パンと水をさあクエよ
「つまりあれか、あれはキューブで、俺の家か」
リュートが目を覚ました時にいた、真っ暗な穴。そしてツタや草に覆われた遺跡。それは仮想現実体験装置であり、自宅であったのだ。
つまりこの世界は紛れもなく現実という事になる。ずっと仮想世界に入り浸って特に知り合いも執着もない世界とはいえ、ここまで荒廃しきっているのは流石に衝撃的な事実だった。
「……ま、とりあえずあそこに行ってみるか」
自宅に戻っても、元々キューブ以外には何もない。それもあの怪物に壊されてしまったのだろう。仮に奇跡的にその機能を保持していたとしても、どう考えても電気や通信等のインフラは破壊されてしまっている。
その建物が学校だと一目でわかったのは、広大なグラウンドのお陰でもあった。かつては舗装され、住宅街が広がっていたはずの道は木々に潰されて荒れ果てているのに、グラウンドは比較的以前の様相を残していた。
勿論雑草がぼうぼうに生え、そこらじゅうに石が転がってはいるが、少なくとも木は生えていないしその輪郭は保たれている。
「止まれ!」
そこに足を踏み入れようとしたところで、男の声が響いた。
「おっ、人がいたぞ」
「うんっ」
言われた通りに足を止めつつ呑気に言うと、まりも嬉しそうに頷いた。
「お前、異能者だな?」
男の声はグラウンドに何度か木霊しながら響き渡る。声のした方に視線を向ければ、校舎の二階の窓から弓を構えた男が顔を出しているのが見えた。
「あー……そうだな。多分、そうなんじゃないか?」
リュートは声を張り上げて答える。
異能者。
初めて聞く言葉だったが、その意味は何となくわかった。
恐らく、自分やまりみたいな妙な力を持った人間の事ではないか、とリュートは思う。
「……ここに何の用だ」
リュートの反応に警戒を強めたらしく、男の声は更に強張っていた。
「この子の親を探してるんだ。ここにいないか? 名前は……おいまり、お前のママの名前はなんだっけ」
「あしや まな、さんじゅうにさい」
「アシヤ マナ、三十二歳だ!」
まりの頭をぽんと叩いて叫ぶと、男は横を向き、廊下の奥に何事か小声で訪ねているようだった。少なくともここにいるのは彼一人ではないらしい。
「ここにはいないそうだ」
しばらくして返ってきた言葉に、リュートはふむと唸る。
確認に要した時間から考えるに、中にいるのは数十人といった所だろう。
ならば、どう考えても店などやっていそうもない状況だ、絶対に足りなくなるものがある。
「あんた、腹空いてないか?」
「……何?」
「情報が欲しいんだ。知ってる範囲でいい、質問に答えてくれればこちらは食料を提供できる」
リュートが虚空からパンを取り出し齧って見せると、男は横を向いた。チラチラとリュート達を視界に留めつつ、彼は誰かと相談している様だった。
「……わかった。話を聞こう。正面入口に入って待っていてくれ」
男はそう言って姿を消す。
「行くか」
「うん!」
まりと顔を見合わせ言うと、彼女は元気よく頷いた。
「おお、懐かしいな」
校舎の中に入ってみれば、そこはほぼリュートの記憶にあるままだった。
ツタに覆われた外に対し、内部は電灯こそ灯っておらず薄暗いものの綺麗なままだった。
「まりは学校まだか」
「うん」
まりは楽しそうに辺りをきょろきょろと見回している。
まともな世界なら来年には小学校だっただろうに、と思うと少し不憫だった。
「待たせたな。話を聞こう」
しばらくして、先ほど窓から顔を出していた男が姿を見せる。
「あんたが? そっちの人じゃなくてか?」
リュートは思わず後ろを振り向いて聞いた。
