私の後任は優秀でした。だから、安心して離縁します
私の後任は優秀でした。だから、安心して離縁します
春の執務室には、紙とインクと、かすかな土の匂いが満ちていた。
オーレリー・ヴェスランは、机に並んだ三枚の紙を、端から順に指で押さえた。
一枚目は財務掛の受領証である。先代からの借財を整理するため、婚姻時にオーレリーが自分の財産から伯爵領へ貸した再建資金。その最後の返済が今朝、彼女の名義で完了した。主要堤防の改修も昨年の秋に終わっている。これで再建に伴う借財はすべて片づいた。
二枚目は、湖の家の管理人ソレルからの便りだった。屋根の葺き直しが済んだこと、桟橋の板を二枚替えたこと、今年は梨の花が早いこと。最後に、奥様にとって八度目の春でございます、とあった。結婚の翌春から、毎年届く。
三枚目は夫の筆跡ではなかった。王立水利評議会の事務局から、初会合の日程を知らせる回状である。先月、アルノーはその委員を引き受けると決めて、決めたあとに彼女へ話した。任期は三年。年四回の本会合のほかに、そのあいだを埋める分科会がある、と回状の裏に書き添えられていた。
「オーレリー」
扉のところで、アルノーが外套を脱ぎながら言った。三十六歳の伯爵は、この春もよく日に焼けていた。
「報告が来た。これで終わりだ。堤防も、借財も」
「ええ。受領証も届いています」
「長かったな」
彼は受領証を手に取り、しばらく数字を見ていた。それから、思い出したように顔を上げた。
「湖へ行こう。今度こそ、本当に行ける。……だが、その前に」
指で回状を叩いた。
「この会合が先だ。王都で一度だけ。それが済んだら、十日空ける。今度こそ、仕事は持って行かない」
声には、少しの照れと、少しの得意があった。
「十日」と彼女は言った。
「十日。足りないか」
「いいえ。……その十日は、いつから」
「会合の翌日から。湖の家の支度も、ソレルに頼んである」
彼は、彼女の予定を聞かなかった。聞くまでもない、という顔で、十日という日数を数えていた。彼女の机にも、春のうちに片づける書類が積んである。彼はそれを知っていて、自分の十日の中に、彼女の十日を置いた。
順番があった。堤防が終わり、借財が終わり、彼は約束の条件を自分で口にした。そして同じ口で、会合のあとの話をした。
去年の春、彼が言った言葉を、彼女は覚えている。主要堤防の改修と借財の返済が終わった春には、今度こそ湖でゆっくり過ごそう、と。条件を自分で作り、自分で守るつもりだったのだ。だから今日、条件が満たされたことを彼は知っている。知っていて、まだ先があると言った。
怒りは来なかった。来たのは、もっと乾いたものだった。七年目の冬に彼女が告げた言葉を、彼は聞いていた。聞いていて、それでも、また少しずつ戻った。彼女が催促をやめると、彼はそれを、落ち着いた、と表現した。
その「落ち着いた」の上に、今日がある。
「どうした」と彼が言った。
「いいえ」
「明日、お話ししたいことがあります」
「今でもいいが」
「明日のほうがいいんです」
その夜、彼女は執務室に戻り、二通の文書を書いた。一通は退任の予告。もう一通は、別の話である。
翌朝彼女が持って行くのは、退任の届けだけではなかった。
*
翌朝、オーレリーは夫の執務室ではなく、二人で使っていた小さい居間へ行った。暖炉には火が入っていて、椅子が二脚、同じ向きに置かれていた。
テーブルに、二枚の紙を一掌あけて並べた。それが一つの話ではないと示すためだった。
「退任の予告です。契約では九十日前の予告が必要でしたから、今日出します。退任日は、そこに書いた日です」
彼は紙を取らず、彼女の顔を見ていた。
「こちらは、離縁の申し入れです。合意の形で、双方の署名と登録官への届出で終わります。待機の期間はありません」
ようやく彼は紙を手に取った。一枚目を読み、二枚目を読み、また一枚目に戻った。
「職を辞めるのは構わない。だが、これは」
「別の話です。同じ紙に書くと、どちらかを取り下げれば済むように見えるので、分けました」
「理由を聞かせてくれ」
「聞いていただきます。弁明の機会という意味ではありません」
