義理の娘がバスルームから私に懇願した。「お義父さん、入ってきて。もう我慢できないんでしょ?」
深夜二時、尿意で目が覚めた俺は、廊下の奥にある浴室へ向かった。
ところが浴室の前まで来た瞬間、足が止まった。湯気のこもった浴室の中、浴槽に身を沈めている美羽の姿が、浴室カーテン越しにぼんやり浮かんでいた。
すぐに引き返すべきだった。
なのに、足が床に張りついたように動かなかった。ようやく我に返り、自分の部屋へ逃げ戻ろうとしたとき、スマホが震えた。
画面には、美羽からのメッセージが表示されていた。
「お義父さん、入ってきてください。もう我慢できないんでしょう?」
スマホを握る手のひらに、汗がにじんだ。
五十年以上生きてきて、俺はずっと自分をまともな人間だと思っていた。妻を亡くしてからは、女遊びひとつせず、息子だけを育ててきた。だが俺を深いところへ引きずり込んだのは、見知らぬ女ではなかった。
息子の嫁だった。
1
深夜二時、尿意で目が覚めた。
白川町の夜は静かだった。窓の外では、遠くの高架を走る電車の低い音だけがかすかに聞こえている。俺は和室の布団から起き上がり、家族を起こさないよう足音を殺して、廊下の奥にある浴室へ向かった。
浴室の前まで来た瞬間、俺は動けなくなった。
天井の明かりは消えていて、換気扇のそばにある小さな灯りだけがぼんやりついていた。ドアの隙間から湯気が漏れ、ボディソープの甘い匂いが湿った空気と一緒に頬へまとわりつく。浴室カーテンの向こうに、若い女の影が揺れていた。
美羽だった。
息子の嫁だ。
浴槽にもたれるようにして、湯気の中で肩を沈めている。腕がゆっくり上がり、また落ちる。曇ったカーテン越しで何もはっきりとは見えないのに、見えないせいで余計に頭の中が乱れていった。
俺は急に正気に戻った。
これはまずい。あれは美羽だ。悠斗の妻で、俺の息子の嫁だ。
俺は自分の部屋へ引き返した。膀胱は破裂しそうだったが、廊下に足音を立てることすら怖かった。部屋に戻ってから棚のあたりを探り、最悪の場合は花瓶を使うしかないとまで考えた。
そのとき、スマホが震えた。
画面が光った。
美羽からのメッセージだった。
「お義父さん、まだ起きていますよね? 入ってきてください。もう我慢できないんでしょう?」
その一文を見た瞬間、手のひらに汗が噴き出した。スマホを落としそうになり、暗い部屋の中で立ち尽くす。呼吸まで浅くなっていた。
頭の中に浮かんだのは、一つだけだった。
藤原慎司。
五十二年も真面目に生きてきて、今夜ここで終わるのか。
2
俺の名は藤原慎司。五十二歳になる。
若いころ、俺は藤原家の婿養子になった。もともとは藤原姓ではなかったが、佐和子と結婚して、この名字になった。佐和子は俺より十二歳年上で、仕事も家のこともきっちりこなす、芯の強い女だった。
彼女が俺を選んだころ、俺は鏡城市郊外に住む、学歴らしい学歴もない若造だった。普通高校を出てすぐ働き始め、世間に誇れるものなど何もなかった。ただ、当時の俺は見た目だけは悪くなかったらしい。体も締まっていて、近所ではテレビに出ている俳優に似ているなどと言われていた。
佐和子は、そこが気に入ったのだと言っていた。
男は少しくらい不器用でもいい。心根がまっすぐで、体が丈夫で、家を支えられればそれでいい。佐和子はよくそう言って笑っていた。
結婚して十六年目の夜、佐和子は俺の隣で突然倒れた。救急車はすぐに来たが、彼女は戻ってこなかった。それから俺は一人で悠斗を育てた。父親であり、母親であり、生活のすべてを息子に注いできた。
悠斗は俺には似なかった。どちらかといえば佐和子に似ていた。髪は若いうちから薄くなり、体つきも太りやすい。だが頭はよく、一度決めたことは意地でもやり抜く子だった。
高校の三年間、悠斗は毎朝四時半に起きて、始発電車で自習室へ通った。その結果、鏡城国立大学の情報工学部に合格した。地元では名の通った大学だった。
卒業後、悠斗は星野システム株式会社に入った。数年でプロジェクトマネージャーになり、年収も一千万円に届きそうなところまでいった。親戚たちは口をそろえて、慎司は老後が安心だと言った。
三年前、悠斗は美羽を連れて帰ってきた。
初めて美羽を見たとき、この子は少し違うと思った。顔立ちは整っていて、声は柔らかく、所作も丁寧だった。座って湯呑みを持つ仕草ひとつにも、妙な品のよさがあった。
両家の顔合わせは、白川町の小料理屋で行われた。美羽の両親が個室に入ってきたとき、俺の顔を見るなり一瞬動きを止めた。
美羽も同じだった。
彼女の視線は数秒だけ俺に留まり、それからすぐに下へ落ちた。耳のあたりが赤くなっているのを見て、俺はただ、よほど恥ずかしがり屋なのだと思った。
ところが正式に紹介が済むと、空気が少し妙になった。
後から分かったことだが、美羽たちは最初、見合い相手が俺だと勘違いしていたらしい。
俺は湯呑みを落としそうになるほど気まずかった。隣の悠斗は顔をこわばらせ、膝の上でスラックスを握りしめていた。俺は慌てて話題を悠斗に向け、息子のことをできるだけ丁寧に説明した。
