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第2章―はじまり(1)

第 2 章 “はじまり”



  1


 鞍馬の街を、旭日が染める。


 壁時計を見ると、六時を回ったところだ。夢遊病患者のように病室を出たみどりは、廊下の姿見に映った不健康そうな少女にむかって、深いため息をついた。顔を洗いにきたのだが、間違ってトイレに入っていた。のろのろと引き返し、洗面台へ向かう。あまりに長く長い夜だった。全身がきしむ・・・こっちが医者にかかりたい。

 顔を洗うと、みどりは昨夜から一度も触っていなかった携帯電話を開いた。舜から五回も着信が入っている。みどりはダイヤルを押そうとしたが、指をとめた。正直、舜に昨日のことを話してよいものか、あるいはどう話せばよいものか、今のぼんやりした頭ではどうにも言葉が思いつかない。無事を知らせる内容の短いメールだけを送り、携帯をポケットに戻した。

 しんとした早朝の病室には少年だけが眠っている。ほのかな甘い香りは、窓辺に飾られた百合の花である。みどりはベッドの傍らに腰かけて、しばらく少年の寝顔をながめていた。

 「息があるのが不思議なくらいですよ」

 少年が救急治療室に担ぎこまれ、医師が驚愕の表情を浮かべてそう叫んだのが、ざっと八時間前。「覚悟はしておいてください」と言われたものだが、少年は病院史に名を残すほどの恐るべき回復力をもって、この道数十年のベテラン医師をも感服させてみせた。

 「よっぽどこの世に未練があったんでしょうな」

 医師が最後に言った冗談が、どうもまんざらでもなさそうで、みどりは閉口した。

 ほんの数時間前、生死をさまよった人間とは思えないほど、少年は安らかな顔をしている。しかしこうしてしみじみ見ると、なんと綺麗な男の子なのだろう。印象的なのは、幅のあるくっきりとした二重の線に、切れ長の目元。すっと通った繊細な鼻。形のよい唇。まぶたに落ちかかるさらっとした緋色の髪。なんだか色気すら感じさせる。

 しかし、その身体は拷問を受けてきたかのように酷く負傷している。

 この少年が、心を開いてくれるといい――

 みどりは深い眠りへと落ちていった。


 むさぼるように眠り続け、そうして誰かに背中を揺すられたのは、かなりの時が経過してからだと思う。ノンレム睡眠の最中に、氷の冷たさを含んだ一声が意識をついた。

 「起きろ」

 途端にみどりの心臓は高速スピンした。

 目覚めた瞬間、目の前に銀の刃が突きつけられていた。隠しておいたはずの日本刀――少年が“腰に差していた”物である。

 「騒ぐな」少年の射るような視線は殺気すら感じさせる。

 「ここは何処で、お前は?なぜ俺を生かした」

 「ちょっと!これを下げて・・・」

 「答えろ」

 みどりは小さく悲鳴をあげた。刃の切っ先がひやりと首筋に触れたからである。

 「こ、ここは病院。私はみどり。あなたは昨夜、竜神池のほとりに重傷を負って倒れていたのよ。憶えてる?」

 「・・・」

 空白の時間のあと、ようやくみどりは刀から解放された。口から安堵の息がもれる。

 「わかったらちゃんと布団に戻って。あなたはまだ、とても起きられる状態じゃないの」静かに言った。

 少年はしばらく動じなかったが、やがて素直に従った。枕に頭を沈めると、深く息をついた。死んだ魚のような眼で、無機質な白い天井をぼんやりとながめていたが、そのまま誰に語りかけるともなく呟きがもれた。

 「俺は、助かったのか」

 とても生を望んでいたとは思えない、無感情な口調だった。宝石の紅眼がゆっくりと閉ざされ、一筋の涙が白磁の肌を滑ったのを、みどりは黙って見つめていた。そうして彼はただの一動もしなかったが、命の恩人への御礼がなされていないのにようやく気づいたようである。初めてみどりを正面から見つめた。

