4.貴女の居場所は、ここではありませんよ
“コツ…コツ…”
(…。)
階段をゆっくりと下りる亮太。右手には懐中電灯を、左手には頼りない糸をしっかりと握り締めている。
(テ、テレビ番組とは比べ物にならないな…)
秋絵の指示で、懐中電灯は切ってある。闇夜に慣れた目で階段を探し、真っ暗な階段を下りていく。
“…コツッ”
一階に辿りついた。音楽室は、もう目と鼻の先だ。
(ま、まだピアノの音は、き、聞こえてない…)
幽霊なんてやめてくれと、心の中で必死に願いながら音楽室の前を歩き始めた。
“コツ…コツ…”
(…。)
“コツ…コツ…”
(あ、あと少しだ…)
音楽室の前の廊下は二・三十メートルくらいだ。いつも何も考えずに通りすぎているこの距離が、今に限っては果てしない長さに感じた。
(あと少し…あと少し…)
“コツ…コツ…”
(あと…あと二歩…)
“コツ…コツッ”
(や、やった…!)
何も聞こえない。目の前には暗闇が広がっているだけだ。
(演奏が聞こえなかったら戻るんだったな。よし、)
階段へ戻ろうと、クルリと向きを変え…
(!!!)
向きを変えた瞬間、
“…パタン”
誰もいないはずの、音楽室の扉が閉まった。いや、開いてすらいなかったにも関わらずだ。
“♪♪♪~♪~”
直後、音楽室から聞こえてきた。きれいなピアノの伴奏だ。
(し、しばはらぁ…)
糸をクイックイッと小刻みに引っ張る。
“クイックイッ”
糸から手ごたえを感じた。柴原からの合図だ。
(は…あっ…)
これで糸から何もこなかったら、俺は発狂していたな。
“ゴトゴトゴト”
扉がゆっくりと開く音に、ビクッと現実に戻される亮太。静まりかけた心臓の脈動が、再び跳ね上がった。
“クイックイッ”
糸に感触があった。顔をあげると、
(し、柴原…)
階段を下りきり、早足で音楽室の側へと張り付く秋絵。
“クイッ”
糸を引っ張り、秋絵が中へと入った。どうやらついて来い、という意味らしい。
(ここで入るとか、アイツ神経あるのかよ…)
秋絵のなびかせる髪を頼りに、伴奏の聞こえる音楽室へと入る亮太。
“トントン”
「いい?私はこっちから見るから、そっちからね。」
小声でささやいてくる秋絵に、首をコクリと縦に振る亮太。鍵盤は窓へと向いている為、入口からではわからないのだ。
「3…2…1…!」
パッと鍵盤を覗く秋絵。僅かに遅れて亮太が懐中電灯を照らすと…
「うわっ!」
スッと白い、指先がもげている血だらけの両手首が鍵盤上で動いていた。
“バターン!”
突然、大きな音をたてて扉が閉まった。思わず懐中電灯を放り出す亮太。
”バサバサッ”
“♪!♪♪♪~!”
楽譜の落ちる音、ドンドン大きくなる伴奏音。両手首は血を吹き出しながら激しく動き続ける。
「わっ!」
手、手、手。どこの窓を見ても、真っ白な手首がワラワラと動いているのが見えた。
“カエシテ…カエシテ…!”
低い女性の声に、心臓が口から出そうになる亮太。恐怖とか、そんなのをとっくに超えた感情が身体の中を流れていく。
「あなたね…。」
怖いほどの落ち着きを見せる柴原。ポケットから何かを取り出した。
(!?)
緑色、明るい緑を帯びた透き通った石。発光しているのか、秋絵が緑色の光を浴びている。
「秋月!私に触れて!」
「触れてって、どこに!?」
「どこでもいいわ!早く!」
言われるがままに、石を持っている右腕を掴む。
『この場所に留まりし霊よ。貴女はここにいてはいけない。すぐに霊界へ還りなさい。』
頭の中に響いてくる秋絵の声。
『カエセ…手ヲカエセ…』
今度は低い女性の声。
(これが…霊との会話…)
『ここに手はありません。手を失ったことで、あなたは命を得た。そしてその命を、自ら絶った。』
『手ヲカエセ…手ヲカエセ…!』
「うっ!?」
首に冷たい感触が走る。次の瞬間、凄い力で締め付けられた。
「う…ぐっ…!」
『カエセ…手ヲ私ニカエセ…』
『手はここにはもうありません。手は霊界にあります。自分で取りに行けますね?』
“ぐっ”
「!」
足首にも冷たい感触。見なくてもわかる、霊が俺を掴んでいるんだ。
『貴女…とても辛かったでしょうね。事故に巻き込まれ、何もしていないのに両手を失って。』
『カエセ…手ヲカエセ…』
秋絵の口調が急に優しくなった。微笑んだ顔が、薄れていく意識の中で見えた。
『もう苦しむ必要はないのですよ。貴女はもう多くの手を持っている。』
『カエセ…カエシテ…』
『その手は他人を不幸にするためにあるのですか?その手はみんなの心を音楽で幸せにするためにあるのでしょう?』
亮太を締め付ける手が、ゆっくりと力を落としていくのがわかった。力の限り息を吸う亮太。
“ハッハッ…”
『ほら、貴女の居場所はここではありませんよ?』
『カエシテ…手ヲ…』
『さあ…!』
いつの間に持っていたのか、秋絵は左手の白い棒状のものを真っ直ぐ前に向けた。
『霊界へとお還りなさい…!』
右手の石が、強い緑色の発光を始めた。闇夜に慣れた目には、まぶしくて見ていられない。
“ハァ…ハァ…”
「!」
再び目を開けたとき、そこにはガランとした音楽室があった。
鞄の中身を確認していて後悔した。持ってきたお守りには、中身が入っていなかったのだ。
「なあ、ちょっと訊いてもいいか?」
お守りを仕舞いながら早足で急ぐ秋絵に、亮太が訊いた。
「なに?」
「お前の持ってた、あの緑色のやつって何だ?」
「案内人の道具の一つよ。あれを使って、霊と会話してると思ってもらっていいわ。」
「ふぅん。」
目の前でゲームやアニメのようなものを見せられ、未だに現実感がない亮太。
「じゃあ、私はこっちだから。」
「ああ、じゃあまた明日…いや今日な。」
「ええ。…あっ!」
何かを思い出したような秋絵の声に、振り返る亮太。
「当然だけど、このことは絶対に他言無用だからね。」
「わかってるさ。そんなこと。」
「そうよね、アンタでも、それくらいは察してくれるわよね。」
そういうと、秋絵は小走りで去っていった。