏・******氏は、槍平小屋に戻りました。これらの行動の判断も、すべて長尾氏によるものです。これ以後私は避難小屋から出ていないので、外の様子がどうなっていたのかは分かりません。
六、午後五時に長尾氏と軽い夕食をとり、今回の調査についての話などして時間を潰していました。その間、ごろごろという音が小屋の外から聞こえていましたが、雷の音だろうと思いました。
七、遭難事件発生当日は、日中曇りで、時折雷鳴も聞こえていました。
八、午後六時ごろ、槍平小屋にいた******氏から無線で連絡が入り、滝谷で中規模の崩落が起きているとのことでした。そのときようやく、外のごろごろという音が、崩落によるものだと知りました。しかし外の様子はやはり見ることができなかったので、どの程度の崩落が起きていたのかは分かりません。その連絡を聞くと、長尾氏は顔色を変えて、山行をする準備を始めました。準備というのは、手ぬぐいを頭に巻く、ヘッドライトを装着する、軍手をはめる、調査道具を携帯するなどです。私が長尾氏にそうした行動の理由を尋ねると、彼は、滝谷中流域で発見されていたタキダニトリカブト株の状況を確認し、被害がなければ保護をしておくとのことでした。どのような方法で保護をするつもりであったのかは聞いていません。私は、滝谷の崩落がどのようなものであるのか知らなかったために、長尾氏が現場へ向かうのを止めることはしませんでした。くれぐれも注意をするようにと声をかけただけです。長尾氏は、七時過ぎには戻ると言って小屋を出ました。外がまだ明るかったことは確認できました。
九、長尾氏が小屋を出てから、私は何もせず、外でごろごろと音がするのを聞いていました。長尾氏の安否に不安はありましたが、彼の登山技術に対する信頼の方が大きかったのです。この間、一際大きな地響きが、二、三度聞こえました。
十、その後、午後八時を過ぎても長尾氏は帰還しませんでした。いくら長尾氏でもこれはおかしいと思い、私は無線で槍平小屋の******氏に連絡して、救助を要請するように言いました。それが、午後八時十五分のことです―――
●午前十時
槍ヶ岳登頂開始。天気・快晴。北東よりの風。気温二十五度。下川が山荘に残ることを希望したため、十三人で行く。山頂付近は混雑が見受けられないが、困難な足場のため、一人ずつ慎重に登っていく。
●午前十時三十分
全員が登頂終了。現在地標高三一八〇m。天気・快晴。眺望よく、富士山も発見できた。北よりの風。気温二十三度。記念写真など撮る。しばらくした後に下山を開始する予定。
◎午前十時三十分
登りのハシゴから、最後尾の楠原先生の顔が見えて、ようやくK高ワンゲル部全員が槍ヶ岳登頂完了。
雲一つない青空の下で、見渡すものすべてが輝いている。これはいいね、としか言葉が出ない。
君は、地球の姿をその目で見たことがあるか。今、僕の目の前にそれがある。
少し大げさかもしれないが、それくらいの感動はある。たとえ名前の響きに騙されたとしても、ワンゲルに入って良かったと思える瞬間。
最後の崖登りはスリル満点でなかなかえげつなかったけれど、気温がそんなに高くなくて、湿気もなかった分、今日は登りやすかった。
いや、さっきK高ワンゲル部全員が、って書いたけど、そうじゃなかった。一年の下川が山荘にいるのだ。本当なら可哀想に思うところだろうが、下川の場合なぜかそういう気持ちが起こらないから不思議だ。
狭い槍の上では、皆、足下を気にしながら写真を撮ったりしている。本当に、まわりは足を踏み外したらどこまでも落ちていきそうな急斜面、いや、断崖絶壁だ。富士山の頂上なんかとはわけが違う。下川も、やっぱり来ない方がよかったかもしれない。
少しの間頂上の眺めを楽しんでから(富士山も見えた。他の山の名前はほとんど分からないけれど、どれも写真でしか見たことのない景色が眼下に広がっている)、皆で記念撮影をすることになった。やっぱり足場を気にしながら、ひとところに集まる。そこで、肝心の賢次の姿がないことに気がついてあたりを見ると、南側の端に、伸也と腰を下ろして、太陽でも眺めているらしかった。全員で呼ぶと、二人ともやっと気がついてこっちに駆けてくる。危なっかしい。でも、二人の顔はこの青空に負けないぐらい晴れやかで清々しそうだった。まあ、二人の間で何かあったのだろう。すかさず森町が、そのことで二人をおちょくっていた。