 「助けてくれてありがとう。刀を向けたこと、許してくれ」

 みどりは静かに首を振った。少年に尋ねたいことは山のようにあったが、生に放心したかのような表情を前にして、とても質問を切りだす気にはなれなかった。

 「今は西暦何年だ」

 唐突に、尋ねられた。

 「2080年だけど、それがどうかした」

 「二千だと!」

 少年ががばっと跳ね起きたので、みどりはぎょっとして身を引いた。途端に悲痛なうめき声を発して、少年は腹部を抱えこんだ。

 「大丈夫!?」

 みどりは遠慮がちに手を差しのべた。そっと身体をさすってやる。

 「それなら・・・俺は、千年近くもの時を渡ってきたというのか」

 みどりは一瞬手術の後遺症だと思い、彼の言葉を受けとめようとはしなかった。だが、最初に出会ったときの非現実的な光景が網膜によみがえると、次第に血の気が失せていくのを感じた。少年の、時代劇から抜け出してきたような姿。ひとたび話してみれば、口にする言葉は心なしか古風とも受けとめられなくもない。

 「・・・あなたは、時を、越えて、来たって、いうの」

 一言一言かみしめながら尋ねたのは、返答を予期しての、心の準備でもあった。

 「お前が信じるなら、そういうことだ」

 これは疑うも何も、むしろそうであったほうが納得がいった。この紅眼緋髪の美少年は、過去からやってきたのだ。それも、平安時代という途方もなく遠い時空の彼方から。

 「それであなたは何者なの」みどりはあえて淡々と訊いた。

 少年の横顔がふっと硬直するのが、横目に入る。

 「どうやってここまで来たの」

 しかし少年は何も言おうとしない。憂いをおびた瞳は宙をただよった。

 ・・・いま目前の少年に必要なのは、肉体的なものは元より精神的な休養なのかもしれなかった。

 「名前、まだ聞いてなかったね」みどりはやわらかに微笑んだ。

 「私は浅田 みどり。みどりって呼んでね」

 少年はようやく口を開いた。

 「日向 炎。えん、と・・・そう呼んでくれ」

 「えん?どういう字を書くの?」

 「ほのお、の炎」

 「変わってるね。でも似合ってる」

 その瞬間、炎、は顔色ひとつ変えないのだが、空気がぴりっと張りつめたのを心臓で感じたような気がした。何か不味いことを言ってしまったのだろうか。みどりは避けるように話題を変えた。

 「歳はいくつなの」

 「十七だ」

 まさか同じ歳とは思いもよらなかった。氷の彫刻とでも形容したくなる冷艶端麗な少年に、ちょっただけ親しみを感じられるようになった。

 「怪我が治るまではここで我慢してね。必要なものがあったら遠慮なく言って」

 味気ない部屋を見渡して、みどりは残念そうに笑んだ。

 「お医者さんも当分入院が必要だって言ってたし」

 「回復は早いんだ。遅くて十日もあれば、完治する」

 「ははは、その意気」

 「いや。経験上そうなんだ」

 炎が大真面目に言うので、さすがにみどりも笑いを引っこめた。

 「ちょくちょく来るよ。お大事にね」

 そう言って席を外そうとすると、患者は物騒な物を押しつけてきた。

 「ここを出るまで、預かっていてくれ」

 血のりのへばりついた日本刀だった。みどりは、帰ったらまずこれを磨きあげようと決心した。

 「それじゃ」

 「あぁ」


 病室を出たみどりは、両手を胸にあて、ふうと一息ついた。そうして、ぽかんと窓の外をながめやった。

 今の気分は一言に表現しがたかった。



 ――日向 炎は、宣言どおりきっかり十日で退院した。


 すっかり病院内のアイドルと化していた炎は、両腕にこぼれ落ちるほどの花束をかかえ(花束には送り主の名前と連絡先が書かれたカードが入っていた)、スキャンダルを抱える芸能人がマスコミをかいくぐるように、そそくさと白いハーレムを後にした。


 青い梢のざわめく下り坂を、きしきしと音をたてて自転車は進む。みどりの白いワンピースをがっしりとつかみ、そのまま石像と化した背中の乗客は、あっというまに追いこしていく大型トラックの後姿を唖然として見ている。

 「野蛮だ」

 平安人の感想は、この一言につきた。

 「そしてこの乗り物は、実に乗り心地がよくない。庶民には馬を飼う金がないのか」

 「文句があるなら降りて走れば」みどりはさらりと言った。

 みどりの計らいで炎の見た目はかなり現代化されていた。舜の体型とほとんど変わらない炎は、舜のごひいき「vivienne westwood」の白いシャツに、またまた舜のごひいき「true religion」のジーンズを合わせ、格好よくキマっていた。舜は妙に疑りぶかいところがあるため、みどりは幼馴染みの特権を笠に着、彼の母親に頼んで内緒で借りてきたのだ。しかし、着せられた当人はいささか着心地が悪そうだった。

