男の嫉妬
義人は本物の自動車免許を持っていないのにも関わらず、車の運転していた。というのは、免許をとるために路上教習を受けていたからである。時刻はまだ午後の四時半であったが、季節が季節だけに辺りは薄暗くなっていた。マフラーを巻いた通行人が吐く白い息。コンビニの緑と赤を基調とした一足早いクリスマスの飾り。街の至るところで冬が顔を出していた。
「それにしてもさ、お前が教官をやってるなんて考えもしなかったよ」
義人は、自分の息で両手を温めながら言った。方向指示器の音がカチカチと鳴っている。車の中は暖房が効いているが、ハンドルが冷たいのだ。
「別に好きでやってるわけじゃない」教官は答えた。彼は義人の元クラスメイトであり、教習指導員にしてはまだ若い方であった。「これに限らず、仕事なんて大っ嫌いさ。教えるのは好きなんだけどさ。信号、青になったぞ」
「同じ教えるなら、学校の先生になればよかったじゃないか」義人は、難なく右折をこなしながら言った。「数学……っていうより小学生のときだから算数か? お前、すっげー得意だったろ? 俺も算数だけには自信あったけど、お前には一生かかっても勝てないな、って思ったもん」
「世辞はいいよ。それよりも、ちゃんと前を見て運転してくれ。二回目だからって、調子に乗ってると痛い目に合うぞ。そもそも、免許の更新なんて忘れるなよな」
「仕方ねーだろ、マジで忘れてたんだから。ていうか、俺の話はいいよ。それよりもお前の話だ」
車は街から離れ、田舎の方に向かっていった。徐々に強まっていく暗闇をヘッドライトは照らし続けていた。
「お前は夏目先生みたいな教師になればよかったんだよ。少しは覚えてるか? あの人のこと?」
「夏目奈々先生、だろ?」若き教習指導員は言った。「忘れるわけないだろ。二年連続で担任だったんだから」
「まあ、そうだろうけどよ。一応、訊いてみたんだ」義人は、雑な運転をしながら言った。「いい先生だったよな、今にして思えば。あのころは教師同士を比較するなんていう発想がなかったけど。まだ生きてるかなぁ?」
「さあな。でも、まだ50かそこらだろ。生きてるんじゃないか、多分」
「50になった夏目先生か。見たくねえな」
「そんなこと言ってやるなよ。好きだったんだろ?」
「ばーか。何でそうなるんだよ」義人は顔を赤くして言った。
「恥ずかしがらなくてもいいだろ」教官は次に曲がる方向を指で示しながら言った。「小学生の男子が、優しくて美人でいい匂いのする女先生を好きになる。至って普通の現象さ。そもそも、あれぐらい年頃の子は、みんな、無条件で教師を好いてしまうものさ」
「そういうもんかね。じゃあ、お前も?」
「もちろん、好きだったさ。今でもたまに夢をみる」
「たまにって、具体的にはどれぐらい?」
「さあな。夢を見た回数なんて、よく分からねーけど、年に二、三回ってとこかな?」
「うえっ。数字がリアルすぎて気持ちわりーよ」
「普段は忘れているのに、何故か、ふっと夢に出てくるんだよな。その夢に限ったことじゃないけど。……それにしても、君は真面目に運転する気がないみたいだな。判子、押さないぞ」
「んなこと言っても、横にお前がいるのに、いつも通りに運転するなんて無理に決まってんだろ。右良し、左良し、をやれっていうのか?」
「分かった、分かった。じゃあ、もう好きにしてくれ。時間までには学校に戻ってくれよ」
「おっ、いいのか?」
「よくはねーよ。万が一、上から何か言われたら、お前に責任をなすりつけるからな」
「おっけー、おっけー。じゃあ、腹が減ったしコンビニでも探そうかな」
「さすがにそれは止めてくれ。目立ちすぎる。おれの首が飛びかねん」
結局、教習車は、畑が横にある道路脇に止まった。義人は、一度、体を伸ばすために外に出たが、寒くなってすぐに車内に戻った。彼の同期生は、椅子をやや後ろに倒して、まるで葬儀場の死人のようにお腹の上で手を組んでいた。痩せた体型のせいか病人のようにもみえ、本当に死人のようだった。