「悠斗は口数こそ少ないですが、仕事は安定しています。白川町に駅から徒歩十分の3LDKマンションも買いました。真面目で、責任感のある子です」
美羽の母親は悠斗を一度見て、それからまた俺に目を戻した。
「娘を大切にしてくださるなら、それで十分です」
そうして、この結婚は決まった。
あのころの俺は、悠斗は幸せ者だと思っていた。こんなに気立てのいい嫁をもらえるのだから。だが今にして思えば、あの最初の顔合わせの時点で、何かが少しずつおかしくなっていたのかもしれない。
3
美羽が嫁いできてから、彼女は俺に妙に優しかった。
毎朝、彼女は早く起きる。悠斗が家を出る前には、おにぎりと味噌汁、卵焼きを用意する。悠斗が出勤したあと、今度は俺の前に温かい朝食を出してくれた。
鶏肉と野菜のスープの日もあれば、山芋を入れた煮込みの日もあった。生姜やクコの実を入れた体の温まる汁物もあった。最初のころ、美羽はいつも、悠斗が飲み残したものだと言っていた。
「捨てるのはもったいないですから。お義父さん、よかったら飲んでください」
俺は何も疑わなかった。
ずっと後になってから、美羽は俺の肩にもたれ、少し笑って本当のことを言った。あのころ悠斗の朝食は、おにぎりとコーヒーだけだった。あの汁物は、最初から俺のために作っていたのだと。
「最初から、お義父さんのために作っていたんです」
もちろん、それは後の話だ。
そのころの俺は、ただ、この嫁は少し親切すぎると思っていただけだった。家事は彼女がほとんど引き受けた。俺のシャツも、運動着も、靴下も、いつの間にか彼女が洗っていた。
そのうち、下着まで洗濯籠から持っていくようになった。さすがに気まずくなって、自分で取ろうとすると、美羽は笑って俺の手からそれを抜き取った。
「男の人って、洗い方が雑ですから。これからは私に任せてください」
その瞬間、俺の手は宙に浮いたまま止まった。
俺は男だ。いくら家族とはいえ、息子の嫁に下着まで洗わせるのはおかしい。そう思ったのに、美羽はあまりにも自然な顔をしていて、俺が断れば、かえって意識しているように見えてしまいそうだった。
美羽は悠斗と買い物に出かけるたび、俺にも何かを買ってきた。シャツ、スニーカー、部屋着。どれもよく似合った。もっと奇妙だったのは、サイズがいつもぴったりだったことだ。
ある日、彼女は濃いグレーのトレーニング用タンクトップを買ってきた。着て鏡の前に立つと、肩や胸まわりにぴたりと合っていた。美羽はドアのところに立って、ほんの一瞬だけ目を輝かせ、それからすぐに包装袋を畳んだ。
「よく似合っています」
胸の奥が、少しざわついた。
そのたびに俺は自分に言い聞かせた。美羽はただ気が利くだけだ。俺を長辈として見ているだけだ。この家の中で、唯一まともに人を気遣える子なだけだ。
だが、一度生まれた考えは、そんな言い訳だけで押し込められるものではなかった。
4
結婚してから、美羽は少しだけふっくらした。
実際にはほとんど分からない程度だったが、本人は気にしていた。夜、悠斗に一緒に走ってほしいと言ったことがある。だがそのころの悠斗はシステム障害対応と納期に追われ、帰宅はいつも夜十一時を過ぎていた。
帰ってくると靴を脱ぎ、ジャケットを椅子の背に放り、ベッドへ倒れ込む。美羽が何度か頼むと、悠斗はとうとう面倒くさそうな顔をした。
「父さん、毎晩白川中央公園で運動してるだろ。父さんと行けばいいじゃないか。俺は昼間、会議して、資料作って、障害対応して、もう十分疲れてるんだ。家にいるだけじゃ、外の大変さなんて分からないだろ」
美羽は台所の入り口に立っていた。手には、悠斗のために温め直したスープを持っている。
「たまにでいいから、一緒に行きたかっただけ」
俺はリビングでそれを聞いていて、胸の奥が重くなった。
悠斗の仕事が落ち着いてから、俺は少し早めに現役を退いていた。買い物をし、運動をし、テレビを見る。そんな毎日だった。美羽がその場に立ったまま動かないのを見て、俺は湯呑みを置いた。
「俺が一緒に行く。どうせ毎晩行ってるんだ」
美羽がこちらを向いた。
「いいんですか?」
それ以来、美羽は毎晩俺について公園へ来るようになった。
彼女は思ったより体力があった。公園の周回コースを三周しても、最後までついてくる。春の夜風が川沿いから吹いてくると、美羽の体から漂う甘い匂いまで一緒に届いた。
俺は彼女を見ないようにした。だが見ないようにすればするほど、隣にいる気配だけが強くなる。
走り終えると、俺はいつものように鉄棒で懸垂をした。若いころの体はまだ残っていて、五十回くらいなら続けてできる。美羽は少し離れたところでタオルを持ち、汗を拭きながら俺を見ていた。
「お義父さん、本当にすごいですね。全然、おじさんって感じがしません」
俺は鉄棒から降り、彼女が差し出した水を受け取った。
「年寄りの悪あがきだよ。体を動かしてるだけだ」
ある日、小さな男の子が走ってきて、俺の腹を見上げながら、どうしてお腹がこんなに割れているのかと尋ねた。母親が慌てて謝ったが、俺は笑って手を振った。子どもが珍しがって触るくらいなら、特に気にすることでもなかった。
その親子が去ったあと、美羽が笑いをこらえるように近づいてきた。
「じゃあ、私も触っていいですか?」
