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第1章―漂流者

第 1 章 “漂流者”



   1


 淡い夕闇がたちこめている。


 古びた純和風家屋。中庭に面した縁側に腰をおろし、少女がひとり、夢の淵にまどろんでいた。艶のある長い髪に、美人というよりは可愛らしい面持ち。半袖シャツにハーフパンツ、それに白足袋を履くという奇妙な格好をしているのは、舞台稽古から帰ってきてそのまま、この場所で眠りこんでしまったからである。


 「みどり」

 優しく揺すられ、浅田みどり、はぼんやりと目を覚ました。振り仰ぐと、老齢の母が穏やかに微笑んでいる。

 「ごめん、寝ちゃってた」

 「今日までの疲れだよ」ふくよかな温かい手が、みどりの髪をそっと撫でた。

 「さあもう一息だ。精一杯やっておいで」

 「うん」

 「ちょっとお腹に入れていきなさい。どうせお昼とってないんでしょ」

 「食べたよ」

 「どこで」

 「シュンのところ。おばさんがご馳走してくれた。今日は本番だから、体力つけなきゃって」

 「そうだったの。よくお礼言った」

 「言った」

 心持ち丸まった背中が奥の台所へと消えた。


 今年、みどりの母はついに八十を数える。かつて祇園一の花形舞妓としてその名を馳せ、結婚して引退してからも、ここお茶屋「はなを」のスパルタ女将として、若手の育成に熱をそそぐパワフルな人である。

 ちなみに、現在17歳のみどりのことは、決して高齢出産だったわけではない。みどりは子供のなかった熟年夫婦に引きとられた、「捨て子」だったのである。とはいえ、この里親の愛の貯蔵量といったら、サウジアラビアの石油資源も匹敵できないほどの枯渇知らずだった。そのおかげで、いちおうは健全な人格と、血色の良い頬、生気さんさんと輝く目を持ちえた一人娘なのであった。


 みどりは思いきり背伸びをすると、中庭の井戸水で眠気をはらった。部屋に上がると、床の間に卸したての衣装が目にとまった。この日のために新調した舞台装束である。白の下着に緋色の差し貫、金の花天冠。手にとると、ずしりと重い。帯紐の数まで念入りに確認し、皺の寄らないよう丁寧に風呂敷に包み、紙袋に詰めた。