「ウッヘッヘ、フぅたリきり」
やはり彼はヒワイである。
記念写真を撮り終わってから、頂上の南端に立ってみた。さっき二人が見ていたものが気になったから。
やっぱり南向きだから、昼の太陽がまぶしかった。今、日本で五番目に太陽に近い場所にいるのだ。
下の方を見てみると、右手にはさっきまでいた槍ヶ岳山荘があって、正面には、長い稜線が続いている。その先にある頂上は、奥穂高だ。それくらいは分かる。と、奥穂高の頂上から少し下りた斜面が、太陽に反射して、いや、太陽に負けないぐらい、金色に輝いているのに気がついた。あれは残雪じゃない……花か何かだろうか。確か登ってくる途中にも、小さな花が群生しているところはあったけど。詳しくどこかは分からないが、どこかの谷だ。あとで、地図で探そう。
その輝きは、とてもきれいだった。写真に撮っておくなんてことも思いつかずに、下山する時間になるまで、ぼんやりと二つの太陽を眺めていた。
二〇一二年七月三十一日 楠原の登山記。
午後八時二十分
槍平小屋の到着時間が予定より遅れたことと、炊事がまごついたこともあり就寝時間を遅めたが、それはあまり必要なかったようだ。生徒はみな、すぐに明日の準備を終わらせたらしく(そういうことにしておくが)、テントを抜け出して、星を見たり、小屋に遊びに来たりしている。確かに、山で過ごす夜長は、心躍る。自然の楽しみは、キャンプファイヤーがあるかどうかなどではない。
日中とはがらりと変わって、空ではプラネタリウムにも劣らぬほど星々が輝いている。こういったものを形容するために言葉をたぐる喜びは、いくつになっても変わらない。また、そういうものであり続けて欲しいとも思う。
とにかく、この様子であれば明日はよく晴れるだろう。昨年の合宿は台風のために中止になったし、一昨年は二日目から嵐の中を行くことになった。それを思えば、今年は穏やかな山行ができている。私が雨男だというのも返上できたかもしれない。
すべてが安定した方向へ落ち着くことが確認できているからこそ書くことだが、今回の合宿で一番の心配事であったのは、安田と長尾のことだ。ことの一部始終を書こうと思えば、これはもう登山記と彼らに起こった事件記のどちらが主で従であるかが分からなくなってしまうからやめるが、やはり、巡り合わせとは不思議なものだ、ということに尽きる。
良平君のことは、今でもよく覚えている。かつて、私の教え子であった時の姿も、山岳会員として登山に同行した時の姿も。明るくて、勉強熱心で、山に誠実な青年だった。その性情は彼の弟よりも、むしろ安田のほうが似ているかもしれない。良平君の弟がK高に入学してきたという噂を聞いたとき、ワンダーフォーゲル部に仮入部をしに来た中で、彼がそうなのではないかと勘違いをしたほどだ。しかし、さらに驚いたのは、安田賢次の兄が、安田聡太君だったことだ。いや、得てして、人生というのはそういうものなのかもしれない。
そうなると、二人がそれを知って、関係が不安定なことになるのではないかと、ついさっきまで心安まることがなかったのだが、ようやく、それも杞憂であったことが分かった。互いのことが知られないようにと腐心していたのも、半ば余計なおせっかいだったようだ。あるいは、もっと早くに知れていた方がよかったのかもしれない。やはり、若いというのは羨むべきことのようである。ああ、大時代な人間だった私も、丸くなったものだ。
そういえば、さっき安田から聞いたことだが、普通のトリカブトは秋になると、青紫色の、面妖かつ妖艶な、化け狐の横顔のような花を咲かせるという。しかし、世界中でタキダニトリカブトだけは、夏、黄色の、朝日に対して太陽のように輝く小さな花を咲かせるそうだ―――
二〇〇八年九月一日
愛知登山連盟月報 長尾良平氏の追悼記事
去る先月八月七日、穂高山中にて遭難との知らせが入っていた、長尾良平氏の遺体が、滝谷下流にて発見された。故人は今年四月の同報特集記事において取り上げた通り、日本アルプスの高山植物研究において、多くの功績を残し、今後もその方面での貢献が期待されており、かつ、新進気鋭の登山家としても注目されていた。これは故人の早すぎる死を悼み、そして故人の山に生きた足跡を讃えるものである。