「四年目に増水で湖行きを取りやめたときは、私も賛成しました。あれは必要なことでした。でも、結婚六年目の秋、私は頼みました。もう少し早く、二人で休める日を作れないか、と。あなたは、次の工事が済んだら、と言った。私はそのとき、工事が続いているのだから仕方がない、と本当に思っていました。あなたが私を後回しにしたとも思っていませんでした。その年、ロジーヌを迎えて、分担の表も作りました。担当と、決裁と、非常のときの連絡先」
「あの表は、今もある」
「ええ。あります」
「七年目の冬に、私は言いました。このままでは、夫婦を続けていく自信がない、と。あなたは謝って、数週間、早く帰りました。それから、主要堤防の改修と借財の返済が終わった春には、今度こそ湖でゆっくり過ごそう、と約束した。信じました。信じて、それきり、湖の話を自分からしなくなりました」
「なぜ」
「そのほうが、楽だったからです。私が言えば、あなたは応じてくれました。応じてくれるのは、ありがたかった。でも、言い出すのが私で、予定を空けるのがあなたで、その予定が一週間もつかどうかを見ているのも、私でした。私が思い出さなければ、この話は、そのまま消える。それが、だんだん、こたえるようになりました」
アルノーは黙った。弁解を選ばなかった。それがこの人の良いところだと彼女は思った。そして、それだけでは足りないのだとも思った。
「昨日、私は約束を覚えていた」と彼は言った。「条件がそろったことも分かっていた。それで、会合のあとに、と言った。……なぜだろう」
「分かりません。あなたが約束を軽んじているとは思いません。ただ、あなたの中で順番がそうなっている。湖は、私が待っている。待っているほうは、後でいい」
「では、直す」
「直せると思います」
彼女はすぐに答えた。それが、彼を一番傷つけたかもしれない。
「あなたは勤勉で、誠実な人です。だから直せると思っています。あなたが何を試すのも止めません。ですが、取り下げるとは約束できません」
「試しているのか」
「いいえ。試すと、決めるのが私で、待つのがあなたになる。それは、私がこの数年やってきたことの裏返しです」
「九十日は、あなたのための期間ではありません。私が職を放り出さずに辞めるための、契約の期間です。退任と、この家を出ることと、婚姻の終わりを、同じ日にしたい。あなたの家に住んだまま、法的には他人として、働くのは、嫌なのです。わがままだと思いますか」
「……わがままではない。日付は、君が決めたのか」
「決めました。予告から満九十日、夏の初めです」
彼は頷いた。「分かった。その日で」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「いえ、要ります。あなたが、私の決めた日を、あなたの都合で動かさなかったから」
「父は、洪水のときに死んだ。現場で指示を出している最中に。あのとき、私は二十八だった」
「ええ」
「だから、というわけではない。ただ、あの年のことを思うと、備えを軽く見る気にはならない」
「分かっています」
「職を辞さずに、婚姻だけ続ける、というのは」
「職を辞しても、同じです。問題は職ではありません。……私は、これから先のことを、もう一度あなたと決めていけるのか。それが分からないまま、ここに残ることは、できません」
「分かった。すぐには、分かったとは言えないが。……今日から寝室を分けよう。ベランに言う」
「お願いします」
その日、ベラン・ルオーは何も聞かずに二階の東の部屋を整えた。訊ねも、慰めもしなかった。
二人に子はなかった。実家と、家督の次順位にある伯爵の弟には、その週のうちに短い手紙を出した。実家からの返事は、財産と暮らしを確かめてから決めなさい、という二行。弟からは、承知した、という一文。それで足りた。
*
四月中旬、領政会議室の机に、ロジーヌ・カルデが持ってきた一枚の紙が置かれていた。五つの項目が並んでいる。権限。報酬。補佐。勤務の時間。非常のときの連絡。
「二年、働かせていただきました」とロジーヌは言った。「仕事の量は分かっています。ですから、昇格の話をいただくなら、曖昧なままでは受け取りたくありません」