 「今晩は快晴ですって」台所から母の声がとんだ。

 食卓につき、みどりは目を丸くした。

 「こんなに食べたら踊れないよ!」

 「大丈夫よ。それまでに緊張で消化するから」

 「また、追いうちを・・・」

 むすっとして箸を進める娘を、母は感慨深い笑みで見つめた。

 「時の経つのの早いこと。あなたが『鎮魂の舞』を踊る日が来るなんて」

 「はいはい」口をもぐもぐさせながら、みどりは淡々と言った。

 「私が踊ったのがまるで昨日のことのようだって、ここ一週間で何回言ってると思う?三十八回よ」

 「あら、あなたも厭な趣味してるわ。そんなの数えてる暇があったら、さっさと稽古に励む」

 「そればっかり」

 「あと四年・・・あの人が、頑張ってくれればね」母はため息と同時に、肩を撫でおろした。

 妻と十もの年齢差があったみどりの父は、誰もが口を揃える大往生だった。

 「シュンのお母さんが言ってた。娘一世一代の晴れ舞台を、三途の川を逆走してでも見にくるだろうって」

 「一世一代の大惨事にならなければいいけど」

 「ふん。絶対に私の踊りを認めてもらうわよ」

 「そうですか。頼もしい限りですこと」

 二人は顔を見合わせ、クスクスと笑った。

 「ご馳走様」

 みどりは食器を流しに片すと、廊下を何度か往復した。

 玄関にまとめられた紙袋の山を見て、母は気の毒そうに言う。

 「やっぱりお母さん、半分手伝おうか」

 「大丈夫」

 「そうは言ってもあなたこれ」

 みどりはスニーカーに細い足を通しながら、さらりと言った。「宅配人は雇ってあるの」

 丁度その時である。

 「お邪魔します。みどり!来てやったぞ」

 表で木戸のがらがら開く音が響いた。

 「えっ、みどり。宅配人って」

 困惑顔の母をよそに、かかとを踏みつけたまま外へ出たみどりは、声の主を見るなりわざとらしく甘えてみせた。

 「シュン〜!待ってたよ」

 近所の幼馴染みであり、幼稚園三年間、小学校六年間、中学校三年間という脅威のクサレ縁を共にした、シュンこと渡瀬 舜である。やわらかなアッシュカラーにブリーチした短髪を、無造作にワックスで立たせている。家系のどこをあさっても純日本人しか出てこない渡瀬家で、アイリッシュな淡いグレーの瞳を持っているのは、彼を除いて飼い猫のドラしかいない。

 華奢なみどりを押しのけ、うえっと一言、「これ全部持ってくわけ」と、親友はうめいた。

 「まあね」

 てきぱきと手渡されるまま、大きな両手が荷物まみれになっていく。

 「・・・おい、明らかにおかしいだろ。なんでお前が手ぶらで俺がフルなんだ」

 「んじゃ一個持つよ」

 「んじゃって、あなた俺が言わなければ手ぶらで悠々とハイキングするつもりだったの!」

 「まさか。いくら私でもそこまで薄情な真似はしないよ」

 みどりは何食わぬ顔で自転車を引っぱってきた。

 「えっ、それ反則だろ」


 電車に揺られて一時間。

 叡山鉄道終点駅・鞍馬で下車したのは、みどりと舜、腰の曲がった老夫婦、それに、風呂敷包みを抱えこんだ中年の女性の五人だけだった。

 駅舎には大きな天狗の面が飾られている。幼いころ、みどりはここへ来るたびに、天井から睨みをきかせる赤い憤怒の形相と視線を合わせないよう努めた。

 導入して間もない自動改札機を抜け、見慣れた駅前に出た。鞍馬は京都盆地の北にある静かな温泉地で、周囲を貴船山、鞍馬山、金比羅山のなだらかな山々に囲まれている。青葉の季節を迎え、ちらほらと訪れる観光客には、年配の男女が目立つ。みやげもの屋が軒を連ねる上り坂はゆるりと続いて、店先から漂ってくる香ばしい匂いは木の芽煮という地域名産品である。

 「あんまり変わってないな」

 舜は無表情にそう言ったが、なんとなく声が弾んでいた。

 「私に引っぱられて、よく来たもんね」

 「懐かしいよ」

 二人こうして歩くのは久しぶりだった。中学卒業後、それまで生活の一部でもあったシュンという存在は、十五年の歳月が夢のようにぱっと日常から消えてしまった。みどりは本格的な舞妓修行がはじまり、夜は夜間高校に通う生活である。舜は地元の普通高校を受けたが、中学のころに樹立したスポーツテスト全国8位の記録が災いし、さっそく部活勧誘の目玉商品に祭り上げられ、柄にもなくバスケット部の新人エースに落ち着いてしまった。「下手にはりきらなきゃよかった」。金の額縁に収まった栄光の表彰状をながめ、舜は心底後悔しているように見えた。

 高校に入って舜は変わった。眉なんてみどりの知るかぎりイモ虫の天然記念物だったのに、当時の半分以下の濃度と半分以下の好印象になってしまった。自然現象としては、それまでみどりと五十歩百歩だった背丈がタケノコの如くしゅるしゅる伸びて、まったくもって可愛げがないのである。だが、身体能力にしても頭脳にしても潜在能力は恐ろしいものを秘めているのに、出し惜しみというか何というか、周囲に露呈するのを面倒くさがり、能力値に見合った積極性がないところは、相変わらずであった。

 

 目的の神社までは当分かかると思われた。鞍馬寺まではケーブルカーが開通しているが、それを過ぎると、貴船山へ通じる人気のない山道をしばらく歩き続ける。老木の根が相互にからみあい地面の上に張りだしている。ここは僧正ヶ谷といって、幼い日の源義経が毎晩遅くに鞍馬寺を抜けだし、平家討伐を期した修行を行っていたという由縁がある。古くから物の怪が住むといわれ、あまり人の寄りついた場所ではない。