俺は反射的に一歩下がった。
「ふざけるな」
美羽はうつむいて笑った。
「冗談です」
だが俺には分かっていた。
完全な冗談ではなかった。
その日の帰り道、俺たちはほとんど話さなかった。エレベーターの中には二人だけだった。美羽は俺の後ろに立ち、静かな呼吸だけが聞こえる。
扉に映る二つの影を見ながら、俺は初めて思った。
この家の距離感は、少しずつ危ういところへ近づいている。
5
悠斗と美羽の結婚三周年の日、俺はすっかり忘れていた。
夜の運動を終えて帰ると、玄関を開けた瞬間、ワインとステーキの匂いがした。食卓にはろうそくが置かれ、部屋の明かりは落とされている。悠斗がテーブルにつき、美羽は普段着ないようなワンピースを着ていた。
肩と鎖骨が淡い灯りに浮かび上がっていた。俺の目には、その瞬間、彼女が息子の嫁ではなく、一人の若く綺麗な女に見えてしまった。
俺は入り口で固まり、気まずさをごまかすように咳払いした。
「俺は部屋に戻る」
美羽が反射的に立ち上がった。
「お義父さん、夕飯は?」
「食べた」
本当は食べていなかった。
部屋のドアを閉め、背中を預けたまま、何とも言えない苛立ちを覚えた。若い夫婦が記念日を過ごしているのだ。義父である俺がそこにいるべきではない。だが白川町の3LDKマンションがどれほど広くても、同じ屋根の下で暮らしていることに変わりはなかった。
俺は部屋でテレビをつけたが、何一つ頭に入ってこなかった。夜十時を過ぎたころ、隣の寝室から物音がした。本来なら聞くべきではない。それでも家が静かすぎて、途切れ途切れに音が耳へ入ってくる。
しばらくして、すぐに静かになった。
天井を見上げながら、俺はため息をついた。悠斗はまだ若いのに、肝心なところでいつも息切れしている。
その後、しばらくしてまた隣から気配がした。今度は少し長かったが、途中で悠斗のスマホが鳴った。苛立ちを押し殺した声が、壁越しに聞こえた。
「今? 本番環境はもう切り戻したんじゃないのか? 分かってる、俺が責任者だ」
ほどなくして寝室のドアが開いた。
悠斗はシャツを着ながら出てきた。髪は乱れ、顔色は悪い。美羽はベッドの端に座り、肩にガウンをかけたまま何も言わなかった。
悠斗はリビングから仕事用の鞄を取り、今日が何の日かも忘れたような顔で言った。
「会社に戻る。システム障害が出た」
美羽が低く言った。
「今日は結婚記念日だよ。それでも行くの?」
悠斗は玄関のドアを閉める直前、振り返りもせずに言った。
「プロジェクトが飛んだら、俺の評価も終わる」
玄関のドアが重く閉まった。
俺は部屋で、それをはっきり聞いていた。あのとき俺は、美羽が気の毒でならなかった。あれだけ準備して待っていた女を、夫はろくな言葉もかけずに置いていったのだ。
夜中、俺は尿意で目を覚ました。
浴室の前まで行き、見てはいけない影を見た。慌てて部屋に戻り、我慢した。何度も我慢した。やがてスマホが光った。
そのメッセージは、俺を部屋から引きずり出す手のようだった。
「お義父さん、まだ起きていますよね? 入ってきてください。もう我慢できないんでしょう?」
俺は暗闇の中で、スマホを握ったまま長いこと立っていた。
結局、俺は部屋を出た。
6
浴室から水音がしていた。
俺はドアの前で、取っ手に手をかけたまま動けなかった。この扉を開ければ、もう二度と戻れない場所へ踏み込むかもしれない。だが中にいる美羽は、俺が来たことを知っている。
聞こえなかったふりは、もうできなかった。
「お義父さん? そこにいますよね?」
美羽の声が中から聞こえた。
喉がひどく乾いた。
「俺だ。まだ入ってるなら、あとで来る」
浴室カーテンの向こうで、影が少し動いた。
「大丈夫です。カーテンがありますから。入ってきてください」
俺は動かなかった。
「それはよくない」
「家族なんですから。ただトイレを使うだけでしょう?」
あまりにも自然な言い方だった。自然すぎて、断る理由を見失いそうになる。俺はドアを開け、視線を落としたまま中に入った。浴室には湯気がこもり、カーテンには美羽の輪郭がぼんやり映っている。
彼女が何かを取ろうとして身をかがめたらしい。影が揺れ、俺はすぐに目をそらした。
便器の前に立つと、緊張で手元がもつれた。ようやく用を足し始めると、体は楽になったのに、心はますます乱れていった。カーテンの向こうから、小さな笑い声がした。
「お義父さん、本当にずっと我慢してたんですね。そんなに遠慮しなくてもいいのに」
手が震えた。
「変なことを言うな。今日はお前たちの記念日だ。邪魔をしたくなかっただけだ」
カーテンの向こうが、一瞬静かになった。
「あの人は会社に行きました。いてもいなくても、そんなに変わりませんけど」
その一言は、細い針のように胸へ刺さった。
俺はズボンを整え、早く出ようとした。そのとき、カーテンの向こうから短い悲鳴が上がった。続いて、何かが床に強くぶつかる鈍い音がした。
頭が真っ白になった。
「美羽?」
返事はなかった。
俺は何も考えず、浴室カーテンを開けた。美羽は浴槽のそばに倒れていた。濡れたバスタオルに包まれ、顔色は青白く、後頭部のあたりから血がにじんでいた。
