仮染めの幸せ(3)
次の日の朝になっても、やっぱりアリシアはアストのことを気にしていた。
「きょうは会える?」
「うん、会えると思うよ」
アスト自身がスーパーで待っていると言っていたのだから、今日は会えるだろう。そう考えて私が頷くと、アリシアは嬉しそうに破顔した。これでアストが来なかったらどうしよう、って少し思ったけれど、本気で心配はしていなかった。アストが自分から明後日に、と言ってくれたのだから、アストはきっと来てくれるだろう。
夕方、仕事を終えてから、いつものようにアリシアを迎えに行き、手を繋いでスーパーに向かった。
「今日のばんごはんは―?」
アリシアがにこにこしながら私を見上げて来る。私もアリシアに笑い掛けた。
「今日はシチューにしよっか」
「わーい!シチュー!」
アリシアがぴょんぴょんと飛び跳ねる。アリシアは、グラタンの次にシチューが大好きなのだ。そして、シチューはアストの大好物でもあった。――今もそうなのかは、分からないけれど。
「じゃがいもいっぱい入れようね」
「うん!じゃ〜っがいも こっろこ―ろ!」
アリシアはでたらめな曲を、楽しそうに歌っている。楽しそうなアリシアを見ているとなんだか嬉しくなってきて、私も一緒になって歌いながら歩いた。
スーパーに着くとまず店内を一週したけれど、アストはまだ来ていないようだった。
「おにーさん、きょうも来ないのかなぁ…?」
アリシアは、不安そうな表情を浮かべている。私は、アリシアの頭をそっと撫でた。
「きっとそのうち来るよ。お兄さんが来る前に、じゃがいも探しにいこう」
「…うん」
気落ちした様子のアリシアの手を引いて、野菜売り場へ向かう。じゃがいものバスケットに手を伸ばそうとしたとき、アリシアが繋いだ手を引っ張った。
「どうしたの?」
「おにいさん、来た!」
アリシアの目線の先を追うと、アストがこちらに向かって来るのが見えた。やっぱり、ちゃんと来てくれたんだ。アストにはもう四年も会っていなかったのに、一昨日もその前日も会ったのに――たった一日会わなかっただけで、凄く久し振りに会えたような気がしてくる。私は逸る心を抑え、何食わぬ顔を装って、アリシアを連れてアストの方へと向かった。
「こんばんは!!」
アリシアは、瞳を輝かせながらアストを見上げる。アストはすぐにしゃがみこんで、アリシアと目線を合わせてくれた。
「こんばんは」
「おにーさん、きのうはどうしてこなかったの?」
アリシアは、いきなりそう言った。
「昨日は、仕事だったんだ。ごめんな」
すまなさそうに向けられた言葉に、アリシアは首を横に振る。
「ううん。きょう来てくれたからいいよ」
上から目線なアリシアの言葉が、アストを不快な気分にさせたのではないかと私は少し不安になったけれど、アストはふっと笑ってくれた。
「アリシアは優しいな」
「えへへ」
褒められて得意げなアリシアの頭を撫でて、アストは立ち上がった。
「こんばんは、リディ」
二人のやり取りをぼうっと見ていた私は、慌てて挨拶を返す。
「こ、こんばんは」
「昨日、もしかしてここで待っててくれたんですか?」
アストは気遣わしげに問いかけてきた。
「え?」
どういう意味だろうかと、一瞬きょとんとしてしまった。けれどすぐに、その意味を理解する。アリシアがアストに「昨日はどうして来なかったの?」なんて聞いたから、アストは私たちが昨日もスーパーに来たことに気付いたのだろう。
「何か買おうかと思ってちょっとだけ寄ったけど、あなたを待ってはいないよ」
気を遣わせては悪いと思い、買い物をしに来たかのように言ったつもりだったのだけれど、アストは表情を曇らせた。
「一昨日、結構買い物してましたし、昨日は買う物なんて無かったんじゃないですか?俺、アリシアにはまたスーパーで会おう、としか言わなかったから…。すみません」
伏し目がちに謝られて、私は慌てて首と、顔の前に出した手をぶんぶんと横に振った。
「アストは悪くないよ!そんなの謝らないで」
アストははっとしたように顔を上げた。
「――やっぱり」
「へ?」
何がやっぱり、なんだろう?不思議に思って動きを止めた私を、アリシアよりも少し深みのある翠色が真っ直ぐに射抜く。
「俺の名前呼びましたよね。…この間も」
――しまった!私は咄嗟に口を手で覆ったけれど、もう後の祭りだ。この間橋のところで名前を呼んでしまったときもひやっとしたけれど、その後何も突っ込まれなかったからって、安心していたのに…。うっかりしているにも程がある。
どうして俺の名前を知っているんですか、と聞かれたら、なんて答えたらいいのだろう。私がそんなことをぐるぐると考えていると、アストは重いため息をついた。
「…リディは、元々は旦那さんと王都に住んでたんですか?」
予想していたものとは全く違う質問に、頭の中が疑問符でいっぱいになる。
――私はアストに、以前のアストに繋がる人物だとはあまり思われたくない。なにがきっかけでアリシアの父親がアストだと気付かれるかわからないからだ。でも、質問の意図が分からないのに、否定してしまっていいのだろうか。私が言葉に詰まっていると、アストがぽつりと漏らした。
