この伝説の結末は誰も知らない
トン、トン、トン、と足音がリズミカルに木霊する。
闇に包まれた深い迷宮の中を、男はまるで自分の庭のように歩いていた。
そこは電子情報で作られた仮想世界。
いわゆるVRMMO、『マスター・オブ・ダンジョン』。
その最終ダンジョンの最深部、地下776階に彼はたどり着いていた。
真っ白なローブに身を包み、節くれ立った木の杖。
魔法使い然としたその見た目に反して、男の顔つきは若々しい。
幼さはないが、どこか悪戯小僧を思わせるような笑みが浮かんでいた。
彼の名はリュート。
LVは999、職業は召喚師。
MoD最強の廃プレイヤーと呼ばれる男だ。
「限定召喚:サラマンドラ」
彼が杖を向けてつぶやけば、鉄をも溶かすような温度の炎が燃え盛る。
炎の埋め尽くした虚空に現れた巨大な鬼が、姿を見せると同時に焼かれて死んだ。
MoDにおいて、召喚師という職業はほぼ万能と言われている。
攻撃、防御、回復、そして補助魔法。
全ての系統をバランス良く扱え、それでいてその威力は器用貧乏どころか極めて高い効果を持つ。
にもかかわらず、召喚師に就くものはそう多くなかった。
理由はその長大すぎる詠唱時間と再使用時間。
――そしてそれに起因する、絶望的なまでのソロ性能の低さである。
簡単な魔法でさえ、使うのに要する時間は十秒。
高度な魔法となれば数分に及ぶ物も少なくない。
戦闘中の十秒というのは凄まじく長い。
その間に攻撃されれば当然、詠唱は途切れてしまう。
再使用時間にいたっては長いものなら数時間から数十時間、数日かかるものさえあり、一度の冒険行に限れば使い捨てと言っていい。
「クラッシュ、アローレイン、限定召喚:シャドウハウンド」
にも拘らず、リュートは惜しげもなく、矢継ぎ早に魔法を行使していく。
巨石が落下し、矢が雨のように降り注ぎ、影がアギトを開く。
その度に、虚空から現れる怪物どもはその姿を全て晒すことさえできずに死んでいった。
それを可能にするのが、彼の装備だ。
【神話級】モーセの杖 詠唱時間50%軽減 再使用時間50%軽減
【伝説級】アグリッパのフード 詠唱時間10%軽減 再使用時間10%軽減
【伝説級】ファウストのローブ 詠唱時間20%軽減 再使用時間20%軽減
【伝説級】シムルグの風切羽 詠唱時間10%軽減 再使用時間 5%軽減
【伝説級】アラジンの指輪 詠唱時間 5%軽減 再使用時間 5%軽減
【神話級】ペルセウスの靴 詠唱時間 4%軽減 詠唱時移動速度100%軽減
【神話級】ソロモンの鍵 召喚魔法を五つまでチャージ可能
詠唱時間99%、再使用時間90%軽減。
MoDで最高のレアリティである神話級、それに次ぐ伝説級の装備で全身をつつみ、本来10秒かかる魔法を0.1秒で放つ。
彼が最強と呼ばれる理由の一つだ。
神話級、伝説級と呼ばれる装備は、どれも手に入れるのに複雑な行程と幾つものクエストをこなさなければならず、膨大な時間を必要とする。トッププレイヤーと呼ばれる者達でさえ、一つ持っていれば僥倖と言われる程のもの。
全身を高レア装備で包むリュートは異常という他ないが、それを手に入れた方法は笑ってしまう程にシンプルだった。
――膨大な時間を必要とするのならば、膨大な時間をかけて手に入れればいい。
5052日14時間36分。
それはリュートがMoDにログインした延べ時間であり、同時にMoDがこの世でサービスを開始してからの時間でもあった。
『キューブ』と呼ばれる最新の仮想現実体験装置は、プレイヤーを完全に包み込み、生命維持に必要な諸々を提供する機能がついている。
ネットゲームがサーバ・メンテナンスによって定期的に一時シャットダウンされたのも、もはや遠い過去の話。相互に支えあうサーバ群は稼働しながらのメンテナンスやアップデートをこなすことが出来た。
つまり、人が完全に電脳の世界で暮らせる時代が到来していたのだ。
とは言え、大方の予想に反してそんな生活をする人間は数えるほどにもいなかった。金銭的理由もあるが、それ以上に『現実の世界を完全に捨て去る』というのは人間にとって耐え難い選択だったのだ。
しかし、数えるほどにもいないという事は、逆に言えばごく少数であるが実在するという事でもあった。
MoD開始以来一度もログアウトすることなく、仮想世界で生き続ける男。
それが、生ける伝説。最強の廃人と呼ばれるプレイヤー、リュートであった。
* * *
サイクロプス。キマイラ。
オルトロスにヴァンパイア、ミノタウロス。
いずれも他の迷宮であれば最後に待ち受ける、いわゆるボスモンスターと呼ばれるほどの強敵が群れをなして現れる。
だがリュートは鼻歌混じりにそれを屠りながら歩いていった。
「さて、と……」
下への階段を目にして、リュートは呟く。
これまで余裕を持っていた彼の表情が、初めて真剣味を帯びた。
魔王ゼファークラットの地下迷宮。
前人未到の地下777階へと、リュートはゆっくり降りて行く。
罠と迷路に溢れた今までの階層と違って、そこは巨大な広間一つだけで構成されていた。
「よお、やっと会えたな」
まるで旧友に挨拶するような気楽さで、リュートは片手をあげる。
それに応えるようにして闇が蠢き、広間にうずくまる生き物がその身をもたげた。
全体としての印象は、竜に近い。鋭い爪に長く伸びた尾、全身は艶の無い漆黒の鱗に覆われていて、長い首の先に何本も角の生えた頭が、ずらりと生え揃った牙を見せつけるかのように口を開いている。
だがその腕や足は長く太く、二本の脚が巨人の様にその身を支えて直立し、リュートを傲然と見下ろしていた。
MoD最強にして最後の敵、魔王ゼファークラット。その姿であった。
「さあてと」
パチリと音を立てて、リュートの腰に下げた革表紙の鍵付きの本が浮き上がる。
『ソロモンの鍵』。
レメゲトンとも呼ばれるその魔導書の本質は本の中身ではなく、それを閉じる鍵にある。リュートが鍵を差し込むと、『ソロモンの鍵』は光を纏いながらぱらぱらとめくれ上がった。
そして、リュートがあらかじめそこに込めた五つの大魔法が解放される。
「完全召喚:グレーターデーモン」
四本の腕を持つ屈強な悪魔が。
「完全召喚:ヴァルキュリア」
白い装備に身を包んだ儚げな少女が。
「完全召喚:エントキング」
節くれだった樹木の巨人が。
「完全召喚:フレイムレオン」
炎のたてがみを持つ獅子が。
「完全召喚:ゴールデン・ドラゴン」
そして金色の鱗に包まれたドラゴンが、リュートの周囲を取り囲む。
「それじゃ、派手にいこうか!」
杖を構えるリュートに応える様に、魔王は咆哮する。
炎が、氷が、稲妻が。
無数の破壊の塊が一瞬にして飛び交い、広間を埋め尽くし――
そして、止まった。
(……ん?)
魔王の特殊スキルか。
リュートは一瞬そう思うが、それにしては魔王の動きまでが完璧に止まっている。
声すら出せず、何が起こったのか把握するよりも早く、リュートの意識は暗転した。
その日。
現実と仮想。
二つの世界は、ともに滅びた。