その瞬間、下世話な考えはすべて吹き飛んだ。
「美羽!」
俺は乾いたタオルで彼女を包み、抱き上げて外へ飛び出した。エレベーターで下へ降りる間、腕の中の美羽は動かなかった。思っていたよりずっと軽く、濡れた髪が首筋に張りつき、呼吸はかすかだった。
この年になって、心臓がここまで激しく動くとは思わなかった。
7
救急車で、美羽は鏡城市立白川総合病院へ運ばれた。
救急外来で診察した医師は、浴室で滑って後頭部を打ったのだろうと言った。軽い脳震盪があり、数日は経過観察が必要だという。俺は手続きに追われ、書類を書き、看護師と話し、美羽が処置室に入ってから、ようやく悠斗へ電話をかけた。
電話はなかなかつながらなかった。ようやく出た向こう側では、キーボードを打つ音がしていた。
「父さん? こんな時間に何?」
声には、はっきりと面倒くささが混じっていた。
「美羽が倒れて病院にいる。後頭部から出血して、医者が様子を見ると言ってる。すぐ来い」
一瞬、向こうが黙った。
「今は無理だ。障害がまだ復旧してない。クライアント対応も残ってる。俺が抜けたら、今期の査定に響く」
スマホを握る手に力が入った。
「お前の妻が病院にいるんだぞ。査定のほうが大事なのか」
悠斗の息が重くなった。
「病院には父さんがいるだろ。転んだだけなら、誰もいないわけじゃない」
電話は切れた。
病院の廊下で、俺はスマホを叩きつけたい衝動をこらえた。あれはお前の妻だ。俺の女ではない。そう思ったのに、結局ベッドのそばで夜を明かしたのは俺だった。
美羽が目を覚ましたころ、窓の外は白み始めていた。彼女は俺を見て、最初に悠斗のことを尋ねた。俺はコンビニで買った水にストローを挿し、彼女の口元へ持っていった。
「仕事だそうだ」
美羽は、それ以上何も聞かなかった。
それから数日、俺は毎日病院にいた。看護師は忙しく、美羽が起き上がろうとするときは俺が手を貸した。医師から急に立つとめまいが出ると言われ、ベッド周りのものは彼女の手が届く位置に整えた。
粥を食べる手に力が入らないときは、スプーンを渡した。額にかかった髪が汗で乱れていれば、ティッシュで拭いた。どれも普通の世話のはずなのに、病室が静かすぎて、距離が近すぎて、普通ではなくなっていく。
若い看護師が処置に来たとき、俺と美羽を見比べて微笑んだ。
「ご主人、本当にお優しいですね」
美羽の顔が赤くなった。
俺は訂正しなかった。
美羽も何も言わなかった。
その瞬間、俺の中にあってはならない満足感が生まれた。美羽に必要とされている。その感覚が、自分でも恐ろしいほど嬉しかった。
退院の日、悠斗はやはり来なかった。
俺は車で美羽を白川町のマンションまで連れて帰った。地下駐車場に車を停めると、美羽はシートベルトを外し、自分で立とうとした。だが一歩踏み出した途端、体がふらついた。
俺は助手席側へ回り、彼女の腕を支えた。
「お義父さん、先に上がって休んでください。私、一人で大丈夫です」
「医者に無理をするなと言われただろ」
美羽は俺の腕に体を預けた。彼女の香りに、病院の消毒液の匂いが混じっていた。エレベーターまで支える間、扉に映る二人の影が妙に近く見えた。
俺はその影を見ながら、心の中で繰り返した。
これは息子の嫁だ。
悠斗の妻だ。
俺が触れてはいけない女だ。
8
美羽の回復は早かった。
数日もすると、また料理をし、洗濯をし、部屋を整えるようになった。悠斗が帰ってきても、まるで何もなかったような顔をしている。玄関を入って最初に口にしたのは、体調を尋ねる言葉ではなく、夕飯のことだった。
「飯、できてる?」
美羽は台所に立っていた。手首にはまだテープが貼られている。それでも彼女は顔を上げずに答えた。
「もうすぐできるよ」
俺はリビングで、思わず怒鳴りそうになった。
だが美羽がちらりとこちらを見た。その目は、何も言わないでほしいと頼んでいた。俺は喉まで出かかった言葉を飲み込み、胸の奥だけが重くなった。
日々はそのまま続いていった。
悠斗が三十歳の誕生日を迎えたころから、急に子どもにこだわるようになった。最初は何気ない一言だった。それが週に一度になり、やがて食卓でも、寝室でも、電話でも、その話題を避けなくなった。
半年ほど妊活を続けても、美羽の腹に変化はなかった。
悠斗の顔色は少しずつ険しくなった。俺は二人に、白川総合病院の不妊外来へ行って、一度きちんと検査したほうがいいと言った。夫婦で受けなければ分からないこともある。
悠斗は箸を置き、明らかに不機嫌な顔になった。
「俺は問題ない。そういうのは自分で分かる」
美羽は黙ってうつむいた。
俺は悠斗を見た。
「調べてもいないのに、どうして分かる」
その後、美羽はこっそり検査を受けた。使ったものも持参したらしい。結果は、悠斗の側に原因がある可能性を示していた。精子の運動率がかなり低く、医師は夫婦で正式に不妊治療を受けることを勧めた。必要なら人工授精や体外受精も選択肢に入るという。
美羽はその結果を何日も隠していた。
だが結局、悠斗に見つかった。
その夜、ダイニングの灯りは遅くまでついていた。俺は自分の部屋で、二人の押し殺した声を聞いていた。声は低いのに、一言一言が壁越しに叩きつけられるようだった。