右に、編集部に寄せられた追悼のメッセージを掲載する。第一文は、長尾氏と共同研究をしており、故人が遭難する直前まで行動を共にしていた、XX大学大学院の安田聡太氏。第二文は、長尾氏の高校時代の恩師であった――……
「偉大な研究者であり、登山家であった友の死に際して」
はじめに、良平君のご家族の皆様、そして彼の死を悼むすべての皆様に、お悔やみ申し上げます。僕のようなものが代表としてこの追悼文を残すことが、適当なのかどうかは分かりませんが、しかし、長尾良平の親友として、そして最後に彼の後ろ姿を見送ったものとして、僕にはその責任があるのかもしれません。
君は、偉大な研究者でした。君の残した研究成果は、まだ決して多くないかもしれないけれど、きっと、こんなことがなければ、日本アルプスのどの山よりも堆い成果を残しただろうと思います。それだけ、君には情熱があり、根性があり、そして、自然への敬意、植物への愛着があった。僕なんて足下にも及びません。
タキダニトリカブトを発見してからは、君はその新種の植物に、何か義務感を持っていたみたいですね。君が遭難をしたとき、落石の止まない滝谷へ駆けて行ったのも、滝谷に一株だけ咲いていたそれを、守るためでした。私は、君を止めなかったことを後悔しています。でも、もしどれほど君を引き留めていようと、君は意思を曲げなかったんじゃないかとも思います。
研究者である以前に、君は偉大な登山家でした。君は、研究登山のときにも、山の頂上で晴れた空に太陽を望むことを、何よりも楽しみにしていました。そうして太陽の光に身を焦がれることで、研究への情熱を蓄えていたのでしょうか。
また、君はよき指導者でもありました。僕の弟は、君の教える下でボーイスカウトをしていました。弟は、いつも「良平先生」と君のことをしたって、よく君の話をしました。そうしたときに弟の口から語られる君の姿が、僕がいつも山の中で見ていた親友の姿と少しも変わらないのが、どこかおかしくもありました。弟は、君の死を信じられないようでしたが、しかし、今は、君の情熱を受け継ぐつもりにでもなったのか、植物の研究家になると言って曲がりません。
君には、夢がありましたね。「今は体が弱くて山に登れない弟と、いつか一緒に頂上に立って、一緒に太陽を眺めていたい」と、君は遭難する直前、初めて僕に語ってくれました。俺の弟も、やはり研究者を目指しているんだ、と。
良平、君が守ろうとし、叶えようとしたことを、僕に受け継がせてください。僕にはその義務がある。僕は君の守り抜いた小さな命を守り抜いて、谷一面に、輝く太陽を咲かせてみせるから
君への弔いではなく、君の思いを受け継ぐ彼らのために――
―― がらがらという不吉な音は、暗闇にこだまし、まだ鳴りやむところを知らなかった。それどころか、時を追うにつれて一層その響きを大きく、長くしているようでもある。奈落の底から漏れ出す地獄のうめきのように続く轟音。
良平は、胸の下に隠れた、早咲きの、小さな黄色い花弁にこうべを垂れた。諦めるにはまだ早い。しかし、本格的に崩落を始めたこの悪魔の谷で、活路を見いだせる確率はいくばくだろうか。ヘッドライトだって、もうどれだけ操作してもその瞳に灯りを宿さない。いやしかし、ここに留まっていても死を免れるとは限らない。
俺には夢があるのだ
彼は吠えた。言葉にならない咆哮。
俺には夢がある そしてそれは、俺のものばかりではない
こんなところで終わるわけにはいかない
俺には約束がある
……いや、たとえ俺がだめでも、こいつだけは――
一つの影が、岩石の雪崩れする谷の中へ躍り出た。それは、何か怒声に似た雄叫びをあげながら、岩の埋め尽くした下り坂を駆け下りていった。その雄叫びを覆い隠してしまうかのように、谷は轟く。
小さな屋根の内に隠された、やはり小さな早咲きの花弁は、ぼんやりと、眠ってもなお光を放つその横顔で、光輝く朝を夢見ていた。
この小説に登場する槍ヶ岳およびその周辺の地名・小屋は実在しますが,この小説および,この小説に登場する人物・団体はすべてフィクションです。また,小説中の「タキダニトリカブト」も架空の植物です。