 自転車を鞍馬駅の駐輪所にとめ、客人を荷台から降ろしてやる。狭い駅内にはぱらぱらと人影があった。切符を手渡すと、炎は興味深そうに自動改札機に通した。

 四条駅まではまめに乗換えを経た。十日目にしてようやくまともに見る未来世界に、炎は気後れするというよりも、むしろ珍しくて楽しくてならないようで、地上へ続く階段を上りながら、みどりは地下鉄がどうやって地面の下を走っているかを延々と話さなければならなかった。

 外は真夏日だった。京都の夏は特に暑い。スコールに似た夕立ちもたびたび降る。二人は鴨川に沿って桜並木を歩いた。春には、満開の桜がまっすぐな遊歩道をどこまでも彩る。

 「変わらないのは川の流れだけだな」炎の表情がゆるんだ。「大層な橋もかかっているし」

 四条大橋は観光客、地元人を問わず人通りが絶えない。京都一番の繁華街にあって、南東に見える重厚な大屋根は、出雲の阿国に起源をもつ日本最古の歌舞伎劇場「南座」である。川では靴のままの子供たちが、水を蹴りあげながら楽しそうにはしゃいでいた。傘をかぶった釣り人の姿もある。

 「炎はこの辺りの生まれなの?」

 「生まれは鞍馬だが、六波羅に二年近く住んでいた」

 六波羅は、北は建仁寺より南は五条通りまで、西は鴨川より東は東大路にいたる地域をいう。祇園の南に位置し、平家全盛のころは一門の大邸宅がひしめき、鎌倉時代には六波羅探題がおかれ、今でこそ清水寺の人気の陰にひっそりとたたずむ町だが、言うまでもなく、歴史の表舞台に踊った場所のひとつである。

 みどりはぼんやりと日本史の知識を反芻していたが、道を折れ祇園に入ると、どうしても人目を気にしなければならなかった。顔なじみの舞妓と鉢合わせになる可能性は十分にあった。

 この世界では、中学卒業と同時に、「仕込みさん」として舞妓になるための修行をはじめる娘が多い。まず「置屋」という養成所のような所で、経営者の「おかあさん」に指導をもらう。みどりも最初の一年を置屋で過ごし、花街のしきたりや行儀作法を一年かけて学んだ。今年になって一ヶ月の見習い期間を経、置屋に表札を出してもらうと、いよいよ花の舞妓生活が幕をあけたのである。母が女将というのもあって、初めに勤める店は「はなを」に決まった。

 「はなを」のたつ白川通りは、昔ながらの木造の家並みがならび、道路は石畳がしかれ、北側に柳、南側に桜や梅などが植えてある。すぐ脇を流れている白川は細い川で、大きな錦鯉が泳ぐ。このあたりの町屋は、ほとんどがお茶屋、置屋、料理屋などの商家で、白川にかかる新橋周辺は祇園で最も情緒のある場所だといえる。

 もっともみどりの家がお茶屋でなければ、炎を滞在させることもかなった。お茶屋は舞妓芸妓の生活の場であり、女人だけの領域と決まっている。炎のここしばらくの身の振りかたについてみどりなりに考えた結果が、ここへ連れてくることだった。正直うまくいくかどうかは怪しかったが、失敗したら失敗したでその時考えようと思っていた。

 “割烹 音無”

 のれんの前に立ち、みどりは深呼吸した。炎はなにか良からぬ予感でもしたのか、みどりの表情を伏し目がちに注視している。

 「御免下さい」

 紅殻格子を開くと、石畳の短い通路の奥、白木造りのカウンター席に、音無の美人女将であり、舜の母親でもある女性の、しゃんと伸びた背中が目についた。

 「あら。みどりちゃんじゃないの」花の咲いたような声だった。

 すらっと長身で、濃い抹茶色の和装にすっきりとした結髪がとても清楚だ。切れ長の目元に薄紅色のアイシャドウが美しい。端正な顔立ちで、つくづく息子によく似ている。

 「忙しい時にすいません」

 「大丈夫よ。御予約のお客さんはお昼なの。舜を呼ぶ?」

 「いえ、女将さんにお願いがあって来たんです」

 女将は意外そうな顔をした。

 「一体何かしら」

 「従業員を募集していましたよね」

 「そうね。六月に、長年勤めてくれたマツさんが辞めてしまったから。ご主人が入院されたのよ。物腰やわらかで、とっても真面目なひとだったんだけど」

 みどりは力をこめて言った。

 「もしまだ募集しているなら、紹介したい人がいるんです」

 「みどりちゃんのお友達?」

 「まあ、どちらかというと」

 女将は少し困ったように首をかしげた。

 「歳はいくつなの」

 「十七です」

 「うちは老舗の割烹料理屋だから、お得意様が多いの。接待やお作法もお仕事のうちだから、舞妓経験のあるみどりちゃんならともかく、世間一般の高校生になると荷が重いかもしれないわ」