三十六歳。二年前、オーレリーが提案して採用した。商会の帳場から来て、予算の組み方と契約台帳の付け方を知っていた。夫がいる。
「私が決めてよいものと、伯爵の決裁が要るものを、書面で分けていただきたい。今のままだと、現場が私に伺いを立て、私があなたに伺いを立て、そのあいだに日が過ぎます。それでは、責任の所在が私になりません」
「線を引けということだな」
「はい。それから報酬。今の給金は副領政官のもので、これから担う仕事のものではありません。補佐は二人。一人は台帳、一人は各部署との往復。勤務は通常の日は決まった刻限まで。夜と休日は、本当の非常だけ。その非常の定義も書いていただきたい。最後に、連絡の順序。私に届かないとき、誰に、どの順で」
アルノーは紙を読み、抽斗から罫線の用紙を出して、自分の手で書き写しはじめた。給金の額と、補佐の一人を会計掛から回すか新しく採るかを、二度だけ質問した。
「会計掛から回してください。新しい人を採るより、うちの数字を知っている人のほうが早い。給金はその額で結構です。上げていただけるなら、その分の仕事はします」
「夫人の社交の引き継ぎは、どうする」
ロジーヌは少し考えてから答えた。
「それは私の職務ではありません。招待の返事と、寄付の断りと、葬儀の順番を覚えるのは、行政の仕事ではないと思います。屋敷のことはベラン殿が、対外的な付き合いは伯爵ご自身が。私は、その予定が入るように、あなたの机を空けます」
アルノーは少し驚いた顔をして、頷いた。「そうだな。それが正しい」
オーレリーは末席で聞いていた。一度だけ「決裁の線は、これでいいか」と振られたので、頷いた。
「いいと思います。私が持っていた線より少し細かい。そのほうが、たぶん、もちます」
会議の終わりに、土木掛から書類が回ってきた。東支線の浚渫の契約更新である。彼女は指を伸ばしかけて、止めた。
「この件は——担当は、どなたに」
「土木掛のルイです。私が一度見て、問題なければ伯爵に上げます」
「では、任せます」
七年半、この机で仕事をしてきた手が、まだ書類の角を探している。
ロジーヌは三日後、その契約を持って戻ってきた。二つの区間で浚渫の延長が四十間重なり、同じ川筋を二度払う形になっていた。彼女は両掛の担当者を同席させ、野帳を突き合わせて、契約書を書き直させた。
「見つけたのは私ではありません。会計掛の若いのが、去年の野帳を整理していて気づいたんです。私は、気づいた人間が、気づいたと言えるようにしただけです」
同じ週、彼女は自室で手紙を書いた。宛先は王都の領地管理事務所。領地の行政に携わった年数と担当した範囲を書き、退任後に働ける条件を尋ねた。返事は自分の屋敷へ願います、と書き足した。自分の屋敷、という言葉を書くとき、少し手が止まった。湖の家は母から相続した彼女のもので、維持の費用も彼女の給金から出している。夫の許可が要る場所ではない。それでも、手紙の宛先に自分の家を書くのは、生まれて初めてだった。
「湖の話だが」とアルノーが言ったのは、その翌週だった。「業務の相談ではない。本当に、業務の相談ではないんだ」
彼はそう言って、自分の言葉に困ったように笑った。
*
湖で過ごす日は、四日になった。
十日と告げたのは夫で、四日と決めたのは彼女だった。引継ぎの予定を動かしたくはなかったし、今の二人には四日で十分だと思った。そう伝えると、夫は少し黙り、それから頷いた。
出発の朝、アルノーは玄関の広間で、一枚の紙を彼女に渡した。
「読んでくれ。持って行く前に、一度」
紙には表があった。欄は三つ。担当者。決裁権者。非常連絡先。結婚六年目に二人で作った表と同じ見出しだった。その下に、水利評議会の定例会合、河川台帳の照会、王都からの文書の返答、緊急の堤防点検が並び、それぞれ誰が担い、誰が決め、誰に連絡が行くかが、彼の手で書かれていた。伯爵の署名が要るものには、欄の外に小さく印が付けてある。付け忘れはなかった。
「会合の日程は、事務局と相談して二日ずらした。そのあいだ、王都からの急ぎの文書はロジーヌが受け取って、判断できるものは判断する。できないものだけ、私に送る。宛先も湖の家にしてある」
「そこまで、したのですか」
