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幸せのかたち

作者: 八尋

幸せを勝手に二つに分類してみた。「外からの幸せ」と「内からの幸せ」である。

 「外からの幸せ」は外部から与えられる幸せ、例えばテストの点数とか何らかのコンテストの順位などの客観的にわかる価値もその一つだ。もっと人間味に溢れたところだと誰かに好きだと言われることだろうか。一番わかりやすい幸せの形であるこれは世間一般での幸せと同義で扱われ、これが少ない(もしくは無い)人間は不幸な人だというレッテルを貼り付けられる。かくいう私もある不幸だというレッテルを貼られているのだ。私は日本人で統計をとったところの平均よりも身長が低い、一般論でいう低身長というやつだ。身長の話になった時の周囲の哀れみの表情は人間特有の非常に高度な感情表現だと思う。しかし、哀れみを受ける謂れはない。他と比べて身長が低い事の何がいけないのだろうか、体格的に大きいと好かれやすいのは生物的に当たり前と非常に無価値な反論を閃いてしまったそこのあなたは未だ文明社会に慣れていないのだろう。とても可哀想だ、哀れんであげよう。人類が石を武器にしてウホウホしていた時代ならいざ知らず、知性と科学で成り立っている現代において体格など大きな問題でない。現代で体格の大きさが必要なのは特殊な役割を持っている人間か畜生のどちらかだ。もし畜生の方がこの文章を読んでいてそのような反論を思いついてしまったのであればそれは致し方のないことだ、気にすることはない。

 話が逸れてしまったが「外からの幸せ」が「人間としての価値」とも言い換えられるこの荒んだ日本社会に私は物申したいわけである。

 ではもう一つの幸せの形である「内からの幸せ」について述べよう。一言で言うなれば自己満足である。他人から似合っていないと言われるお気に入りの服装、活かす予定が無い筋トレ、二次元の嫁、逆に何もしないという活動などの世間一般という狭い価値観の中では評価されない幸せ達の事である。「外からの幸せ」が全人類の幸せと盲信している人々からしたら自己満足なぞ無価値と思うかもしれない。だがそんな人々も一度考えてみてほしい、自分の幸せを他人に委ねられているという状況はとても不幸な事ではないかと。自自分を自分で幸せにしてあげられない事が不幸ではないかと。

 「内からの幸せ」を深く掘り下げるならば、これは「選択する幸せ」なのかもしれない。選択した結果がどうなろうと関係ないのだ。やりたい事をする、思い通りにならなくても思う通りに生きろ。自分という人間の価値は相対的なものではないはずだ。


自分思いの人は恐らく幸せだ。


皆さんの幸せのかたちを教えてほしい

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