 「その点は心配ないと思います」

 「会ってみないことには、なんとも言えないわね」

 「実は、一緒にそこまで来ているんですけど」

 女将は目をまるくした。

 「もしご都合が悪くなかったら、会っていただけないでしょうか」みどりはためらいがちに尋ねた。

 「ええ、ええ。わかったわ。舜!お茶を二つ淹れて頂戴」

 途端にみどりの心臓はでんぐりがえった。舜に出てこられるのは・・・いろいろとまずい。お互いの親にも恋人にも話さないようなことを包み隠さず打ち明けてきた間柄だから、話すとしたら舜しかいないし、話したいとも思ったが、うまい言葉が思い浮かばず、あいまいな言い逃れをしていたので、みどりのことを深刻に心配していた舜の機嫌は、目に見えて悪かった。

 戸口に戻ると、炎がつかみかかってきた。どうやら中の会話がもれていたらしい。

 「そんな話、初めて聞いたぞ!」

 「しーっ」

 強引に炎の口をふさいで、みどりは諭すように囁いた。

 「いい?あなたは私に膨大な借金があるの。病院の入院費、電車賃、慰謝料・・・」

 「慰謝料だと」

 「まあね」

 「ふざけるな!勝手に助けておいて」

 「勝手にですって」みどりはカチンときた。

 「私が助けてなかったら、今ここに立ってるあんたはいないのよ!暗闇の山奥から重傷のあんたを背負って、どんな思いだったと思う!おかげで親にも親友にも怒られて、踏んだり蹴ったりよ!」

 「悪かった」炎が呆気なく引いたので、みどりは急ブレーキに耐えきれず前のめりに転倒した気分にさせられた。

 「お前には多大な恩がある。望むようにするよ」

 諦めたような口ぶりだった。


 一方、カウンターに座った緋髪の少年を、厨房から簾越しにのぞき、舜には二つの解せない点があった。一つは、どうしてみどりから自分に一言なかったのかということ。もう一つは、失くしたと思っていたお気に入りのシャツとパンツを、どうしてこの見知らぬ男が着用しているかということである。しかも自分よりよく似合っているのは自覚する。

 「ヒューガー・エド・エンさん。日本国籍は六年前に取得」

 女将はみどりの偽造した履歴書にむらなく目を通したあと、目の前にしっとり座っている見慣れない容姿の少年に、輝く好奇心の目をむけた。

 「ロシアのヤマル半島出身で、モーリタニア国籍の父と、アルゼンチン国籍の母のハーフです」みどりがわざわざ付け加えた。

 「宜しくお願い致します」ヒューガー・エド・エンは深々と頭を下げた。

 「どうしてここで働こうと思ったのかしら」

 「日本古来の文化が地にも人にも息づいている祇園に、かねてから興味を抱いていました」

 「嬉しいことだわ」女将はにっこりした。

 「いま自由な時間があるうちに、現地に足を踏み入れて、最終的には論文にまとめる方針です」

 シナリオが用意されていたような巧みな言いまわしには、みどりも内心舌を巻くばかりであった。

 「ヒューガーさん、あなたの熱意はわかったわ。ただね、やっぱりまだお若いということで接待に不安もあるの。うちのお客さんは年配の良識人が多いから。だからこういうのはどうかしら。二週間ほど試用期間を設けて、もちろんお給料は出すわ。それで支障がないと判断したら、正式にアルバイトとして採用する。あなたも、もし向いてないと思ったら二週間で辞められる」

 「結構です」

 「交渉成立ね」

 手渡された契約書をちらりと見、みどりは心中でガッツポーズを作った。


 とはいえ本心は、炎からお金を巻きあげる気などさらさらなく、いわば口実だった。ただ彼をこの時代に引きとめられれば、それでいいと思っていた。そうしなければ、彼はすぐさま元の時代に戻るだろうと思った。そして今度こそ死ぬのだろうという予感がした。

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