「何でこんな検査を受けたんだ。ずっと妊娠しないからって、俺が悪いと証明したかったのか」
美羽の声が小さくなった。
「違うよ。先生は治療できるって言ってた。一緒に行こう」
悠斗は鼻で笑った。
「そんな治療を受けたら、俺に問題があるって認めるようなものだろ」
美羽の声が、そこで少しだけ強くなった。
「子どもは、私一人で作るものじゃない」
椅子が蹴られる音がした。
俺は我慢できず、部屋を出た。悠斗はダイニングテーブルのそばに立ち、顔をこわばらせている。美羽は椅子に座ったまま肩をすくめ、テーブルの上の検査結果には皺が寄っていた。
俺は悠斗をにらんだ。
「自分の妻に、何て顔をしてるんだ。大事に思ってるなら、一人にこんな思いをさせるな」
悠斗は歯を食いしばった。
「父さん、これは俺たち夫婦の問題だ」
俺は検査結果を指した。
「医者が言うなら、きちんと治療を受けろ。子どもが欲しいなら、それなりの覚悟を見せろ。何でも女のせいにして、それで男か」
悠斗の顔に屈辱が浮かんだ。
美羽はうつむいたまま、指を固く握りしめていた。しばらくして、悠斗はようやく一言だけ絞り出した。謝っているように聞こえたが、本当の意味で受け入れていないことは分かっていた。
「分かった」
その夜、悠斗は美羽に謝った。
だが、それが終わりではないことを俺は知っていた。悠斗のような人間が最も恐れるのは、失敗そのものではない。失敗を他人に知られることだ。子どものことは、すでに彼の中で抜けない棘になっていた。
9
その後の日々は、少しずつ悪くなっていった。
悠斗は俺の前では怒鳴らなくなった。だが寝室のドアが閉まると、白川町のマンションは別の家のようになった。夜中、壁の向こうから美羽の押し殺した声が聞こえることがあった。
声は大きくない。だが十分に人を落ち着かなくさせる。俺は部屋で拳を握り、また開いた。二人は夫婦だ。俺が一度口を出すのは簡単だが、その先まで面倒を見られるのか。そう自分に言い聞かせていた。
けれど壁一枚隔てるたびに、美羽は妻というより、あの部屋に閉じ込められた人間のように思えてきた。彼女はこの家に住んでいるのに、本当に自分の居場所と呼べる場所がない。その無力感は、俺の中で少しずつ苛立ちに変わっていった。
ある夜、トイレに起きた俺は、浴室から話し声がするのに気づいた。ドアは少し開いていて、中から換気扇の音と、美羽の抑えた声が聞こえた。彼女は、俺の知らない匿名掲示板のことを話していた。
それは病院でも相談窓口でもなかった。個人同士が提供者の情報をやり取りする、いわば裏掲示板のようなものだった。
「真奈美、前に言ってた匿名のサイトって、本当に妊娠した人がいるの? もし何かあったらどうするの。悠斗がこのままだと離婚するって言うのは分かってるけど、ああいう相手はやっぱり怖いよ」
電話の向こうから、女の声がかすかに漏れた。
「本当だよ。私の知り合いにも二人いる。正規の病院に行ったって、悠斗くんが認めると思う? このまま時間だけ過ぎたら、困るのは美羽でしょ。何年も仕事をしてないんだから、離婚されたらどうするの」
俺は浴室の外で、聞けば聞くほど血の気が引いていった。
匿名提供、裏掲示板、個人取引。そんなものは正規の不妊治療ではない。まともな医療なら夫婦の同意が必要で、医師の説明も記録も残る。美羽がしようとしているのは、そのすべてを飛び越えて、身元も分からない相手へ自分を差し出すようなことだった。
電話が切れたあと、俺は急いで部屋へ戻った。
その夜、ほとんど眠れなかった。追い詰められて思わず相談しただけで、冷静になればやめるだろう。そう思いたかった。だが俺は、行き場を失った女がどこまで追い込まれるかを分かっていなかった。
10
数日後、悠斗は出張前にまた美羽と口論した。
玄関で靴を履きながら、悠斗の声は氷のようだった。美羽は廊下に立ち、壁に手をついている。手を離せばそのまま崩れ落ちそうな顔色だった。俺はリビングに座り、二人のやり取りを聞いていた。
「大阪に三日行ってくる。帰ってきても何も変わってなかったら、離婚の話をしよう。俺は子どものいない人生なんて受け入れられないし、男としてどうすべきかを誰かに教えられるつもりもない」
美羽は悠斗を見つめた。
「本当に、子どものためだけに離婚するの? 先生は治療できるって言ってたよ」
ドアが閉まったあとも、美羽はしばらく玄関に立ち尽くしていた。
俺は声をかけなかった。どんな立場で慰めればいいのか分からなかったからだ。父親としてか。義父としてか。それとも、彼女に対してすでに持ってはいけない感情を抱いてしまった男としてか。
その夜、俺は運動をしすぎて体は疲れていたのに、頭だけは妙に冴えていた。深夜一時過ぎ、隣の部屋のドアが小さく鳴った。美羽が浴室へ向かう足音がした。明かりはつけていない。
前に倒れたことが頭をよぎり、俺は上着を羽織って廊下へ出た。
浴室のドアの隙間から、スマホの光だけが漏れていた。
美羽は浴室の端に座り、スカートの裾を固く握っていた。そばには小さな保冷バッグと、未開封の注射器が置かれている。それを見た瞬間、頭の皮がぞわりとした。