「さっきの話だけど……」義人は、暖房の微調整をしながら言った。「夏目先生の夢って具体的にはどんな夢を見るんだ? やっぱり、実際にあった出来事か?」
「やけにこだわるんだな。ふーん。君がそんなに入れ込んでいたなんて知らなかったよ」
「だから違うって言ってるだろ。いや、好きは好きだったんだけど先生がどうこうじゃなくてさ。なんていうか、その……嫉妬なんだよ」
「嫉妬?」
「だからつまりな……」義人は、椅子のカバーを爪でげじげじと引っかきながら言った。彼に煙草を吸う習慣があったのなら、おそらくは一服していただろう。「そうだなあ。あれは、たぶん算数の授業だったんだろうな。こういうことをやっただろ。一分は六十秒。一時間は六十分だから60かける60で三千六百秒」
「ああ、それならよく覚えてるよ」教官は、懐かしむように言った。「一日は24時間だから、3600かける24で、えっと……三万六千が二つに、七千二百が二つだから……」
「相変わらず、不思議な計算方法だな」
「べつに珍しいやり方じゃないぞ?」
「まあ、いいよ。数字なんて適当で。分かりやすく十万秒ぐらいにしておこう。んで、一年が365日だから、だいたい三千万秒。そして最後に……、人の寿命が平均して80年ぐらいだから、まあ、100歳をかけて……ざっと三十億秒か」
「ちょっと概算をしすぎた感はあるけど、大体、そんなもんだろうな。だけど、それが何だって言うんだ?」
「ああ……それで……」義人は本題に入った。「その計算式と答えが黒板に書かれて、そのあと夏目先生が皆に向かって、その時間が長いと思うか短いと思うかって訊いただろ? 人生は三十億秒。それが長いか、短いか。まず最初に、長いと思う人は手を挙げてー、と先生は訊いた」
「みんな手を挙げたな」
「そう、お前以外はな。そんで先生が、短いと思う人、って言ったとき、お前は高らかに手を挙げた」
「おれだって良く覚えているさ。周りの目がぜんぶ集まったんだから。それで?」
「その前に訊いておきたいんだが、何でお前は、短いと思う人って言われたときに手を挙げたんだ?」
「もちろん、そう思ったからさ」
「だから、どうしてそう思ったんだ?」
「……はあ。それを説明しろっていうのか?」教官は、いかにも面倒くさそうに言った。仕事中の教習指導員に煙草を吸う権限があったのなら、彼はそうしていただろう。「そうだな。色々と理由はあるが、一つは数的感覚のせいかな。あのぐらいの歳の子は、三十億なんて数字を滅多に見ない。だから、いきなりそんな数字が飛び出してくると、どうしてもインパクトに負けてしまう。だけどおれは幼少の頃に、宇宙に関する本をよく読んでいたからな。大きな数字には慣れていたんだ。歴史の本も好きだったから、大きな数字にピントを合わせるのは上手かったと思うよ。とはいえ、いま考えてみれば的外れなピントだったと思うけどな。三十年生きれば、百年は三倍するだけでいいけど、十歳の子にとっては十倍しなきゃいけないんだから、当然といえば当然だよな」
「……それだけか?」
「もちろん、他にも理由はある。もう一つの大きな理由は……たぶん、こっちの方が大きな理由だろうけど、おれが自閉症だったからだろうな」
「お前が自閉症? そんなふうには見え…、いや、確かにお前には変な所がいっぱいあったけど……」
「まあ、あれだ。最近、よく耳にするんじゃないか? アスペルガーって言葉。ようするにそれなんだよ。まあ、おれも知ったのはつい最近だし、それを知ったところで自分が変わるわけじゃないから、あんまり詳しく調べてないんだけどさ」
「それで?」
「うん。それで、さっきの話に戻るけど、多分、おれと同じように数字のインパクトに圧倒されなかった子も、いるにはいたと思うんだ。宇宙の本を好んで読んでいたのは、おれだけじゃないだろうし」
「だけど、誰も手を挙げなかったじゃないか」
