おっさんのビールの売り子
まさか俺が東京ドームのビールの売り子になるなんて。
浩一はスタンドの上段からグラウンドを見下ろしながら、そう思った。
井上浩一、会社員。腹回りの脂肪と、頭頂部の抜け毛が気になりだした五一歳。趣味は野球観戦とゴルフ。
球団がビールの売り子に中年男性を募集したのには理由があった。
近年、ジェンダーレスに代表される多様性の価値観が、社会のあらゆる場面で浸透してきた。ジェンダー問題の一つに、雇用に関する性格差の問題がある。このような問題を解消するために重要なことは、性別や年齢、国籍等にとらわれず、多様な人材を積極的に活用することである。
例えば、日本では未だにキャビンアテンダント=女性というイメージが根強いが、海外の航空会社では、男性CAは珍しくない。
野球場のビールの売り子も例外ではない。「なぜビールの売り子は若い女性でなくてはならないのか」「これは性別による職業差別ではないか」。寄せられたメッセージを、球団も無視できなくなった。また、セクハラや盗撮防止の観点からも、売り子を男性にしてみようという気運が高まった。
そこで球団は月に一度だけ、実験的にすべてのビールの売り子を四十~五九歳の男性にする『おっさんデー』を開催することを正式決定したのである。
浩一は応募し、採用された。
志望動機は、プロ野球が好きということはもちろんだが、運動不足解消と、空いた時間を有効活用した小遣い稼ぎの目的もあった。
ビールの売り子は、野球場の観客席でビールを売り歩く仕事だ。10㎏以上のビールが入ったタンクを背負い、注文が入ったらカップにビールを注ぎ販売する。給料は基本給プラス歩合。ビール一杯の歩合は35円なので、売れば売るほど儲かるシステムだ。
やってみると、これが結構大変だった。
重いビールタンクを背負って、狭い階段を上り下りするのは、足腰にこたえる。効率よく売るには、空になったタンクを交換するタイミングにも気をつけなければならない。
そういった体力的なことより疲れたのは、心無いお客様からのクレームだった。
「なんで加齢臭漂うおっさんがビールの売り子やってんだ。今日は来なきゃよかった」
「どけ。試合が見えねえんだよ」
そんな言葉を投げつけられることもあった。
自分の汗が、お客様のひざに滴り落ちたときには、心底申し訳なく思った。女子大生の爽やかな汗とはわけが違うのだ。
しかし、おっさんにはおっさんの強みがある。数十年分のプロ野球のデータが、浩一の頭の中には入っていた。
野球マニアのお客さんとの会話では、その知識が役に立った。それはビールの売上に直結した。
ところで、女性の売り子はビールの販売総額をランキング化して競っている。バイト友達はライバルでもあるのだ。
おっさんデーは月に一回しかなかったが、おっさんにはおっさん独自のランク付けがあった。手ごたえを感じ始め、仕事にも慣れてきた浩一は、ランキングトップを目指し、頑張った。
シーズン最終日。年間ランキングの結果が出た。
浩一は、おっさんの中で売上一位を獲得した。
充実感とともに東京ドームを後にしようとしたとき、チーフマネージャーから声をかけられた。
「ちょっとよろしいですか。成績トップの浩一さんに、別な仕事のオファーが来てるのですが」
「別な仕事?」
「ええ。グラビアの依頼です」
まさか俺がグラビアアイドルに?