「した。……君を連れて行くのに、途中で馬が来るような旅は、したくなかった」
彼は折りたたんで懐に入れた。
「先に言っておきます。私は、答えが変わるとは思っていません。あなたの変化を見たいとは思っています。でも、期待させたくない。だから、先に言います」
「分かっている。それでも来てほしい」
「ええ」
馬車の中で、彼女は窓の外を見ていた。若い麦が風に倒れて、起き上がって、また倒れていた。隣でアルノーは、持って行くと決めた本を、開きもしないで膝に置いていた。
湖の家は、森を抜けたところにある。母が建てた小さな屋敷だ。屋根は今年葺き直したばかりで、桟橋の板は新しい。管理人ソレルが門のところで帽子を取った。
「奥様。旦那様。梨が、ちょうど見ごろでございます」
「八度目の春ね」
「はい。八度目でございます」
梨の木は、白い花を半分ほど散らしていた。風が吹くたびに、花びらが水面に落ちた。
最初の夜、アルノーはスープを作った。狭い台所で、彼は妙に真剣な顔をしていた。彼がスープをよそって彼女の前に置き、それから自分の椀を見て、少し困った顔をした。
「茴香を入れた」
「ええ」
「君が、苦手だった」
「よく覚えていましたね」
「覚えているよ」
彼は自分の匙で、彼女の椀から茴香の葉を拾い出した。熱いのを我慢して、三枚、四枚。それがおかしくて、彼女は声を出して笑った。
食事のあいだ、しばらく沈黙があった。彼はワインを一口飲んで、変に改まって言った。
「何を話せばいいか、分からない」
「私もです」
「仕事の話はしないと決めた。決めたら、急に口が動かなくなった」
「では、明日まで忘れましょう。今日は、話してもいいことにします」
彼は笑った。それから、つまらない話をはじめた。東の橋の欄干が去年の冬に一つ欠けて、直すのに石工が二日来たこと。ソレルが蜂の箱を増やしたこと。王都の市場で紙の値が上がっていること。彼女は聞いて、相槌を打って、ときどき笑った。話の内容は半分も覚えていない。覚えているのは、彼が話しながら、何度も彼女の椀に水を足したことだ。
二日目は雨だった。屋根を打つ音が一日中やまず、二人は窓のそばで本を読んだ。彼は半分ほどで眠ってしまった。椅子にもたれて、口が少し開いていた。彼女は毛布を取ってきて、膝の上にかけた。
三日目の朝、雨は上がった。彼は借りた小舟を出して、漕ぎ方を忘れていて、岸を離れるまでに三度、桟橋にぶつけた。彼女は船の先で水を掬って彼にかけた。彼は本気で怒ったふりをして、櫂を高く上げた。
その夜、彼女は台所で茶を入れていた。外で、蹄の音がした。
手が止まった。茶碗を持ったまま、顔が上がった。耳が戸の外を向いた。心臓が、一度だけ、いつもと違う打ち方をした。
音は近づかなかった。風が樺の枝を戸に当てていただけだった。馬ではなかった。伝令ではなかった。
彼女はしばらく、そのまま立っていた。それから茶碗を盆に戻して、二人分を運んだ。
その夜、彼女が台所で立ち止まったことを、彼は知らない。
*
昨夜、戸の外の物音に顔を上げた自分を、彼女は覚えている。今朝、道のほうで蹄の音がしても、彼女は本の頁をめくっていた。音は遠くへ行った。誰も、呼びに来なかった。
最終日の午後、彼女は居間の棚に、あの紙が置かれているのを見つけた。出発の朝に読んだ、三つの欄の表である。彼は持ってきたのだ。折り目がついていた。
担当者。決裁権者。非常連絡先。
指で欄をなぞった。結婚六年目の秋、この三つを並べて、二人で一枚の表を作った。ロジーヌを迎えるときだった。彼女が原案を書き、彼が決裁の線を直し、できあがった表を関係する机に配った。木曜の午後の会議が、彼女の机から外れた。秋には、夕食の席に書類がない週が三度あった。
その三度の週に、彼は上流の追加調査をはじめた。堤防ではなく、十年後の用水の話で、今すぐ誰かが困るわけではなかった。
彼女は止めなかった。堤防の改修も借財も残っていて、彼が手を抜けば、いつか誰かが死ぬ。父を亡くした男がそれを恐れるのを、彼女は知っていた。
だが、追加調査は堤防ではなかった。