「ああ、それなんだ。おそらく、一人だけ仲間はずれになるのが怖かったんじゃないかな。体面的な問題もあるけど、それ以上に精神的に。だが、おれにはそういうものはない。それがアスペルガー全員の特徴ってわけじゃないけど、影響はしていると思うな。一人ぼっちになることよりも、自分に嘘をつくのが嫌なんだ。自分がマイノリティ側の意見を持っている場合には、なおさらね。まあこれは歴史の本の影響もあるだろうけど」
「……まだ他にも理由があるんじゃないか?」
「おいおい。勘弁してくれよ。そりゃあ、深く分析すれば出てくるだろうけど、はっきり言って疲れたぜ。もう充分だろ」教官は左手で窓を開けて、外に白い息を吐いた。暑かったり寒かったりして、冬の空調管理は忙しい。「それよりもお前が話せよ。何でこんな話をさせたんだ? ていうか、もともと何の話をしてたんだっけ。……ああ、そうそう、夏目先生の話だ」
「べつに夏目先生のことが死ぬほど好きだったってわけじゃないけど……」今度は義人が話す番だった。「やっぱり俺、意識してたんだな、今にして思えば。ああ、そうだ。俺は先生のことが好きだった。だから、誰よりも先生の挙動を注視していた。そんな俺だから分かるんだよ。……先生がお前を贔屓にしてたって」
「贔屓? そうだったか?」
「ああ、いや、普通の目でみれば、確かに夏目先生は公平だったよ。良い先生だからな。だけど、嫉妬深い俺の目には、先生がお前を贔屓しているようにしか見えなかったんだよ。それが、ごく僅かな差だったとしても」
「それは……仕方ないことだな」
「……アスペルガーだっけか? よく分かんねーけど、ようするにお前は生まれつき特別なんだろ? きっと、その特別さが先生の目に留まったんだな。お前は本当に変なやつだった。世の中にはニセモノの変人がたくさんいるけど、お前はモノホンだった。先に言っておくが、俺はお前のことが嫌いだったわけじゃないぞ。だけど、やっぱり心の底では煮えたぎっていたんだな。いまは、お前を殴りたくて仕方ない」
義人は、左手で右の握りこぶしを押さえつけていた。教官は、義人の性格をよく知っていたので、本当に殴ろうとしているわけでないことは分かっていた。
「妬みほど、やり場のない感情もないよな……」教官は左に目を背けながら言った。「だけど、こんな話はもう止めないか? どこまでいっても、子供の叶わぬ恋。いや、恋というのもおこがましいような、ちっぽけな話じゃないか」
「……ああ、そうだな」
その後には、長い沈黙が続いた。エンジンと暖房だけが、一定の調子で音を出していた。
「もうそろそろ、いい時間帯だ」教官は、頃合を見てそう言った。「このまま大通りまで行って、それから元の道まで戻ろう」
教習車は、大きな音をたてて発進した。辺りはすっかり暗くなっていたが、街に戻っていくにつれ、明るい建物や車が増えて、いくらかマシになっていった。交差点の信号に捕まっているときに、空からチラチラと真っ白な雪が降ってきた。初雪だった。
やがて車は教習所に着いて、指定の位置に収まった。義人が車のドアを開けると、顔に小さな雪が降りかかった。
「じゃあな。俺はまだ仕事があるから。あと数回で本試験だな。落っこちんなよ」
「おい、ちょっと待てよ」義人は教官を止めた。通りがかった一人の若い女性が、義人の口調に驚いて振り向いたが、それでも止まらずに歩いていった。「一つ、訊いておきたいことがある。というか訊いておかなきゃ気がすまないな」
「なんだ? 寒いから早く戻りたいんだが」
「お前は……、お前は、どれぐらい、先生のことが好きだった?」
義人の顔は、これ以上にないほど真剣だった。両腕は、ただ、ぶらんと横に提げ、目は食い入るように、教官を見つめていた。
「そうだな……」義人の友は、そうつぶやいた後、十秒以上も考え込んだ。「大好きだった。お前と同じくらい。いや、多分お前以上に」
「……そうか。……ありがとう」
義人は友人に礼を言った後、自転車置き場の方に向かって歩いていった。
教官は友人を見送った後、腕を組みながら教習所の建物に入っていった。そして彼は、夏目先生のことを本当に心の底から好きだったような、そんな気持ちになったのだった。




