仮初めの幸せ(5)
結局、アストはシチューを三杯もおかわりしてくれた。アリシアもおかわりをしてくれたので、鍋のシチューは大分減ったのだった。
「すみません、おいしかったからって、お言葉に甘えて食べ過ぎました」
食事を終えた後、暖かいレモンティ―のカップをアストの前に起きながら、私はううん、と首を横に振った。
「私たち二人じゃ何日掛かるか分からない量だったから、食べてもらえて良かった」
「本当においしかったです。今まで食べたシチューの中で、一番」
アストははにかむように笑って、ありがとうございます、とカップに口をつけた。
「…そんな、大袈裟だよ」
自分のカップで手のひらを暖めながら、私は小さく苦笑した。アストの言葉は凄く嬉しかったけれど、浮かれてはいけない、と自分を戒める。
「おかーさん、わって―」
戸棚を開けていたアリシアが、虹色チョコレートを持ってテーブルに戻って来た。虹色チョコレートは、大人の手のひらよりも少し小さいサイズの長方形のチョコレートで、真ん中に割りやすいように窪みがついている。割った断面に七色のチョコレートが見えるので、虹色チョコレートという名前がつけられたらしい。アリシアは、このチョコレートを買ったときは、いつも真ん中で分けてと私に頼み、半分を私にくれるのだった。
「きょうは、みっつにわけてね」
アリシアは、にこにこしながら私を見上げてくる。今日は、アストにもあげるつもりなんだ。アリシアの優しさを嬉しく思いながら、私は頷いた。
「三つだと、うまく割れないから、ナイフで切ってくるね」
座っておくように促すと、アリシアはこくりと頷いて椅子に座った。ホットミルクの入った小さなカップを手に持って、アストに話し掛ける。私はキッチンに向かった。
「ねえねえ、しあもまじゅちゅしになれる?」
聞こえてきた意外な言葉に、びっくりしてナイフを取り落としそうになる。子どもの発言だから、本気にしてはいけないのかもしれないけれど…。
「ん―、どうだろう。魔術師になるには、魔力がないと無理だけど、魔力は遺伝性なんだ。アリシアからは微かに魔力を感じるけど、魔術師になれる程の魔力があるかは、まだわからないかな」
アストは、三歳の子相手に真面目に返事をしている。三つに分けた虹色チョコレートを持ってリビングに戻ると、全く理解できなかった様子のアリシアが、小首を傾げていた。
「しあはなれないの?」
「まだわからないよ。でも、アリシアのお父さんは魔術師だったんだろう?だったら、アリシアも魔術師になれる可能性はあるよ」
アリシアはよくわかんない、と呟いた。私は笑いながら、虹色チョコレートを差し出した。
「アリシア、この間は花屋さんになりたいって言っていたじゃない」
「しあ、おはなやさんのまじゅちゅしになるの。おかあさん、チョコありがとう」
アリシアは嬉しそうに笑うと、虹色チョコレートを一つ私に差し出した。
「おかあさん、あげる」
「ありがとう、アリシア」
私はにっこり笑って、虹色チョコレートを受け取った。かじると、甘味が口の中に広がる。
「おにーさんにも、あげる!」
アリシアはそう言って、虹色チョコレートをアストに差し出した。アストはびっくりしたようにアリシアを見て、それから、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、アリシア」
アリシアはにこにこしながら、自分の虹色チョコレートを口に運ぶ。
「あまくておいしいねぇ」
「うん、おいしいな」
チョコレートをかじりながら、アストが頷く。私はチョコレートを飲み込むと、壁に掛けられた時計を見上げた。もう、八時前になっている。――名残惜しいけれど、そろそろ帰らないと、アストも疲れただろう。アリシアだって、早くお風呂に入れて寝かしつけなければならない。
「すみません、遅くまでお邪魔してしまって」
「ううん、私が誘ったんだから。仕事終わりで疲れていたのに、ごめんね」
アストは首を横に振った。
「とんでもないです!また弁当かーって思ってたんで、おいしい晩御飯を頂けて嬉しかったです。ごちそうさまでした」
カップを持って立ち上がったアストに、カップは後で運ぶから置いておいて、と声を掛ける。
「何から何まで甘えちゃって、すみません」
「だから、いちいち謝らないでってば」
「おにーさん、もう帰っちゃうの?」
ぴょこんと立ち上がったアリシアが、悲しそうな目でアストを見上げた。
「うん、そろそろ帰らないと。アリシア、チョコレートありがとう」
今日は楽しかったよ、と声を掛けたアストに、アリシアは駆け寄ってしがみついた。
「また、おうちにきてくれる?」
しがみついてきたアリシアをびっくりした様子で見下ろしていたアストは、やがて、躊躇いがちにアリシアを抱き上げた。
