022
『なぁ、コディー。今、この子供は何て言ったんだ?』
ヴァローナの質問に、俺は答える事が出来なかった。この子供の言っている意味が、俺にもわからなかったからだ。俺は、更に一歩前に出て、子供に再度聞いてみた。
「自分の名前がわからないって事、か?」
「うん」
「……お、お父さんとお母さんの名前は?」
子供は再び考える。しかし、やはり答えは変わらなかった。屈託のない笑顔で「わかんないっ」と言った後、俺はヴァローナに顔を向ける。
『……な、何だ。その世界が終わったかのような顔は』
『とんでもないものを、拾ってしまったかもしれない』
『へ?』という間の抜けた声と共に、ヴァローナは首を傾げた。そんなヴァローナの反応を面白がる事はとても出来ず、俺は子供に色々な質問を投げかけてみた。だが、返ってくるのは「わかんない」や「知らない」という答えばかり。
『ふむ、つまり。この人間の子供は、今日この場以前の記憶がないという事か』
『おそらく目の前で両親が殺されたショックからだと思うけど、医者じゃないし詳しい事はわからない』
『ふーん、やっぱり人間ってのは弱い生き物なのだな』
ヴァローナの的を得た指摘に、俺は何も言えなかった。
俺がこの先どうしようかと考えている矢先、俺の足下に近付いて来た子供。見上げてくる無垢な瞳は、ぱあっと輝いて俺の心を縛る。
「次はどこ行くの?」
これは、もうどうにもならないかもしれないな。
「はぁ……とりあえず飲み水を確保して帰るか」
俺はその子供を連れ、魔物など見かけなくなった川まで向かった。皆で水を飲んだ後、広場まで戻って行った。
『名前?』
『あぁ、この子に名前を付ける』
『それはつまりあれか、コディー? 人間を飼うって事か?』
実に、実にヴァローナらしい表現だが、俺は断じてそれを認めたくなく、首を横に振った。
『ゆ、友人として』
『はて? 君たち二人は一体いつそんな間柄になったのかね?』
にゃろう。あぁ言えばこう言うヤツだな。
『コ、コホン。良き隣人として、だ』
『まぁいいだろう。それで、何と名付けるつもりだい?』
『そうだなぁ……ん? ところでこの子は男の子か? それとも女の子か?』
『見てわからないのか? どう見ても人間の雌だぞ』
『マジで?』
『限りなくマジだ』
ヴァローナの言葉にやたら真実味があったため、俺は女の子に《ディーナ》と名付けた。コディーとヴァローナのいいとこどりだと言ったら、ディーナよりヴァローナの方が喜んでいた。
記憶喪失。出来れば一過性のものであって欲しい。
つまりこれは、記憶が戻るまでの一時的な名前という事でいいだろう。
その日から、俺たち三人の奇妙な生活が始まったのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あー! コデーがコップ作った! バローナ見て―!」
「コップ? 人間、道具?」
「うん! そうだよっ」
ディーナは明るい性格だった。いつも目を輝かせ、活発に走り回った。自分が何故この森にいるのかなんて考えもしないのだ。ただこの森で生まれたように、一生懸命に生きている。
驚いたのはヴァローナだ。やたらディーナの世話を焼きたがる節がある。俺に人間の言葉を教わってくるのだから、相当ご執心のようだ。鳥だけに覚えも早く、そして応用も上手い。そこは流石神獣なのだろう。
「コデー、何を掘ってるの?」
「川をここにひく」
広場近くから穴を掘り続け、用水路を作る。これだけで生活は良くなるだろう。ディーナは関心を見せ、ヴァローナは「獣のくせに」と感心していた。
これで俺やディーナの生活が改善されるのであれば、それは素晴らしい事だろう。こういうところはやはり元人間なのだろう。
穴掘りに長けた身体というのは有難い。一週間たらずで水路は完成し、木材による補強も行った。
その間、ディーナとヴァローナには川に簡素な《せき》を作る際、色々と手伝ってもらった。
『こんな事で、本当に水が流れるのか?』
『ここでせき止めて、この支流に水を流すんだ。それで、支流はやがて本流に戻っていく。この前みたいな大雨の時は、ここを木材で塞げばいいんだ』
それでも水は少し溢れてしまうだろうけど、俺たちにはこれで十分だった。
「よし、流すぞ」
ヴァローナは知的欲求から。そしてディーナをワクワクとした顔を見せる。俺は水路を隔てていた木材を持ち上げると、川の水が勢いよく広場の方に流れて行った。
「おぉ!」
「おぉ~!」
ヴァローナの真似をするようにディーナは感情を露わにし、水路を走る水を追いかけた。俺は支流の出口に先回りし、嬉しそうに息を切らせて走って来たディーナと合流する。それとほぼ同時に、支流と本流が交わる。
『スゴイな!』
ヴァローナが興奮しながら俺の頭の上に乗った。
これによって俺たちの生活は随分と変わった。勿論、支流に関しては補強をしなくちゃいけない場所も多く、やる事も多いが、《文明》を目の前にしたヴァローナは、より俺のやる事に協力的になった。
それには、当然ディーナも。
人間が住む町の所在をディーナに教えた事もあった。しかし、ディーナはここから出て行かなかった。送り届けてやろうとも思ったが、ここを、この森を出る事すら嫌がったのだ。
やはり心のどこかで、何らかのショックを背負っていると判断した俺は、以降何も言う事はなくなった。
そう、ここから、俺と、ヴァローナと、ディーナは、毎日元気にこの森で暮らしているのだ。