俺はドアを開けた。
「美羽、何をしてるんだ」
美羽はびくりと肩を震わせ、手に持っていたものを床に落とした。
「お義父さん……」
俺は注射器を拾った。包装に書かれた文字を見た瞬間、胸の奥で怒りが燃え上がった。洗面台にそれを放り込むと、思った以上に大きな音がした。
美羽はうつむき、顔をこわばらせている。まるで、最後に残っていた恥を俺に引き剥がされたようだった。
「正気か? どれだけ危ないか分かってるのか。身元も衛生状態も分からない。相手がどんな病気を持っているかも分からない。お前に何かあったら、取り返しがつかないんだぞ」
美羽はしばらく動かなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
その声は風のようにかすかで、俺の怒りを一瞬で塞いだ。
美羽が顔を上げた。そこにはいつもの従順さはなく、追い詰められた人間の空虚さだけがあった。彼女は危険を知らないわけではない。もう他に道がないと思い込んでいるのだ。
「悠斗は子どもが欲しいんです。できなければ離婚するって言われました。あの人はずっとそうです。一度決めたことは、大学でも仕事でも、何があってもやり遂げる。今はそれが子どもなんです」
俺は黙った。
悠斗は俺が育てた。だからこそ誰よりも分かっている。鏡城国立大学を目指していたころ、彼は三年間、ろくに六時間も眠らなかった。星野システムに入ってからも、プロジェクトのためなら三晩続けて徹夜した。
彼が子どもを目標にしてしまった以上、美羽は逃げ場を失う。
それでも、この方法だけは違う。
「外の男に頼るな」
美羽の目が赤くなった。
「じゃあ、誰に頼ればいいんですか。悠斗にできないなら、私が誰かを探すしかないじゃないですか」
その一言に、頭が熱くなった。
「外の訳の分からない男に頼るくらいなら、俺に頼ったほうがまだましだ!」
言った瞬間、浴室の空気が凍った。
俺自身も固まった。口にすべき言葉ではなかった。考えてはいけないことだった。だが一度出た言葉は、床に落ちて割れたコップのように戻せなかった。
美羽はゆっくりと顔を上げた。
その目は驚きではなかった。最後の縄を見つけたような目だった。彼女は立ち上がり、俺の前へ一歩近づいた。声は小さいのに、背筋が硬くなるほど近かった。
「そうですよね。お義父さんがいる」
俺は一歩下がった。
「そういう意味じゃない」
美羽は突然、俺に抱きついてきた。
「お義父さん、助けてください。私、この家にいたいんです。この家の子どもを産みたいんです。お願いします」
体が固まった。
美羽の顔は俺の胸に触れている。大声で泣かれるより、その小さな声のほうがよほど人を揺らした。俺は彼女の肩をつかんで引き離したが、強く突き放すことはできなかった。
「もう言うな」
美羽は俺を見た。
「お義父さんだって、私に出ていってほしくないんでしょう? 悠斗より、ずっと優しくしてくれるじゃないですか」
俺は目を閉じた。
「それは駄目だ」
美羽の目の光が、少しずつ消えていった。
「分かりました」
俺は浴室を出た。
その夜、俺は最後の一線を守ったつもりだった。だが美羽が冷たい浴室の床に座り直し、空っぽになったように動けずにいたことを、俺は見ていなかった。
11
翌日の深夜、悠斗が帰ってきた。
予定より一晩早かった。玄関のドアが開く音のあと、すぐに悠斗と美羽の低い言い争いが聞こえた。二人とも俺に聞かれないよう声を抑えている。だが抑えた声ほど、聞いている側には苦しかった。
「またああいうものを調べてたのか。俺を馬鹿にするなよ。俺は外で必死に働いてるんだ。お前は家にいて、子ども一人作れない。この家には子どもが必要なんだ」
美羽の声は小さかった。
「悠斗、もう疲れたよ。そんな言い方しないで」
悠斗の声は、さらに荒くなった。
「料理と洗濯だけしてればいいと思って結婚したわけじゃない」
美羽は長く黙ったあと、ようやく言い返した。
「もし、あなたの問題だったら?」
部屋の中が一瞬静まり返った。
次の瞬間、何かが払い落とされる音がした。俺はドアの前まで行き、そこで足を止めた。手のひらには汗がにじんでいた。これは夫婦の問題だ。そう何度も自分に言い聞かせた。
だがその夜、美羽の声はどんどん小さくなった。最後には、押し殺した泣き声だけが残った。
夜明け前、悠斗はまたスーツケースを引いて出ていった。取引先対応がまだ残っていて、そのまま関西へ向かうという。玄関のドアが閉まったあと、家には浴室の水音だけが残った。
美羽は中で泣いていた。
俺はリビングに座り、水音が止まるまで待った。だが美羽は出てこなかった。
スマホが光った。
悠斗からのメッセージだった。
「父さん、もう俺たちに口を出さないでくれ。子どものいない人生なんて受け入れられない。美羽がこのまま妊娠しないなら、俺は必ず離婚する」
その文字を見ながら、俺は自分が育ててきたものが息子ではなく、冷たい石の塊だったような気がした。
佐和子が亡くなる前、俺の手を握っていたことを思い出した。悠斗を頼むと、彼女はそう言った。だがもし悠斗が、人を傷つけても振り返らない人間になったとき、俺はどうすればいいのかまでは教えてくれなかった。