「……気付かれていましたか」
すると、その視線の先。下駄箱の影から弓を持った男が姿を現した。
年齢は四十代の半ばだろうか。
恰幅の良い、人のよさそうな男だった。
ぽっこりと突き出た腹と薄くなり始めた頭はいかにも冴えない中年と言った様子だったが、笑顔の奥からリュートを見つめる視線は鋭い。
左手に持った金属製の洋弓は、リュートの見慣れたファンタジー的なものではなく、近代的なアーチェリーで使うものだった。
「すみません。異能者となればどうしても警戒しなければならないものでして」
「いいよいいよ。無条件に信用してくれなんて無茶をいう気はないさ」
慇懃に頭を下げる男に、リュートは軽い調子で手を降った。
「助かります。……では、ひとまずこちらで」
中年男は見張りの男に戻る様指示した後、手近な部屋の扉を開ける。
誰もいない教室には机と椅子だけが並んでいて、何とも物寂しい様子だった。
「私はこのコミュニティの代表をさせて頂いている、後藤と言います」
机を並べて対面に座る形で椅子に掛け、男は穏やかな調子でそう切り出した。
「俺の事はリュートと呼んでくれ。この子はまり」
「リュート……失礼ですが、あなたは日本人ですか?」
日本人名にも外人名にも聞こえる名前に、後藤は怪訝そうに眉を寄せる。
「一応生まれは日本だよ。住んでたのはダンジョンの街、ニーマグリールだけど」
その人生の大半をVRMMOの中で過ごしたリュートにとって、国籍はあまり意味の無いことだ。
「ニーマグリール……聞いた事のない場所ですね。まあ、パラノイアには良くあることですが」
「パラノイア?」
パラノイア。
偏執症と訳されるそれは、一種の精神病の名前だったはずだ。
「聞いた事がありませんか? あなたのような強力な異能者を、そう呼んでいるんです。……食料を出せると言いましたね。今ここで出してもらえませんか?」
だが、初対面で突然『お前は病気だ』と罵倒されたわけではないらしい。
「別にいいよ。コールブレッド」
指を立てて呪文を唱えれば、焼きたてのパンが一つ、彼の指先に現れる。
「素晴らしい……!」
ホカホカと湯気さえ立てるそれを凝視して、後藤は声を震わせた。
「俺は、気付いた時には世界はもうこうなってたんだ。一体何があったのか教えてくれないか?」
「気づいたら、ですか?」
後藤は一瞬、リュートに疑うような眼差しを向ける。
「……いや、そうですね。パラノイアならそういう事もありえるのかも知れません。わかりました、順を追ってお話しましょう」
しかしすぐに首を振ると、彼は姿勢を改めて遠くを見るような眼差しを見せた。
「あるいは、始まりはもっと前だったのかも知れません。ですが、私の知る始まりは、そう。……今から、三ヶ月ほど前の事だ」
後藤は、そんな風に話を切り出した。
* * *
三ヶ月前のある日。世界の至るところで、大規模な停電が発生しました。
もちろん、停電なんかで世界は滅びたりはしません。
ですが今にして思えば、それが終わりの始まりだったんです。
その日を境に、各地で妙な事件が起こるようになりました。
例えば化け物を見ただとか、箒に乗って空を飛ぶ人間を見ただとか。
最も身近で頻繁に起こったのは、機械が動かない、というものでした。
故障したわけでもなく、電池が切れたわけでもないのに動かない。
ある人が動かそうとすれば普通に動くのに、ある人間が動かそうとしてもうんともすんとも言わない。
そんなことが、世界中で起こるようになったんです。
機械に嫌われた人間、未開人とかけて未械人なんて言葉が一瞬だけ流行ったりもしましたね。
なんで一瞬だったか、ですか?
