大道芸人
悲しんだりできたのは、2ヶ月も3ヶ月も後になってからだった。
それも、人の手で助けられてからで、男として情けない……のか?
無慈悲にも流れ行く時間のせいで、気づけば浪人1年目の春が過ぎてゆく。
予備校に通うこともせずに、日々ブラブラ歩き回る生活。
浪人というよりフリーター、ニートの部類だなと自嘲する。
目の前に鏡があったなら、そんな風に笑う自分に逆切れしてこぶしを振り上げ――
やめようこういう考えは、馬鹿馬鹿しい。
もはや見慣れたといっていい駅前ロータリー。昼時を過ぎてなお、その場所は人が大勢群がっていた。
だが、そんな有象無象の中に入って思い知る。
自分も結局は有象無象の中の1人であって、取るに足らない存在である。
全人類の過去を平均してみれば、もれなく俺の過去もその平均にすっぽりはまるんだろうよ。
そう思うと涙が出てくる。
あの日、隣にいた温かさも良くある風景と考えるのは、今でも嫌だったから。
あの日、突然訪れた極寒の世界も良くある日常だと、認めたくはないから。
「久しぶりに見るけど、やっぱすげぇな」
「それに、女性ってのは珍しい」
気づけば駅前ロータリーはいつもと違う雰囲気に飲まれていた。考え事をしていて気づけず、周りの雰囲気に流されず、しかし孤独に孤立してしまった。
バスやタクシー待ちの人も、駅に出入りする歩行中の人も、皆一様に同じ方向を見ている。
まるで物音に反応した猫のようだと少し怖くなった後、結局その方向に視線を向けた。
どうってことはない。向けた先には大道芸人が1人いるだけだった。
今は、どこで仕入れるのか分からないボーリングのピンを奇数個、空へ舞い上げている。
その軌道の奏者である人物は、確かに珍しく女性のようだった。
暦では初夏を迎えたため、今日のように風もなく雲もなければ太陽が嫌ってほどに地面を焼く。
クルマのボンネットなら目玉焼きだって焼けそうな中、汗だくになりながらも笑顔を絶やさずに1つ1つを宙へ投げる。
やがて一際大きく投げてから、ピンが1つ1つ空中から消える。
最後の1つがしっかりとキャッチされ、やはり笑顔のままポーズを決めた。
囲む人間から拍手が起きる。お金ではない、それでも価値のある音に、もう一度頭を下げてから次の物へと手を伸ばした。
昨日まで居なかった大道芸人が駅前ロータリーを支配してゆく。
1つの芸が終わるたびに拍手が起こり、それに礼を尽くしてからまた次へ。
小劇場の無限巡回は、さらに多くの人の足を止めていた。
ぼーっと大道芸を見ていると、人垣の中から女性の声が聞えた。
驚いた、悲鳴のような、そんな声は高く拍手や人のざわめきに消されることなく、その場に響く。
声の発生源に反射的に顔を向けると、そこには倒れた女性。視線の先には女物のバッグを持った男が1人、こちらへ走ってくる。
慌てて立ち上がった。状況から見ればひったくりであることは容易に分かる。そんな男が自分の方へ走ってきたら、男特有の蛮勇が目覚めるってもんだ。
俺だって例外ではなく、まるで悪を裁く正義の味方気取りで立ちふさがった。
この瞬間までは、男を取り押さえるなんて簡単だと思っていた。
太陽を反射する金属が男の懐から出てこなければ、だったが。
「おら、そこをどけや!」
今ではすっかり姿をあらわした、ギラギラと怪しく光るナイフ。男の脅し文句もあってか、今では立ちふさがったことを心底後悔した。
「にいちゃん、どかねぇと、痛い目見ることになるぜ?」
ニヤニヤと、ゆっくり歩いてくる。ナイフのせいで、周りには相当数の人間がいるのに、取り巻いて見ているだけだ。誰だって、刃物を持った男を怖がるのは分かる。
そして、それを引ったくりの男は分かっているから、周囲に見せ付けるようにナイフを動かし、周りを脅迫していた。
こうなれば、もはや引ったくりの男にとって障害は、俺1人。
その俺も例外ではなく、ナイフで脅せば退くと思って、取り出したんだろうな。
でも、ごめん。それは逆効果。
ナイフを見た瞬間から、足なんて震えがひどくて動かせたもんじゃない。
「……ほぉ、にいちゃん。度胸があるのは認めるが、退いた方が今後のためだぜ?」
動かない俺に、もう一度脅しが飛んでくる。でも、動けはしない。
動かなければ、刺されるかもしれない。だから動け。
でも、急に動けばビックリして刺されるかもしれない。だからゆっくり動け。
でも、ゆっくりでは相手が気長に待てる人じゃないと、刺されるかもしれない。だからゆっくりでも速くでもなく、普通に動け。
でも、でも。こんな状態で普通に動けなんて、そりゃ無理だって!