 舜の日に焼けた額を滴がしたたり落ちた。

 「まじ、きっつ・・・」

 「代わろうか?」

 さすがのみどりも親友を気遣いはじめるが、それには答えず、舜はむっつりと先を行く。しんとした山の霊気の中に、二つの足音だけが一定のリズムを刻んでいく。やがて、両側に朽ちた灯篭の立ちならぶ参道が、森の奥深く姿を現すと、朱色も剥げかけた幾つもの鳥居をくぐり、提灯の明かりとぼろぼろの社、そしてはじめて人の声を耳にする。

 「見えた!」二人の声がダブった。

 いち早く大鳥居をくぐったみどりの前を、お面を付けた子供達が、きゃっきゃとはしゃぎながら走り去っていった。境内では厄除けの炎がごうごうと燃え、一番星が輝きはじめた藍色の夜空に勢い良く火花を散らしている。

 背後でどさりという音とともに舜が崩れおちた。頬が蒸気をおびている。

 「バスケ部のエースが、不甲斐ないな」みどりが茶化した。

 「俺の苦労も知らずにのうのうと・・・」

 「ごめんごめん!冗談だよ。後は私が運ぶから」

 「しんどー」

 「シューン!」

 「なんだよ」

 「かき氷!何がいいー?」

 「解ってるでしょー。俺はオールウェイズ、いちごなのー」

 ついでに出店で団扇も買った。無理を引き受けてくれた幼馴染みへの手厚い御礼である。

 「本当にありがとうね」

 かき氷を手渡すと、みどりはまだ脈の落ち着かない舜の隣に座り、ぱたぱたと風を送ってやった。しかし舜はそれを制し、みどりの手から団扇を引きぬくと、

 「いいから。行けって」無愛想な声がとんだ。

 「ごめん・・・」

 「ばか、違うよ。みどりは準備とか挨拶回りとか色々あるんだろ」 

 「そうだけど」

 それでも具合悪そうに動かないみどりを見て、舜の口元が悪戯っぽく歪んだ。

 「解った。不安なんだ。失敗したらどうしようとか、そんなことばっかり考えて」

 「ば、馬鹿にしないで。余裕よ」

 「ふーん」にやにやしている。

 「俺、最前列で見てるからな」

 みどりは目を丸くした。「性格悪くない」

 「今に始まったことじゃないだろ。踊る前に、絶対俺を見ろよな」

 「変な約束とりつけないで。ますます混乱するでしょう」

 「ははっ、頑張れよ」

 お調子者は応援歌を歌いはじめたので、みどりはたまらずその場から離れた。

 後々ふと気持ちが楽になったことに気づいて、自分も舜の扱いに慣れているが、舜もまた自分の扱いに慣れていると感じ、自然と笑みがこぼれるのだった。



 永翠神社・竜神祭――50年周期の開催年にあたるこの年、地元町鞍馬はささやかな祝福ムードにつつまれた。神社の建立は平安時代初期といわれ、御祭神がきわめて特異なことから、歴史の表舞台に名を躍らせることはなかったが、みどりの父方の家系である浅田家は、10世紀に渡るあいだ世を忍んでこの神社を護ってきたという。みどりが幼いころ子守唄代わりに父が語ってくれたのは、決まって、永翠神社にまつわる神話的な伝説だった。


 遡ること、遥か1000年以上も前のこと。

 平安遷都より1世紀半が過ぎたころ、中央政府では藤原氏とくに北家が天皇と結びついて、まもなく摂関政治のもと不動の地位を築こうとしていた。

 このころ京の都は目に余る荒みようで、8世紀後半から満を持して崩れはじめた律令制度の影響は、農村から中央へと徐々に影響をきたし、国家の財政はもとより、軍備にも多大な痛手をもよおした。そのうえ、重税にあえぐ農民に輪をかけてのしかかったのは、天候の不順や虫害による飢饉と疫病だった。政界でも血なまぐさい陰謀と暗殺の影がうごめいて、人間の放つ陰の気が、まったく別次元の「魔界」と呼ばれる異世界と共鳴し、両界が誘引しあい、魔界が人間界を侵食しはじめるという事態に陥った。魔界の邪気は人間の精神を汚染し、人間の怨霊とか怨念といったものを喰らう魔界の住民――人々は彼らを妖怪、魔物と呼んだ――も増殖し、その中心地となった都は厚い雲に覆われたようにどことなく陰気に見えた。

