第6話 胎動
世界を巻き込む動きが胎動を始めます。
「はーいお久しぶりっす、アイちゃんどえす!!」
真冬なのに真っ黒な顔でニコニコしながら店に入ってきた長身細身の中年男性、通称『アイちゃん』。
「え?もうそんな時期だったけ?」
塩系トマト『トマト地主』生産農業法人の営業マンのアイちゃんは11月下旬にも拘わらず来店したのだ。
「あ、いえいえ、今日はここら辺に来たのでちょこっと遊びに来ただけですよ。」
『トマト地主』の出荷は12月から始まり7月上旬まで続く。
田子作の店『洗濯船』では店頭販売で色んな物を販売しているが『トマト地主』は大人気商品の一つである。
「今年の出来はどう?」
田子作も『トマト地主』が大好きで毎日2~3個は食べていたので今回の出来も気になるのである。
「うーん、まだ何とも言えないですね。真っ青ですから。」
腕を組み右手で顎を支えながら思案しながら話す。
「そっか、まあいいや。旬が来たらすぐに持ってきてね。」
「もちの論です!洗濯船さんにはいの一番に持ってきますよぉ!!」
司会者のように声が良い『アイちゃん』だが、いつも少し芝居がかった話し方をするのが癖のようだ。
「良かったら大分産無農薬の杜仲茶でも飲んでいきませんか?」
珍しくエーコが気の利いたことを言ったので田子作が驚いている。
「ついでに美奈さんから貰ったマドレーヌのサンプルも一緒に食べましょう。」
いつの間にかエーコの右手には器用に杜仲茶が入ったコップ3個と左手にはマドレーヌ3個を持っている。
「お前も食う気かよ!」
「もちの論ですよぉ!」
「そこ真似すんなよ!」
田子作が突っ込む。
「うはははは、相変わらず夫婦漫才みたいですね!」
楽しそうに『アイちゃん』は二人のやり取りに笑みを溢すのだった。
「教授、見てください。」
海洋大学の大学院生の男性が教授に声を掛ける。
瘤教授は面倒くさそうに振り向くと車輪付きの椅子に腰を下ろしたまま床を蹴ってシャーーーっと男子学生の方へ滑ってくる。
「どうしたの?」
分厚いレンズの眼鏡を鼻に掛け上目遣いで学生を見る。
学生は顕微鏡を覗くよう促す。
「昨日黒石浜で採取したクラゲの細胞の一部なのですが24時間で自己増殖して倍になってるんです。」
学生は少し興奮気味に教授に話す。
「あ、っそ。他にも色々食べさせて観察して。僕は忙しいからレポートにまとめといてね。」
そう言うと床を蹴って椅子ごと元の位置まで滑って行ってしまった。
クラゲの本体は窓辺の水槽の中でユラユラ揺れている。
「通常クラゲってプラヌラとして生み出された後にポリプになって自己増殖するはずなんだけどコイツは大人クラゲの細胞のまんま自己増殖してるんだよな。こんなの初めて見たんだけど教授の関心は薄いなぁ。とりあえず本体に色んな物を食べさせて観察するか。」
学生は独り言を呟きメモを取るのであった。
「出来ればグルテンフリーや低フォドマップのお菓子だけを売りたいんです。でも材料は高いし製法もちょっと癖があるし。」
美奈はエーコに溢す。
アレルギー患者が増えつつある昨今ではグルテンフリー(小麦不使用)食品の人気は高まっている。
代替として米粉が良く使われているが低フォドマップとなると更に制約が多く、菓子に使える材料はかなり限られてくるのだ。
「田子作さんにレンコンの粉を使ったグルテンフリーのクッキーを頼まれているんだけどなかなか上手く焼けなくて困ってます。」
美奈は正直にエーコには打ち明ける。
だがいざ田子作の前に出ると本音を言えないで困っていたようである。
「クッキーじゃなくてもマドレーヌとかでも良いのでは?」
何気なく応えるエーコ。
「え?それでも良いのですか!?」
美奈は驚いた拍子にテーブルの杜仲茶が入ったコップをひっくり返しそうになり少し慌てる。
「グルテンフリーで美味しければ何でも良いと思いますよ。」
勝手に話を膨らませるエーコ。
実際のところエーコはクッキーよりもマドレーヌの方が好きなのだ。
「なんだぁー!それならすぐにでも出来ますよ。」
それから一時間後にはマドレーヌのサンプルを持ってきた美奈。
「エーちゃん、これサンプル。食べてみて。」
手には5個のサンプルを持っていた。
「ありがとうございます!後で食べてみますね!」
「あ、感想もお願いします!!」
そう言うと忙しなく出ていってしまった美奈。
今日も配達時間ギリギリなようだった。
「あ、私もそろそろお弁当の準備しないと。」
田子作は足りない食材を買いに近所のスーパーに出ている。
エーコはサンプルのグルテンフリーマドレーヌを自分のカバンの中へ潜めるのであった。
『アイちゃん』の来店でそれを思い出したのである。
「もう駄目かもしれない・・・」
菓子工場を経営する頼母紙功はすっかり来店客の居なくなった店の商品カウンターの後ろに立って寂しげにつぶやく。
世界的な大不況に見舞われ、一番最初に節約の対象になる菓子は軒並みどこも売り上げを落としていた。
頼母紙の店も例外ではない。
もちろん田子作の切り盛りする『洗濯船』も新規の客は減っている。
一体なぜこんな事態になったのかは彼ら一般庶民には分かるはずもなく日々苦悩するしかないのである。
ただ、田子作は普通の人とは違い何でも出来るので食うに困ることはないはずなのだ。
それでも「自分だけ食いつないでもジリ貧は目に見えている。ここは一丁『祭り』を仕掛けないとみんな共倒れだ。」
と言って何やら色々と陰で計画を実行中なのだ。
しかし田子作が主催する異業種交流会メンバーの頼母紙を救えるかどうかは時間の問題であった。
「とりあえず田子作さんに相談してみるか・・・」
携帯電話で田子作に時間を割いてもらう約束を取り付け少し落ち着きを取り戻した頼母紙は店頭に出て人の流れを見てみる。
パティシエ服に身を包み道路を行き交う人を眺めているが、やはり流動人口自体が目に見えて減っている。
「一体何が原因なんだよ。クソッ!」
思わず恨み言を吐き捨てる頼母紙だった。
本当どこも苦しんでますね。