仮染めの幸せ(2)
アストの後姿が見えなくなるまで見送ると、私はアリシアを連れて家の中に入った。
「ふふふ〜」
私が袋の中身を片付けている間も、アリシアは楽しそうにくるくると回っている。
「アリシア、今日はお兄さんに会えて良かったね」
「うん!」
アリシアは満面の笑みで振り返った。
「あしたも会えるかなあ?」
アリシアの問い掛けに、去り際のアストの言葉を思い出す。――明後日、って言っていたよね。と言うことは、明日は会えないのかもしれない。
「明日は会えないけど、明後日に会えるよ」
「えーっ、あしたは―?」
喜ぶかと思ったのに、アリシアは不満そうだ。
「明日はお兄さんはお仕事が忙しいんだって」
そんなこと言ってなかったけど、そういうことにしておこう。アストは明日のことについては言及していなかったんだから、アリシアを期待させない方がいいに決まっている。
「えぇーっ」
アリシアはますます頬を膨らませたのだった。
――次の日の朝、いつものようにアリシアを保育園に預けてから、職場へ向かった。私は、小さな弁護士事務所で働いている。事務所の従業員は六人いるが、そのうち、私とイーシャという女性以外の四人は弁護士で、社長も弁護士だ。私とイーシャの仕事は事務ということになっているけれど、実際の所は雑用に近い。
私はアリシアのことで、職場に迷惑を掛けてしまうことがある。例えば、どんなに遅くなった日でも、必ず保育園の預り時間が終わるまでには帰らせて貰えている。だからせめて、朝だけはいつも私が一番に着くようにしていた。事務所の鍵を開けて中に入り、窓を開ける。軽く掃除をしてからティーポットに湯を沸かしたところで、イーシャがやってきた。
「おはよう」
「おはよう、イーシャ」
同じ事務担当であるイーシャに迷惑を掛けてしまうことが一番多く、せめて朝くらいはゆっくり来て欲しいと言っているのだけれど、イーシャはいつも始業時間よりも早くやって来る。
イーシャは背中まであるプラチナブロンドの髪をふわふわと揺らしながら、私の方へ近寄って来た。
「やだ、リディ。あんた、まだそんな服着てたの?」
吃驚したように告げられて、私は慌てて自分の姿を見下ろした。去年買ったばかりの、細いリボンがついた真っ白なブラウスが目に入る。じっと見てみたけれど、何も不自然な所は無かった。
「え?なにが?」
不思議に思って聞き返すと、これ見よがしに盛大なため息をつかれる。
「その服、一昨年の流行りじゃないの。いい加減捨てなさいよ」
イーシャ曰く、リボンタイ付きのブラウスは、一昨年爆発的に流行してしまったせいで、今となっては着ている人がいないらしい。ああ、だからあんなに安かったんだ…。そういえば、最近はこの服を着ている人を見ない気がする。
「リディ、前から思っていたのだけれど、あなたもう少しおしゃれに気を使ったらどうなの?折角可愛い顔をしているのに、もったいないわ」
呆れたように向けられた言葉には、苦笑いを返すしかなかった。イーシャは、輝くようなブロンドの髪に、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちの美人だ。イーシャが着ている服は、最近よく見掛ける気がするから、きっと最新の流行の服なのだろう。
私だって、王都にいた頃は、お給金が沢山有って自由に使うことができたし、おしゃれにも強い関心を持っていた。とりわけアストを好きになってからは、彼に振り向いてもらうために、服装や髪型にかなり気を使っていた。だけど、今はそんなことをしている余裕はない。私に最新流行の服を買うようなお金があれば、アリシアに靴をもう一足買ってあげたいし、髪の毛だって素人の私が切るのではなく、ちゃんとした美容室に連れていってあげたい。
そう伝えると、イーシャはあからさまにため息を吐いた。
「その気持ちの十分の一でもいいから、自分に向けてあげなさいよ。まだ若いんだから、可愛い格好して愛想振り撒いてれば男なんて幾らでも寄って来るわよ。うまく金持ちを捕まえたら、アリシアにだって欲しいものを好きなだけ買ってあげられるじゃないの」
「私みたいな子持ちの女に寄って来る人なんていないよ。…いたとしても、私、もう誰かと付き合う気はないから」
小さく苦笑して見せると、イーシャは途端に綺麗な顔を曇らせた。イーシャははっきりとした顔立ちと辛辣な口調から、性格のキツイ女性だと思われてしまうことが多いけれど、実際には涙脆くて優しい女性だ。彼女とはモーデンに来てからの四年間、ずっと一緒に働いてきたから、アリシアの父親の話もしたことがある。
「まだ、王都の彼のこと引きずってるのね」
――モーデンに来たばかりの頃は、私でも良いと言ってくれて、アリシアを愛し可愛がってくれる人がいれば、結婚した方がいいのかもしれないと、そういう風に悩んだこともあった。アリシアを育てていくにあたって、父親がいた方がいいのかもしれないと思ったからだ。けれど、アリシアの父親はアスト一人であって欲しいという私の勝手な気持ちから、結婚はしないと決めた。それになにより、アストより好きになれる相手になんて、この先出会えるとは思えなかった。
モーデンでアストに再会して、尚更強くそう思う。
「イーシャ、心配してくれてありがとう。でも私、アリシアがいれば幸せだから」
にっこりと笑顔を向けたら、イーシャはもう何も言わなかった。
夜になり、いつものように仕事を上がらせて貰って、保育園までアリシアを迎えに行った。手を繋いで帰り道を歩いていると、アリシアはスーパーに寄りたいと言い出した。昨日、馬鹿みたいに沢山買い物をしてしまったから、今日はスーパーに寄るつもりはない。けれどそれを伝えても、アリシアはどうしてもスーパーに行きたいと言い張った。
「お兄さんとは明日会えるから、今日は帰ろう?」
「やだ、スーパーいく!」
「おうち帰って、晩御飯食べようよ」
「やだ!スーパーいく!いくの!!」
アリシアが立ち止まって、地団駄を踏む。アリシアがこんなに強く、何かを要求することは珍しい。スーパーに行ってもアストはいないと思うけれど、アリシアの気が済むように、連れて行ってあげた方がいいのかもしれない…。
「わかった。じゃあ、ちょっとだけだよ」
私がそう言った途端、アリシアが顔を輝かせる。
「でも、お兄さんがいなかったらすぐに帰ろうね」
「うん」
アリシアが頷いたのを確認してから、私はアリシアの手を引いてスーパーに向かった。
そんなに広くないスーパーの中を二週したけれど、予想通り、アストはスーパーにはいなかった。アリシアの表情が、みるみるうちに曇っていく。今にも泣き出してしまいそうなアリシアを見て、やっぱり連れて来ない方が良かったのだろうかと考えた。
「アリシア、お兄さんには、明日会えるよ。だから今日はもう帰ろう?」
――結局、アリシアの好きな虹色チョコレートを二つも購入して、なんとかアリシアの気を紛らわせたのだった。