 一方、鞍馬山に名高い鞍馬寺に、身寄りのない少年がひとり育てられていた。その両目が翡翠の色をしていることから、永翠という名で呼ばれていた。永翠は物心つかない頃から不思議な能力を持っていた。常人の見えないものが見え、超人的な念力でそれに対処することができるという、その噂は都へ広がり、彼は15の年に宮中へ呼ばれ、史上最年少にして中務省の陰陽頭という地位を得た。都は妖魔の巣と化していたが、彼が宮中に拠点を置いて数年もすると、跡形もなく浄化されてしまった。

 しかし、当時の陰陽道における二大勢力、安部・賀茂両家の陰謀により永翠は失脚し、宮中を追われたあとは鞍馬山で隠居生活を送ることになった。妻子もでき、やがて陰陽界の第三勢力となる日向宗家の礎が、本人は図らずともしっかりと芽吹いたのである。そんなある時、鞍馬山に巨大な落雷があった。永翠が結界を施していたのを幸いに、山ごと焼け崩れるという大惨事は逃れたが、これを発端に三日三晩の大嵐が京を襲った。川は暴走し、突風は渦を巻いて木々や建物をなぎ倒し、ついには空が広大な雲海で覆われ、一切の光が遮断されたのである。

 天変地異の首謀者は、魔界も最高層に君臨する竜神で『紅竜毅』といった。三千世界に散った天竜八部衆の一角で、天空を覆いつくすほどの長大な身体に、赤みがかった黄金の鱗、火花がほとばしる二つの角を持っていた。

 永翠は自らの生命を代償に、竜神を鞍馬山に封印した。白銀のリングが竜神を包んだとき、その身体は内側から灼熱の白光を発して粉々に崩壊してゆき、やがて豪雨となり鞍馬山に降りそそぎ、黒々とした深い池を形成した。

 人々はこの池を竜神池と呼び、竜神とひとりの僧侶の魂の墓場として丁重に祭った。まもなく永翠の妻子を中心に池の鎮守として建てられた神社が、ここ永翠神社である。

 現在も50年に1度だけ、2つの御霊を鎮めるための竜神祭が催され、永翠が愛したといわれる『鎮魂の舞』を選ばれた巫女が踊るのがしきたりとなっている。肝心の踊り子はこの伝説をまったく信じていないときているが・・・



 ――拝殿の前に設置された舞台はすっかり装いを整えていた。ヒノキの床板には白地に金の刺繍が入った幕がめぐらされ、四隅にかかげられた松明が赤々と輝いている。左右の楽舎につながる渡り廊下には赤い敷物が敷かれ、烏帽子に狩衣をつけた楽人たちが、それぞれの楽器を手に黙々と調整を行っているのが見える。

 まもなく式典が始まった。舞台上に神籠をしつらい、御祓いが行われるのだ。みどりの父が死んだあと、六歳年下の弟が神主を継いでいた。小柄ながらがっしりとした風体に、灰色の無精髭がよく似合っている。叔父は無口な人だったが、みどりが鞍馬の実家へ遊びに行くたび、七福神のように破顔して、帰るときには必ず何かひとつ家具を壊していく幼い姪を歓迎した。

 みどりが舞台の裏手にまわると、待ってましたと言わんばかり、町内会のおばさん達がみどりを取り囲んだ。されるがまま迅速に衣装を着せられていく。次に鏡の前に座らされ、三人がかりで化粧が施される。髪を結うのは、祇園の舞妓がお勤めのたびにお世話になっている、みどりも顔なじみの美容師で、気さくで舌の回る彼女とはいつも会話が絶えないのだが、緊迫した空気を察してか、彼女が話しかけないでくれたのは、今日ばかりは大いにありがたかった。