「……うん、リディとアリシアがいいって言ってくれたら、いつでも来るよ」
アストの言葉に、アリシアは瞳を輝かせて私を振り返る。アストは気のせいか、どこか硬い表情で私を見つめていた。まるで断られるのを恐れているみたい。そんな風に思ってから、それはただの私の願望か、と心の中で自嘲した。
「おかあさん、おにーさんきてもいいよねっ?」
「うん。アストさえ良かったら、また遊びに来て?アリシアも喜ぶし…」
私も嬉しいから、という言葉は心の中にしまっておく。私が笑顔を向けると、アストもアリシアも、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。…嬉しいです」
はにかむように笑ったアストに、アリシアがぎゅっとしがみつく。
「じゃあね、あしたきてね!」
弾んだ声を出すアリシアに、私は吃驚した。いくらなんでも明日は早すぎる。
「アリシア、お兄さんだって忙しいんだから、毎日は無理だよ」
えぇ―っ、と、アリシアが不服そうな声をあげた。
「でもあしたじゃないとコロッケたべれないよ?」
アストが不思議そうな表情を浮かべる。
「コロッケって?」
「シチューのコロッケ!」
満面の笑みで答えたアリシアの言葉に、私は補足した。
「うちでは、シチューを作った次の日はいつも、余ったシチューにじゃがいもを足してコロッケにするの」
アストはきょとんとした様子で、瞳を瞬いた。
「シチューをコロッケの具に、ですか?」
私も、シチューのコロッケはモーデンに来てから初めて知った。モーデンの一般家庭では定番料理なのだけれど、王都に生まれ育ったアストは、おそらく食べたことがないだろう。少なくとも、以前のアストはシチューのコロッケを知らなかったと思う。
「すごくおいしいんだよ。おにーさん、たべにくるでしょ?」
アリシアの無邪気な問いかけに、アストは唸った。
「シチューのコロッケかー…。いや、ううん。流石に今日明日と連続でお邪魔する訳にもいかないから、明日は遠慮しておくよ」
そう言ったアストがあまりにも心残りのある顔をしていたので、私は思わず声を出して笑った。アストが吃驚したように私を見下ろす。
「どうして笑ってるんですか?」
「ごめん、ごめん。…期待してもらってる程おいしいかは分かんないけど、良かったらコロッケも食べにきて?」
アストは戸惑ったような表情を浮かべた。
「いや、でも。いいんですか?」
「うん、私もアリシアも大歓迎だよ」
私がにっこり笑ってみせると、アストは嬉しそうに破顔した。屈託ないその笑顔に、胸がきゅんとする。
「やった!じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます!」
大袈裟な程に喜んでいるアストを、アリシアが不思議そうに見つめている。
「アリシア、明日もお兄さん来てくれるって」
私がそう声を掛けると、アリシアはみるみるうちに顔を輝かせた。
「ほんと!?あしたもさんにんで、ばんごはんがたべられるの?」
凄く嬉しそうなアリシアに、うん、と頷いてみせる。
「そう、明日も一緒に晩御飯食べられるよ。だから、もうおやすみなさいして、今日はばいばいしよ」
私がそう声を掛けると、アリシアは素直に頷いた。アストがかがみこんで、そっとアリシアを下ろす。
「じゃあアリシア、また明日。チョコレート、ごちそうさま」
くしゃくしゃと頭を撫でるアストを、アリシアは嬉しそうに見上げている。
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
アストが立ち上がって、私を見た。
「明日も同じ時間に、スーパーで待ってます」
ふわり、と浮かべられた微笑につられて笑いそうになってから、私ははっとして声を上げた。
「アスト、大丈夫かな?」
うっかり忘れてしまっていたけれど、アストはいま、実習中なのだ。
「なにがですか?」
アストが怪訝そうな表情を浮かべる。
「実習の邪魔になってない?」
私の言葉に、アストは合点がいったような顔をした後、にこりと笑った。
「とんでもないです。寧ろ、リディとアリシアには元気を貰ってるくらいですから」
本当に…?その言葉が嬉しくて、私はそっと幸せを噛み締める。
「ありがとう…」
「お礼を言うのは、俺の方ですよ」
アストはふっと笑って、それから、軽く会釈した。
「あ、遅くまですみません。ごちそうさまでした。…おやすみなさい」
「ううん、来てくれてありがとう」
私も慌てて頭を下げた。
「おやすみなさい。…気を付けて帰ってね」
瞳を瞬いたアストは、面映ゆそうに微笑を浮かべる。
「はい」
じゃあ、と歩き出したアストの背中を、私はじっと見つめた。
「おにーさん、ばいばーい!」
アリシアがぶんぶんと、大きく手を振る。振り返ったアストも、笑顔で手を振ってくれた。