この家はまだ形だけ残っている。だが中は、もう腐っていた。
俺は浴室の前まで歩いた。
鍵はかかっていなかった。
美羽は浴槽のそばに座っていた。髪は濡れ、目は空っぽだった。俺が中へ入ると、彼女はゆっくり顔を上げた。もう怖がる力も残っていないように見えた。
「お義父さん」
俺は彼女の前に立った。喉がかすれていた。
「もう、こんなのはやめよう」
美羽は何も言わなかった。
俺は手を伸ばし、彼女を立たせた。あまりにも軽くて、胸が痛んだ。その夜、俺たちは正しさも間違いも口にしなかった。明日どうするのかも聞かなかった。
浴室の灯りは、夜明けまで消えなかった。
窓の外を始発電車が通るころ、俺は浴槽にもたれて床に座っていた。腕の中の美羽は、眠っているように静かだった。
その瞬間から、俺はただの義父ではなくなった。
美羽もまた、ただの息子の嫁ではなくなった。
12
悠斗は三日間、家を空けた。
その三日間、白川町のマンションは、外の世界から切り離されたようだった。昼間の美羽はいつも通りに起き、朝食を作り、洗濯物を干し、部屋を掃除した。俺には温かい汁物を出してくれた。
茶碗を受け取るたび、俺は美羽の目を見られなかった。
「熱いうちに飲んでください」
夜になると、俺たちはリビングで並んで座った。テレビはついているのに、誰も見ていない。梅雨前の湿った空気のようなものが部屋に満ちて、息苦しかった。
何も話していないのに、沈黙の一つ一つが言葉より重かった。
二日目の夜、美羽は台所の入り口に立って、小さく尋ねた。
「後悔していますか?」
俺は長く黙った。
「後悔してる。けど、あの夜に戻っても、止まれたかどうかは分からない」
美羽はゆっくり歩いてきて、俺の隣に座った。
「私もです」
その言葉のあと、俺たちはもう言い訳をしなかった。
三日は短かった。湿った夢のように短かった。悠斗が戻る前夜、美羽は洗ったシャツをベランダに干していた。白川川のほうから風が吹き、ハンガーが小さく揺れる。
美羽は俺に背を向けたまま言った。声は風に半分ほどさらわれていた。
「明日からは、何もなかったことにしましょう。子どものことも、流れに任せます」
俺は彼女の背中を見ていた。
「ああ」
美羽は振り返り、少し笑った。
その笑顔は薄く、胸の奥に穴が空いたような気がした。
悠斗が戻ると、すべては元に戻った。悠斗は会社へ行き、夜遅く帰り、家を寝る場所と食事をする場所のように扱った。美羽は料理をし、洗濯をし、悠斗の世話をした。
俺は、少し気の短い、退職した父親を演じ続けた。
俺たちは、それ以上越えてはいけない線を越えなかった。
少なくとも、表向きは。
13
一か月後、美羽は妊娠した。
その日、美羽は白川総合病院から戻ってきた。手には検査結果の紙を握っている。俺はベランダで鉢植えに水をやっていたが、彼女がリビングの入り口に立った瞬間、何かを察した。
顔色は白いのに、笑いをこらえているようにも見えた。
「お義父さん」
俺が振り返ると、美羽は検査結果を差し出した。
そこには妊娠反応陽性と書かれていた。
俺はその文字を見つめ、しばらく何も言えなかった。
美羽の手は震えていた。俺は紙を受け取り、胸の奥に何かがぶつかったような衝撃を覚えた。子どもだ。藤原家に、ついに子どもができた。
だがその子が誰の子なのか、知っているのは俺と美羽だけだった。
悠斗はその知らせを聞いた日、初めて仕事を途中で切り上げた。夕方には帰ってきた。靴もそろえずに玄関を上がり、そのまま美羽の前へ向かった。
悠斗は検査結果を長いこと見つめたあと、ゆっくり笑った。
「本当か。やっぱり、できると思ってた」
美羽はうなずいた。
悠斗は彼女を抱きしめた。絶対に負けられない勝負に勝ったような顔だった。美羽はその肩越しに、俺を見た。
俺は台所の入り口に立ったまま、動けなかった。
その夜、悠斗は親戚へ電話をかけた。
「美羽が妊娠した。ああ、やっとだ。医者には、まだ初期だから気をつけろって言われた」
声には隠しきれない喜びがあった。
俺はリビングに座り、その報告を聞きながら、心だけが沈んでいった。悠斗はそれを自分の勝利だと思っている。だが俺には、この家がきれいに整えられた密室になったように感じられた。
誰もがその中で笑っている。
床下に何が埋まっているのか、知っているのは俺と美羽だけだった。
14
美羽が妊娠してから、家のことはできるだけ俺が引き受けた。
買い物、料理、洗濯、ゴミ出し、妊婦健診の付き添い。できることは何でもした。悠斗も最初のうちは気遣うような顔をしていたが、仕事が忙しくなるとすぐ元に戻った。健診の日も、時間だけを聞いて、結局は俺に任せる。
「健診は父さんがついていくだろ」
美羽はもう言い返さなかった。
俺も怒鳴らなかった。
怒鳴ってどうなるというのか。
この子を本当に気にかけているのは、最初から悠斗ではなかった。
俺は毎日、美羽に汁物を作った。鶏肉、大根、豆腐、昆布。具材を変え、味を変えた。食欲がない日は、薄味の粥を作った。美羽は食卓に座り、少しずつ口に運んだ。顔色は以前よりよくなり、体も少しずつ丸みを帯びてきた。