 いよいよ支度が整うと、次々と激励の言葉をかけられて、いまやみどりはそれに愛想よく応えることすら難しかった。時間が刻々と迫るにつれ、心の中の小心者が頭をもたげてくる。

 「楽しんできなさい」

 不意に肩を抱かれ、みどりはあっと声を発した。母が、いや、先代の踊り手が励ましに来てくれていたのだ。みどりは身の引きしまる思いで腹筋に力をこめた。

 まもなく太鼓と法螺貝が吹かれ、拝殿から紙覆面をした社人が、手に手に供物を持ち、大股にすり足で出てきた。すべてお供えが終了すると、他の明かりがすべて消えた。みどりは祈るような気持ちで瞳を閉じた。

 シャラーン・・・

 凛と鳴る、清らかな鈴の音。

 足元に視線を落としたまま、滑るように廊下を進む。

 舞台の中央に出ると、みどりはゆっくりと顔を上げた。鞍馬にはこんなに人がいたのかと内心驚く。言葉通り最前列のど真ん中に、舜は立っていた。わずか数秒にも満たない間、視線で会話があった。「がんばれ」「だいじょうぶ」。舜が笑んだのを見た。

 みどりは大きく振りかぶると、ゆるやかに一歩を踏んだ。

 行ける!


 高く、低く、しなやかに、しなやかに。

 笛の旋律に身を任せるまま、神に操られた蝶のように、みどりは光の舞台を音もなく舞った。練習の時にはなかった感覚が、身体の隅々まで潤していくのがわかった。あらかじめ自分と共鳴するように作られたかのような、この旋律、この動き。みどりは夢中になって踊った。

 そのあと自分がどう踊っていたのかは、恥ずかしながら曖昧にしか思い出せないが、気がつけば割れんばかりの喝采が巻きおこっており、鎮魂の舞の成功をみどりは呆然と悟った。本来なら静粛かつ神妙に幕をひく場なのだが、会場の沸きようはあまりに常軌を逸していた。観衆の中に母の姿を見つけると、なにやら慌てた様子で身振り手振り訴えているのがわかった。みどりは弾かれたように頭を下げた。

 こうして「厳粛な」神宴のメインイベントは、体育会系の敬礼をもってシメられたのであった。



 ――その夜、確かに空は晴れていた。宇宙へ透き通るような快晴だったのだ。


 人ごみから少し離れた木陰に腰かけて、みどりはまだ余韻に浸っていた。踊りきった。あの『鎮魂の舞』を、自分が!膨大な時間をこの日のために費やしてきて、いま初めて歴史の一部を手にした思いがする。肝心の信心深さには欠けるみどりだったが、伝説の内容はともかく、千年の時を経た永翠神社秘蔵の歴史書に、25代目巫女として自筆の署名を残せることには、やはり感慨深いものがあった。

 とその時、みどりは突然背筋が凍ったのを感じた。

 「・・・」

 本当に何気なく夜空を仰いだ。月が輝くはずの、星がまたたくはずの、碧く黒い夜空を。

 しかし何かが異常だった。いつ流れてきたのか、はたまた何処から流れてきたのか、月を隠すかたちで雲がたなびいていた。まもなくして、感覚として抱いていた異常の文字は、明白に形をおびたそれへと変わっていった。月を中心に、全天から雲が集結しはじめている。しかもその速度は超常現象と称して過言ではなかった。

 はしゃいでいた幼い子供が母親の手にしがみついてぐずりだす。会場にもぽつぽつと異変に気づいた人々が現れはじめた。みどりも脱けがらのようになって、その‘おかしな’光景を眺めていた。次期それは雲海と呼べるほどに巨大化し、いまや完全に星屑のきらめきを覆い隠して、なおも成長を続けている。雲海内の放電に触発され、会場が一斉停電に陥った。

 「みどり!」

 幼馴染みの引きつった声で、みどりははっと我に返った。

 「何がどうなってるんだよ」

 「わ、わかんないよ」

 稲光が二人の蒼白な顔を白く照らしている。やがて雲海は、地を這うような鈍い音とともにとぐろを巻きはじめた。風が唸る。森がざわめく。そうして天高く築かれたドラゴンの巣、その渦の中心がぴかっと裂けた。裂け目から焼けるような眩い光が射しこみ、天と地の間に白銀の光柱が立ったかに見えた。