あの秋、平日の昼に二時間の空きがあった。彼が自分で決められる仕事が、一つ減っていた。その二時間を、彼は調査に使い、彼女は自分の机の仕事を増やして埋めた。誰も、その二時間を二人で過ごすために使おうとは言わなかった。彼女も言わなかった。断られるのが怖かったわけではない。言えば、彼が応じるのが分かっていた。
「読んでいるのか」
アルノーが戸口に立っていた。手に釣り竿を持っていた。
「ええ。持ってきていたのね」
「君に見せるために」
彼は竿を壁に立てかけて、向かいの椅子に座った。
「言っておきたいことがある。……私は、君が待っていることを知っていた。知っていて、明日があると思っていた。明日は今日より少し暇になるはずだ、と。毎年そう思って、実際には、暇になった分を別のものに使った。それは私が選んだことだ」
「ええ」
「上流の調査も、私が引き受けた。あれは来年でもよかった。誰も急げとは言っていない。面白かったから、引き受けた。……面白い、というのは、言い訳にならないな」
「いいえ。面白かったのでしょう。あなたは、そういう仕事が好きな人です。それは悪いことではない」
「だが、順番を間違えた」
「ええ」
彼は自分の膝を見ていた。
「評議会の件だが、辞退の相談を事務局にしている。手続きは二週間ほどで終わる。水利の実務は、ロジーヌと技師に恒久的に渡す。書面にする。……君が望むなら」
彼女は、窓の外の水面を見ていた。
「望みません」
「なぜ」
「昨年の秋、台帳の様式の話をしていたとき、あなたは楽しそうでした。あの顔を私は知っています。あれを私のためにやめさせたら、私はあなたから何かを奪ったことになる」
「奪われてもいい」
「あなたはそう言うでしょうね」彼女は少し笑った。「でも、私が嫌です。あなたに何かを捨てさせて、その代わりに私が残る。そんなふうに決まった婚姻は、いらない」
彼は顔を上げた。「では、どうすれば」
「どうもしなくていいのです」
彼女は紙を膝に置いた。
「この四日間、悪くなかった。樟脳の匂いのする毛布も、茴香を拾ってくれたことも、舟を三度ぶつけたことも、覚えています。この数年で、いちばんいい時間でした」
「なら」
彼女は、しばらく黙った。言いかけて、やめた。言い方を変えようとして、それもやめた。
「最初の夜、あなたがスープをよそってくれたとき」と、彼女は言った。「私は、この人が隣にいて、毎朝こうだったら、と思ったんです。思って、それから、その朝のことを、うまく思い描けなかった。食卓があって、あなたがいて、私がいて。そこまでは見える。その先が、見えない」
アルノーは、動かなかった。
「悲しいとか、怒っているとかではありません。悔しいとも、思っていない。ただ、私がこれから先の朝を、誰かと半分ずつ分けるより、自分で決めたい。それが、今の私の正直なところです」
彼は、長いあいだ、何も言わなかった。
「私のせいで」と、ようやく彼は言った。
「私にも、変えられたことは、ありました」と彼女は答えた。「あなたが困っているのを見ると、先に手を出した。手を出せば、あなたは安心して次の仕事に行く。その繰り返しを、役に立っている証拠だと思っていた。それは私が選んだことです。でも、あなたが私の希望を知っていて、仕事を先に置いたことも、同じだけ残ります」
「ああ」
「責めているのではありません。あなたが変わったことは、嬉しい。それと、これからの朝にあなたを置かないことを、同じくらい、はっきり思っている」
彼は両手で顔をこすり、まっすぐに彼女を見た。目の端が少し赤かった。
「分かった」と彼は言った。「分かった、と思う。時間が要るかもしれないが、分かりたい」
「ええ」
「署名はする。君が決めた日で。……それが、私にできる、いちばんまともなことだ」
彼女は頷いた。「ありがとう」
その夜、二人は桟橋のたもとに並んで座った。水面に月が一つ、割れて浮いていた。夜風が冷たくなった。彼は上着を脱いで、彼女の肩にかけた。彼女は断らなかった。断らないことが、この人に対する最後の正直さのような気がした。
「来てくれて、ありがとう」と彼は言った。
「こちらこそ」
「八度目の春だったな」
「ええ。八度目」