「本気か、にいちゃん?」
あっ、今のセリフはやばい。俺がナイフにひるまずに立ちふさがってると取られてる。ヤバイヤバイ、本当に刺されるかもしれない。
この状況はヤバイ、刃物はヤバイ、切れそうな引ったくりの男はヤバイ。
もう、なにもかもが危なすぎる。
なのに、刺されて死んで、あいつの所に行けるならとも、考えちまった。
「なら、どかしちゃるわ!」
スッと、ナイフが走るのは見えた。軌道は見えない。
こういう生死の境目ではモノクロ世界で時間が遅くなるなんて言うけど、違うのかな……。
結局動けず、目を強く閉じた。刺された自分の体を見たくないから。
でも、ナイフで貫かれる衝撃は、一向にやってこなかった。
その代わりに、重たい荷物みたいなのがゆっくりと預けられるように、俺へ加重をかける。
慌てて目を開けて、たたらを踏みながらも体勢を直し、俺の方へやってきた力の原因をみた。
そこには、確かに先ほどまでナイフを握っていた男が、眠ったようにこちらへ体を預けていた。
そこからは、まるでドラマのダイジェストを見るような感じ。実際、途中途中の些細なことは覚えていない。
気づいたら、地べたに座っていた。さすがに腰も抜けようってものだ。
次は警官がナイフを取り上げ、手錠を掛けていた。誰が呼んだのか知らないけど、もう少し早めでお願いいたします。
気づいたら、病院で精密検査だ。後から聞いた話しでは、警官からの受け答えがままならなかったためらしい。まぁ、刺されるかもという緊張感の後では普通に話せんって。
1日入院したらしく、次は朝の記憶だ。親が来ていて、無事で良かったと泣かれた。なんか最近、心配かけてばかりだなぁ。
そして、今は警察署から出てきた所だ。事情聴取とやらを初めて受けた感想は、退屈、かな。
事件発生から警官が来るまでを聞かれた。立ちふさがるのは良いけれど、ナイフが出てきたら直ぐに逃げなきゃと注意されてしまった。だから無理ですって、あの状況じゃ。
2時間ほどで帰って良いと言われ、普通なら入ることの無い警察署の取調室とかを興味深く眺めながら外へでた。
待っていたのはあの事件の日のような、蒸し暑い太陽とぬるい風。
それと
「どうも、はじめまして」
大道芸人が1人。
「いや、間に合って良かった。買いに行ってる間に帰られて行き違いは嫌だったからね」
この間はボーリングのピンを投げ飛ばしていた手が、俺の方に伸びてくる。その手には汗をかいた缶コーヒーが1つ。
「俺に、か?」
「そりゃ、この状況ですから」
明るく言って、さらにこちらへと差し出してくる。さっきまで涼しい警察署内に居たせいで、外の暑さに早々のダウンを申告しようと思っていた所だ。
ありがたく受け取って、さっそく1口飲む。
「ニガッ……」
「へ? 無糖駄目だった?」
おっかしいなーなんて言いながら首をひねってる。なにを疑問に思ってるんだだろうか。
「男の人って、コーヒーはブラックでって、イメージあるのにね」
そう言って、微笑んだ。
思わず息を呑む。そう、前にもそんなこと言われたことがあったっけ。
「ん? どうしたの、急に動きがなくなったぞー」
覗き込んでくる仕草も、一緒。あぁ、悪いこととは分かってるんだが、どうしても彼女を彼女に重ねてしまう。
「……って、ちょっとなんで泣き始めるわけよ。待って待って、私なにか悪いことしちゃった? そんなにブラック嫌いだった?」
「いや、違う。少し、懐かしい思い出があってね。それを思い出したら、自然に泣いてた」
ただ単純に懐かしいんじゃなくて、悔しい思い出だけど。
感極まって泣いたわけでもなく、涙は直ぐに収まった。けれど、涙のせいで会話しづらくなってしまったのは確かで、警察署を後にしてからも数回の会話ですぐ詰まってしまった。
その後、お互い昼食がまだだということが分かって、ちょうど見えたファミレスに入ったのは良いんだが
「……………………」
「……………………」
互いに黙って、結局どうにもなりゃしなかった。
「あー、あのさ、今日のこ「メニューはお決まりでしょうか」………………」