 誰もが愕然と立ちつくすなか、その時みどりのとった行動は突発的でかつ非・理性的だったに違いない。舞の衣装をその場に脱ぎすて、傍の屋台に置いてあった懐中電灯を引っつかむと、光柱の落ちた場所を一点に凝視しながら、疾風のように走りだした。

 「おい、どこ行くんだよ!」

 舜が驚いて止めようとしたが、彼の大きな手は空しく宙をつかんだだけだった。

 起こした行動を本人もよく理解していない。ただ、みどりには鼓動の高鳴りだけがあった。露出した木の根が行く手を阻もうと絡みつく。目標の光柱はやがて薄れつつあった・・・


 そうしてどのくらい走り続けただろう。

 頭上の雲は切れ、白い月が顔を出していた。

 光柱はすでに消滅していたが、向かう先が狐火のようにぼうっと光っている。身の丈ほどの茂みに苦戦しながらも、ようやく目の前が開けた。

 重力を失った光の破片がきらきらと蛍のようにあたりを舞って、その中心には竜神池が一枚の鏡のように横たわっている。みどりは誘われるように歩みを進めた。幻想的な光景だった。神とも妖精ともつかない一人の少年が、光の雪をまといながら、池のほとりに倒れている。吸い寄せられるように傍へ寄ると、月光を頬に浴びて少年の顔は死人のように蒼く、そして寒気がするほど美しかった。

 ゆるやかに雲海が消えていく。穏やかな星空がふたたび天上を飾り、やがて少年を包んでいた光も薄らいで、みどりの見守る中、とうとう元の闇へと帰した。

 握りしめていた懐中電灯で、みどりはあらためて少年を照らした。乱れた緋色の髪、白い肌。みどりは思わず後ずさりした――その身体は、目を伏せずにはいられないほど流血にまみれて、ほとんど黒く変色している。普通の人間ならば、助けたいという気持ちよりも、まず恐怖が先に立つだろう。それでもみどりは自分を奮いたたせ、少年の脇にしゃがむと、おぼつかない手つきで彼の着物をはぎ、胸元に耳をあてた。ドク、ドク、と・・・貧弱ではあるが生命の鼓動が、まるで死へのカウントダウンのようにリズムを刻んでいた。

 「まだ息がある・・・」

 ためらいがちに、少年の服に手をかける。そうして彼の下腹部にざっくりと開いた大穴を見たとき、みどりの声帯は凍結したように悲鳴をあげることを拒んだ。淵の岩に引っかけて真新しい紅袴をちぎり、包帯代わりにして止血を試みたが、流血はとめどなく溢れていく。誰が見てもこの少年が助からないのは明白だった。

 しかしここで出会った以上、もはや彼の生命は自分が握ったのも同然である。生きるか死ぬか。それは少年の生命力とみどりの行動にかかっていた。

 腹を決め、みどりが少年を抱き起こそうとした、そのときである。

 「はは・・・」

 かすかに、だが確かに、少年の青い唇が笑んだのだ。みどりは反射的に手を引っこめた。

 少年がうっすらと目蓋を開け――“それ”は、みどりの意識に鮮烈に焼きついた。


 真紅の眼。


 メノウの原石。いや、それよりもっと複雑な色をしている。燃えるように美しい紅。


 「こんな所まで・・・追って・・・来たのか・・・」

 吐息混じりの苦しそうな声だった。少年の視線はみどりを通りこして宙をさまよっている。

 「殺すならさっさと・・・ううっ」

 「しゃべらないで!私はあなたを殺したりしない・・・」

 大量に吐血し、少年は喉をぜいぜいと荒立てた。そのあまりに無残な姿に、みどりの頬を涙が伝った。

 「あきらめないで。絶対に助けるからね」

 みどりは少年を背に負い、ふらふらと立ちあがった。流血が染みて首筋がぬるっとした。

 「絶対死んじゃだめだよ!」

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