樟脳の匂いがした。この四日間のことを、彼女は長く覚えているだろう。それと婚姻を終えることは、別のことだった。別のことだと、もう痛みを感じずに思うことができた。
残っているのは、仕事を渡すことと、約束した手続きを最後まで終えることだけだった。
*
領政会議室では、水門の鉄具の契約をめぐって、二つの掛が向かい合っていた。
会計掛は三年の長期契約を望んだ。単価を固定したほうが安いという。土木掛は一年ごとの更新を望んだ。水量が読めない以上、三年先の数量は約束できないという。双方、譲らなかった。
ロジーヌは、両方の言い分を、それぞれ一枚に書かせた。それから技師の意見を聞いた。あの水門の鉄具は、あと三年はもつ。四年目には軸ごと替えることになる。
「三年で結構です。ただし、単価の固定は三年目まで。数量は毎年、私のところで確認してから発注します。それと、四年目に軸を替える費用が、今の見積には入っていません。そこを、会計掛は見落としていました」
会計掛の担当者は資料をめくって、黙った。
「予備費をいくら置くかは、私では決められません。伯爵、お願いします」
アルノーはしばらく数字を見て、軸の交換を四年目に回すか三年目に前倒しするかを、技師に二度確認した。答えは四年目でよいというものだった。彼は予備費を今年の収支から出すと決め、その場で書面に書かせた。
会議が終わって、オーレリーは席を立った。廊下に出ると、書類を抱えたロジーヌが、少し遅れて扉をくぐってきた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます。……あの、夫人」
「その呼び方は、今月までで結構です」とオーレリーは言った。「来月からは、オーレリーで」
「では、オーレリー様。何か、気になる点はありましたか」
彼女は少し考えた。
「ありません。強いて言えば、会計掛の人が気の毒でした。三年で固定すれば安くなる、というのは本当のことですから」
「ええ」とロジーヌは言った。「だから、負けさせたあとで、その人の見積を来年も使います。間違っていたのは、数字ではなく、見る範囲でした」
廊下の窓から中庭が見えた。誰かが洗った魚を籠に入れていた。この屋敷では、彼女がいなくても、魚は洗われ、書類は決裁され、水門の鉄具は四年目に替えられる。
彼女は自分の部屋に戻って、荷物をまとめた。衣装箱は、二つで足りた。
*
退任の日は晴れていた。
朝、彼女は執務室で引継ぎの最終報告をした。机の鍵をロジーヌに渡し、帳簿の在りかを一つずつ確認した。最後の給金は、すでに計算され、確認済みだった。湖の家は彼女のもので、母の代からの使用人二人はそのまま彼女の家に残る。この屋敷の使用人ではない。
「七年半、お疲れさまでした」とロジーヌが言った。「あなたのやり方を全部は真似しません。真似できるとも思いません。ですが、何を残せば仕事が続くのかは、教えていただきました」
「教えたつもりはないのだけれど」
「教えていただきました」
オーレリーは笑って、部屋を出た。玄関の広間で、ベランが外套を持って待っていた。
「東の部屋は午前で片づけました。荷は馬車に積んであります」
「ありがとう、ベラン。いろいろ無理を言いました」
「いいえ。私は部屋を整えるのが仕事です。それ以上のことはしておりません」
アルノーは門のところに立っていた。王都へ出るときの濃い色の上着だった。彼もこれから登録官のところへ行く。同じ馬車ではない。それぞれの馬車で行って、同じ窓口で同じ書類に署名する。
「一つだけ、言わせてくれ。私は君を、仕事の相手として、これ以上ないほど信頼していた。それは今も変わらない。……だから、夫婦のこともうまくいっているのだと思っていた。同じことだと思っていた。違った。君が、仕事のない朝を過ごしたいと言っていたのに、私はそれを、仕事の合間のことだと思っていた」
風が並木を鳴らした。
「遅い、とは言いません」と彼女は言った。「遅いとか早いとか、そういうことではないのだと思います。私は、あなたと仕事をしたことを後悔していません。堤防の図面を二人で夜中まで広げた、あの数年は、私の大切な時間です」
「……ああ」
「だから、それを、なかったことにしないでください。私もしない」