「―…リディが、魔術師だった旦那さんと王都に住んでいたのなら、魔術師だった俺のことも知っていておかしくないのかなって」
あぁ、そっか。アストは王宮の魔術師の中では結構有名だったし、――今もだと思うけど――、旦那が魔術師だったら、アストのことも知っている可能性はある。
頷くべきなのか躊躇っていると、アストはふっと、まるで自嘲するような笑みを浮かべた。
「やっぱりそうなんだ。…じゃあ、かつての俺はリディに会ったことがあるんですね」
どこか寂しげな口調に、なんと返したら良いのか分からない。かつてのあなたって何?ってしらばっくれた方がいいのかなって思うけれど、アストの仕事仲間の妻だと思われていた方が、私とアストが過去に付き合っていたことに気付かれにくくなっていいのかな、とも思う。嘘を吐くときは少しの真実を混ぜろ、ともいうし、以前のアストを知っているという点は肯定しておいた方がいいのかも…。
またぐるぐると考えていた私の手を、ふいにアリシアが引っ張った。
「おかあさん、シチュー!」
お腹すいた―、というアリシアの声にはっとする。私は慌ててアリシアに笑みを向けた。
「ごめんごめん。お買い物して、帰ろっか」
うん、と頷いたアリシアから目を離し、アストを見上げると、アストは私からすっと目線を逸らした。
「すみません、困らせるつもりじゃ無かったんです」
「ううん…」
何も言えなくて、私は首を横に振る。何か言わなきゃ。でも、何を言えばいいの?困惑する私が何か言うよりも早く、アリシアが口を開いた。
「あのね、おにーさん!きょうのばんごはんはシチューなんだよ!」
アストがアリシアに目線を向ける。
「へぇ、いいな。アリシアはシチュー好きなんだ?」
アストの問い掛けに、アリシアは満面の笑みで頷いた。
「シチューはぐあたんの次においしいんだよ」
「グラタンが一番好きなんだ?」
「うん!おにーさんは?」
「うーん…。俺は、シチューが一番好きかな」
笑って答えたアストを見て、やっぱりいまもシチューが好きなんだ…と思う。
「じゃあ、きょうのばんごはんはシチューなの?」
アリシアがそう訊ねると、アストは小さく苦笑いを浮かべた。
「いや。俺は今日は売ってる弁当かな」
「えぇ―!」
アリシアは目を真ん丸にしてアストを見上げた。
「なんで?なんで?まほうつかいなのにっ?」
アリシアは、今までの私とアストの会話を聞いて、アストが魔術師だと知っていたようだった。けれど、魔術師が市販の弁当だと、どうしておかしいのだろうか。私が不思議に思っていると、どうやらアストも同じだったようで、どうしておかしいのかをアリシアに尋ねた。アリシアは、興奮した様子で捲し立てた。
「だって、まほうつかいだったら、ゆびをふったら好きなものが出てくるんだよ?おべんとうかわなくても、おいしいシチューをだしたらいいのに!」
指を振るだけでなんでも出てくると言うのは、魔法使いの女の子が主人公のアニメで、見たことがある。アリシアはそれを思い浮かべているようだ。モーデンにはあまり魔術師はいないから、アリシアは実際の魔術師をよく知らない。
「俺は魔術師だから、魔法使いじゃないんだ」
アストがそう伝えると、アリシアは不思議そうに瞳を瞬いた。厳密には魔術師も魔法使いも同じなんだけれど、アストは実際の魔術師と、アニメの魔法使いとの区別をしようとしたようだった。
「まほうつかいとまじゅちゅしはちがうの?」
「全然違うよ。魔法使いはなんでもできるけど、魔術師は、ちょっと風や火を操ったり出来るだけなんだ」
「えぇ――!」
アリシアは大きい瞳をめいっぱいに見開いている。そのまま、暫く呆然とアストを見上げていたけれど、唐突に何かを閃いたように「あっ!」と声を出した。
「じゃあ、しあのおうちでいっしょにおかーさんのシチューたべよ!」
「「え?」」
吃驚して出した声が、アストのものと重なる。うちで、アストと一緒に晩御飯を食べる…?
「おかーさんのシチューすっごくおいしいんだよ!」
にこにこしているアリシアに、アストが戸惑ったような表情を浮かべる。私は慌てて口を開いた。
「アリシア。お兄さんは仕事が終わったばっかりで疲れているんだから…」
「いや、疲れてはないですよ」
アストは私の言葉を遮るように言った。
「でも、ご迷惑ですよね」
そして、困ったような笑顔で私を見た。そんな言い方では、まるで迷惑でなければうちに来たいみたいに聞こえる。
どうしよう、と思った瞬間、アリシアが満面の笑みで言った。
「めいわくじゃないです!」
そんなアリシアの様子を見ていると、なんだか肩の力が抜けて、私は無意識に口を開いていた。
「大したものはないですけど、良かったら食べにいらして下さい」
「え…」
私の反応が予想外だったのか、アストは驚いたように私を見つめた。それから、ふっと頬を緩めて、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。…じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「やったあ―!」
アリシアは私と繋いだ手を離すと、嬉しそうに両手をあげた。