「お義父さんのせいで太っちゃいました。戻らなかったらどうするんですか」
俺は彼女を見た。
「妊娠中なんだから、少しくらい当たり前だ。産後、落ち着いたら一緒に歩けばいい」
美羽は笑った。
「また白川中央公園ですか?」
「ああ」
その瞬間だけは、何も起きていなかったころに戻ったようだった。
だが美羽が腹へ手を添えるたび、もう戻れないのだと思い知らされた。そこには、口にしてはいけない子どもがいる。俺たちがどうしても洗い流せない秘密がある。
子どもが生まれた日、悠斗は会社にいた。
美羽は明け方に陣痛が始まり、俺が車で病院へ連れていった。分娩室の外で、俺は夜が明けるまで長椅子に座っていた。悠斗が駆けつけたとき、シャツのボタンを掛け違えていて、珍しく動揺していた。
看護師が出てきて、男の子で、母子ともに無事だと告げた。
悠斗は真っ先に中へ入った。
俺は入り口で、足が床に縫いつけられたように動けなかった。しばらくして、看護師が赤ん坊を抱いて出てきた。小さくて、顔はくしゃくしゃで、それでも泣き声は力強かった。
看護師が笑って、赤ん坊を俺に差し出した。
「おじいちゃんも抱っこしてあげてください」
おじいちゃん。
その言葉が、鈍い刃物のように胸へ沈んでいった。
俺は赤ん坊を受け取った。腕に力を入れるのが怖かった。赤ん坊が少しだけ目を開ける。鼻筋と眉のあたりに、どこか俺の面影があるような気がした。
胸が跳ね、俺はすぐに目を伏せた。
美羽は病床から俺を見ていた。疲れ切っているのに、笑っていた。
子どもの名は陽翔になった。悠斗は、太陽のように上へ飛んでいく名前でいいと言った。俺は反対しなかった。反対する資格などなかった。
陽翔の一か月祝いには、親戚や近所の人が次々と訪ねてきた。みんながベビーベッドを囲み、口々に褒めた。悠斗はそばで笑っている。人生に足りなかった大事なものを、ようやく手に入れたような顔だった。
「きれいな顔をしてるね。鼻はお父さん似だし、目元も小さいころの悠斗くんに似てる」
美羽はそばに座り、赤ん坊の掛け布団の端をそっとつまんでいた。
俺が茶を運んでいくと、近所の奥さんがまた言った。その一言に、リビングの人たちが笑った。
「この子、きっとお父さんみたいに賢くなるわね」
美羽が俺を見た。
俺は茶碗を置き、できるだけ平静な声で言った。
「母親似だと思いますよ」
みんなが笑った。
美羽だけは笑わなかった。
なぜ笑わなかったのか、分かるのは俺だけだった。
15
陽翔は少しずつ大きくなった。
この家は、以前より家族らしく見えるようになった。悠斗は子どもができてから、少なくとも人前では怒りを抑えるようになった。赤ん坊を抱き、写真を撮り、SNSに満月の写真を上げる父親になった。
周囲は、悠斗も大人になったと言った。
だが俺には分かっていた。成熟したのではない。欲しかったものが一時的に満たされただけだ。
産後しばらくして、美羽の体は回復していった。彼女はまた早起きし、悠斗の朝食を作り、陽翔のミルクを用意し、俺には温かい汁物を出した。その椀が俺の前に置かれるたび、俺は彼女が嫁いできたばかりのころを思い出した。
あのころはまだ、彼女はただ気が利くだけだと自分に言い聞かせることができた。
「お義父さん、最近痩せましたね。ちゃんと飲んでください」
俺は椀を受け取った。
「お前も飲め」
美羽は陽翔のよだれかけを直しながら答えた。
「私はもう飲みました」
美羽が手いっぱいのときは、俺が洗濯物を干し、ベビーカーを押して白川中央公園へ行った。俺たちは川沿いの道を並んで歩いた。陽翔はベビーカーの中で手足を動かしている。
通りがかりの年配の女性は、たいてい足を止めて陽翔をのぞき込んだ。
「あら、かわいい。お父さん似ねえ」
美羽の指先が、ベビーカーの持ち手をわずかに握りしめた。
俺は笑った。
「母親似ですよ」
女性は美羽を見て、納得したようにうなずいた。
「そうね。お母さんが美人だものね」
美羽はうつむき、陽翔の頬にそっと触れた。
川から風が吹いた。彼女の髪が俺の手の甲をかすめた。俺たちはどちらも避けなかった。だが、それ以上近づくこともなかった。
この世には、口にしないからといって消える秘密ばかりではない。秘密は、毎朝の温かい汁物の中に隠れている。子どもの目元に隠れている。近所の人が何気なく言う「お父さん似」という冗談の中にも隠れている。
そして俺が美羽を見るたびに胸へ落ちる、あってはならない沈黙の中にも隠れている。
俺はずっと、自分をまともな人間だと思っていた。妻を亡くしてからは、この家を守り、息子を育て、後ろめたいことなど何一つしてこなかった。
だが人は、一歩で深みへ落ちるわけではない。
少しずつ押されていくのだ。
孤独に押され、罪悪感に押され、濡れた目をした女に押され、そして「じゃあ、どうすればいいんですか」という一言に押されていく。
今、陽翔はベビーカーの中で眠っている。
美羽は俺の隣に立ち、俺にしか聞こえない声で言った。
「この子、大きくなったら、お義父さんに似てくると思いますか?」
俺は川面を見た。
遠くを走る電車の音が、ごうごうと響いていた。
俺は答えなかった。
最初から、答えてはいけない問いだった。