彼は頷いて、馬車の扉を開け、彼女を先に乗せた。
登録官の窓口は、町の役所の二階にあった。窓口の男は書類を二度読み、署名の欄を指で示した。
「お二人とも、ご自身で」
アルノーが先に署名した。ペンを取り、名前を書き、少しも止まらなかった。彼女が続いた。オーレリー・ヴェスラン、と書いてから、その下の旧姓の欄に、ボードワン、と書いた。
男は判を押し、台帳に日付と二つの名前を書き入れた。
「これで成立です。待機の期間はありません。本日をもって、婚姻は終了しております」
外に出ると、日が高くなっていた。彼女は自分の馬車のほうへ歩いて、途中で振り返った。
「アルノー」
「なんだ」
「体を、大事に」
彼は少し笑った。「君も」
彼は馬車に乗って、領地のほうへ帰っていった。明日も決裁すべき書類があり、ロジーヌが待っている。領地は彼女がいなくても回っていく。それが、七年半の仕事の答えだった。
*
湖の家に着いたのは、その日の夕方だった。門のところで、ソレルが帽子を取った。
「お帰りなさいませ。……お一人で」
「ええ。しばらくは、一人で来ます」
「承知いたしました。では、八度目ではなく、九度目からは、そう数えさせていただきます」
翌朝、彼女はいつもの時刻に目が覚めた。窓の外は白んでいて、水面に霧が下りていた。天井を見ていた。予定が何もない朝だった。
起きて、窓を開けた。梨の木は花がすっかり落ちて、小さな実をつけはじめていた。
台所でパンを切り、茶を入れた。誰かの分を間違えて二つ、茶碗に出してから、一つを戻した。それから笑った。
「今日は、どなたもお見えになりません」とソレルが戸口から言った。「お昼は、どうなさいますか」
「外で食べましょう。桟橋のところで」
「承知いたしました」
彼女は家の周りを歩いた。北側の壁に蔦が伸びていた。切りましょうか、とソレルが言うので、いえ、もう少し、と答えた。何も決めなくてもいいということが、こんなに軽いとは思わなかった。
昼の少し前、若い男が馬で来た。王都の領地管理事務所の印が押された封書だった。
桟橋の板の上で封を切った。中身は二枚。丁寧な返信と、試用の条件だった。
嘱託として半年。九月から。王都の事務所で、領地の台帳整備を手伝う。月に二度の出頭。給金は今までの三分の二ほど。半年のあと、双方が望めば更新する。採用はまだ決まっていない、と書いてあった。
給金の額を指でなぞった。三分の二では、この家の維持と自分の暮らしでぎりぎりだった。足りない分は蓄えから出す。七年半分かけて貯めたものだ。それを使うことに、惜しさはなかった。
不安がなかったわけではない。王都には彼女より若い上司がいて、領地で上に立ってきた人間が、今度は下で働く。台帳の様式も、知らないものが使われているだろう。
それでも、彼女は机に向かって返事を書いた。
提示いただいた条件で、試用をお願いいたします。九月に参ります。ただし、十一月から二月は、この湖への道が雪で閉ざされます。その間は王都に部屋を借りて勤め、雪が解けたら湖へ戻ります。それでよろしければ、そのようにいたします。
末尾に、今の名前で署名した。オーレリー・ボードワン。
封をしてソレルに預けた。若い男がそれを受け取り、馬に乗った。蹄の音が森のほうへ消えていった。
彼女は桟橋の先まで歩いて、腰を下ろした。水面に、梨の木と自分の姿が、少しずつ違う形で映っていた。
九月には王都へ行く。十一月には、この家を閉める。雪が解けたら、また戻ってくる。決めたのは、自分だった。白いままの手帳を、これから自分で埋めていく。埋めなくてもいい日は、埋めなくていい。
風が吹いて、水面が崩れた。崩れて、また戻った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
オーレリーが自分の意思で離縁を選び、新しい人生へ踏み出すところまでを、一つの短編として書きました。
もし長編化するなら、この結末は変えずに、王都での新しい仕事や人間関係、そしてその先に生まれる恋を描きたいと考えています。
オーレリーのその後を長編で読んでみたいと思われましたら、感想でお聞かせいただけると嬉しいです。