簡単ですよ。
未械人以外もすぐに、機械を動かせなくなったからです。
それに反比例するように、化け物や超能力者の目撃情報は増えていきました。
先の停電も単純な話。まず真っ先に、発電所という機械が止まっていたんです。
むしろ日本は良く持った方でした。
世界各国と連絡が取れなくなる様を、把握するくらいの余裕はあったんですから。
そして、完全に世界中の機械が止まってしまう少し前。
政府は、こんな発表をしたんです。
この世界の法則は根底から覆った。
信じた事が実際に起こってしまう世界になった、とね。
* * *
「信じたことが、実際に起こるだって……?」
「それ自体が到底信じがたい話ですが、残念ながらそれを裏付ける証拠がボロボロと出てきたんです」
流石に驚きを隠せないリュートを気の毒そうに見つめ、後藤は頷く。
「一つ目は、化け物。神話や民話、お伽話に出てくるような化け物が各地で目撃されるようになりました」
人差し指を立て、彼は続ける。
「面白いことに、明らかに創作だとわかっている近代に作られた化け物は殆ど見られず、古く根付いた話に出てくるものほどよく出てくるんです。『もしかしたら本当にいるかも知れない』と考える我々の心が、化け物を産んでるわけですね」
次に後藤は、中指を立てる。
「二つ目は、機械。複雑で直感的に理解しづらいもの、もしくは普段使ってないもの……簡単にいえば信じ難いものから、動かなくなりました。停電も、真っ先に原発が停止したせいですね。火力や水力はしばらくは動いていたようですが、今ではそれも完全に止まっています」
最後に薬指が立てられる。
「そして三つ目が、異能者……いわゆる超能力者、この世界に適応したものの出現です」
「出来ると信じたことを、実際に起こせるってことか。だけどそんな力があるんなら、何でもやり放題なんじゃないか?」
「いいえ」
後藤はゆるゆると首を振った。
「機械さえ動かせないんですよ。出来て当たり前。呼吸や手足を動かすのと同じくらいに、疑問の余地なく信じてなければ、出来ないんです」
「なるほどなあ」
だんだんと、リュートには状況が飲み込めてきた。
「それでも中には、自分を過信する事が出来る者がいました。多くは訓練によって、元々の人間の能力を超えて力を発揮できる人間。それを、異能者と呼びます」
言いつつ、後藤は傍らに置いた弓を持つ。
「かく言う私も、異能者の一人です。前の世界よりも遥かに高い精度で弓を射ることが出来る。風があろうがお構いなしに、針の穴でも射抜ける自信があります」
頷きながらも、リュートは自分がパラノイアと呼ばれた理由に気づいた。
「ですがそれは、飽くまで人の能力の延長にすぎません。その道を極めたら。あるいは、最も調子のいい状態を保てたら、出来る。そんな自信を持つことは難しい事ですが、不可能な事ではありません。ですが――」
「パラノイアは、本来人がどう足掻いても出来ないはずの事をやってのける、って事か」
「そういう事です」
機械の補助なしに空を飛ぶ。
虚空から物を取り出す。
子供から大人に変身する。
そんな事が出来ると本気で信じている人間がいたとすれば、それは異常者だ。
だが奇しくも、この世界では信じさえすれば出来てしまう。
異常者がそのまま、極めて強力な異能者になってしまったのだ。
故に、彼らは偏執症と。
強い妄想を抱き、それを現実と信じる病の名で呼ばれる。
「つまり狂人ほど強い世の中ってわけか」
「すみません。そういうつもりは……」
「いいよいいよ。自分でも正常とは思ってないしな」
そうは言っても、リュートやまりの場合は少々事情が異なる。
リュートは実際に別の世界で生きていた。
ゲーム世界で魔法を使うのは、それこそ呼吸と同じくらいに自然なことだ。
まりはまりで、その幼さゆえにまだ世界の枠組みがしっかりしていない。
五歳にして本気で自分が変身できると信じているのは少々夢見がちではあるが、流石に異常と切って捨てるのはまだ可哀想な年齢だろう。
「それにほら、お陰で便利だろ」
リュートが魔法ウィンドウを開き、『ブレッドセット』と書かれたアイコンを拳で叩く。詠唱時間を示すバーが一瞬で埋まり、パンが10個、机の上に降り注いだ。
「……こんなに出せるんですか」
山と盛り上がったそれを見つめ、後藤は皿のように目を丸くする。
「ああ、一度に出せるのはこれが最大だ。パンだけだけど」
「……一度に?」
言っていることがわからない、と言いたげな後藤に構わず、リュートは説明を続ける。
「これ、再使用時間は0なんだ、召喚魔法にしては珍しく。まあそんな連発する魔法でもないからな。だから……」
コンコンコン、とリュートは連続でアイコンをノックする。
どさどさどさどさと音を立てて大量のパンが降り注ぎ、机の上が一瞬にして埋め尽くされた。
「ちょっ……ちょっと待ってください! いったい、一日に何個出せるんですか?」
「何個って言われてもなあ」
両手を突き出す後藤に、リュートは困ったように眉を寄せる。
「ちょっと待てよ、計算する。えー、詠唱時間が0.1秒だから、1秒間に100個、1分で6000個、1時間で」
「いやいやいやいや!」
後藤は大きく身を乗り出して、がしりとリュートの肩を掴む。
その目は血走っていた。
「際限なく……呼べるん、ですか?」
「まあMPは消費するけど回復速度の方が速いから……実質的にはそうなるな」
あっさりと言ってのけるリュートに、後藤は絶句する他なかった。