思わずウェイトレスを睨むそうになった。これ以上の沈黙は耐えられないと、話しを切り出そうとしたら、これだ。
タイミングがこれ以上にないのが、狙ってやったとしか思えないね。
向かい席から押し殺した笑い声が聞えてくる。くそぅ、身を張った芸になっちまった。
「ハンバーグランチとサラダ、紅茶もお願いします」
みっともないと思いながらも、口調が少し怒った感じになってしまった。
それを見て、可笑しさが増したのか向かい席からの笑い声が少し大きくなった。人の恥を笑うなんて、失礼だぞ。
ウェイトレスが注文を待っているのに気づいて、慌てて笑いを押し殺している。なんとか抑えても、注文する最中ですら思い出して笑いそうになっているのが、逆に見ていて笑えた。
ウェイトレスが復唱し、メニューを下げて離れていった。
それを見るや、すかさずに抑えていた笑いが吹き出る。他の客がいるから、わずかには抑えてるんだろうけど。
「いや、今のは面白かった……! あれ以上にないタイミングで、は、話しを切られてるんだもん。しかも、その時の顔ったら……!!」
むっ、なんだろうこれ。羞恥プレイ? 顔が熱を帯びるのが分かるぞ。
しかも腹抱えて笑われちゃってるよ、俺。初対面と言っていいし、話したのだって1時間ちょい前ぐらいなんだけど。
いやしかし、悪い気はしないんだよな。どうしてなんだか。
「あぁ、ごめんね。いきなりこんだけ笑っちゃ、悪いよね……!」
謝っておきながら、まだ笑うか。おのれ、いつか俺が笑ってくれるわい。
それからはずっと喋りきりだった。思いつく限りを話しに話して、気付けば外が夕闇に包まれる時間になっている。
「それじゃ、私はこのへんで」
「ん? ……あぁ、そっか、そうだよな」
小さな違和感に気付いて声を出し、しかしその違和感は間違いに気付く。
彼女を通して見た人は、もう居ないだろ、と。
「それじゃ、今度はちゃんと見物人と大道芸人として会いましょう」
「あの場所で続けるつもりなのか?」
「もちろん。人通りも良いし、禁止されてる場所じゃないからね」
「ふぅん…………」
二人して立ち上がる。伝票には二人分のメニューが並ぶ。
「ここは俺が払うよ」
借りは返す、それが早めに叶うならなおのこと。
「「さっきのコーヒーのお礼だ」」
重なる声。
「やっぱりね、義理堅いっていうか、分かりやすいぞ」
それでも彼女は先に外へ出て行く。お礼を受け取ると、行動で示したのだ。
その背中を、カウベルが鳴るドアを通り外へ出て行くのをみて、強い思いが胸を駆けめぐる。何か言わなきゃいけないことがある。でも、彼女はどこかに行ってしまい、二度と会えないのではないかと。
慌てて会計を済ませた。丁寧にレジを打ち、間違いを減らそうとする店員に少し苛立つ。
カランカランと景気の良い音のするドアを乱暴に開け、ベルの鳴る余韻を楽しむでもなく、道路の左右を見渡した。
そこに、少し小さくなった背中が見える。
後を追おうとして、けれども足は動かなかった。
「……なぁ! 一つだけ質問していいか?」
大声を張り上げる。車道を通る車に負けない声は、背中がそれ以上小さくなるのを止めた。
「一体何かなー!?」
大声が返ってくる。それに安堵して、しっかりと自分の疑問をはき出した。
どうしてそれを問おうと思ったのかは分からないが、それでも口を開けばこの問いしかでてこない。
「大道芸の練習、今まで辛いと思ったことはあるかー?!」
車にかき消されないように、ただ声を張り上げていた。
そしてその声は届いたはずなのに、答えが返ってこない。
夢でも見ていたのかもしれない。
今回の出会いは、それこそ目が覚めれば忘れてしまう夢の泡かもしれない。
そんな考えが脳裏によぎる程、向けられた表情が儚くも大切な物だった。
それで、終わり。
これ以降、職探しの為に日中をブラブラ歩くなんて事はできなかった。
駅前にも、朝早くと面接の終わった午後も遅くに通るだけ。
まぁ、それでも良いかと思うようになってきた。
得る物はあったのだから。