仮初めの幸せ(1)
アストと別れて、私とアリシアは公園に向かった。近所の子どもたちに混じって滑り台を滑ったり、ブランコをして遊んだ。
「おかーさん、押して押して!」
小さい体のどこにこんな体力があるのだろうと思うくらい、アリシアは元気に走り回る。段々と私の方が疲れてきて、一旦お昼休憩を取ることにした。遊具で夢中になって遊んでいたアリシアも、ご飯にしようと言ったらすぐに飛び付いて来たのでほっとした。
「サンドイッチおいしいねー」
にっこり笑うアリシアの頬についたマヨネーズを指で拭う。周りを見渡せば、楽しそうな親子連れの姿がちらほらと見かけられた。私たちのすぐ傍にレジャーシートを広げているのは、若い両親と小さな女の子の三人家族だ。
「パパぁー。肩車して!」
「よーし!」
凄く幸せそうな、家族の図だ。アストと再会してしまった所為だろうか、いつもなら平気なそんな光景を見ていることが辛くなる。ふっと目を逸らすと、アリシアがその家族を食い入るように見つめていることに気がついた。もしかしたら、肩車が羨ましいのかもしれない…。
「…アリシア、肩車してあげようか」
「ほんと?」
アリシアは私の方を向いて顔を輝かせる。私は頭の位置を下げると、アリシアの小さな体を持ち上げて、肩の上に乗せた。
「高いねぇ~~」
座っていても、アリシアの普段の目線よりはずっと高くなる。楽しそうに笑うアリシアの両脚を掴んだまま、私はそっと先程の親子を盗み見た。
──父親がいないことで、アリシアに不自由な思いをさせたくはない。今はまだ、肩車くらいならしてあげられるからいい。けれどこの先アリシアが大きくなっていく中で、女の私ではしてあげられないことがあるかもしれない。そう考えると、少し不安になる。それに、アリシアだってただ肩車が羨ましかっただけではなく、きっと父親のいる家庭が羨ましい気持ちもあるのだろう・・・。
昼食を食べた後は、流石に疲れたのかアリシアにも元気が無くなってきたので、家に帰ることにした。掃除をしたり、洗濯物を取り込んだりと家のことを済ませていると、あっという間に夕方の五時半になり、私はアリシアと手を繋いで家を出た。勿論、アストとの約束を守ってスーパーに行くためだ。
「おにーさんきてるかなあ?」
アリシアが首を傾げて問い掛けてくる。よっぽどアストに会いたいんだなぁ、って思う。
「約束したんだから、きっと来てくれるよ」
私がそう言うと、アリシアは安心したようだった。
「おかーさん、ばんごはんは、はんばーぐだよ?」
「はいはい、分かってるよ」
スーパーに入って、腕時計を見るとまだ六時には少し早かった。アストはまだいないかもしれない。とりあえず、買うものを見て回ろう。売り場を少し回って、卵とミンチをかごに入れる。パン粉は家にあったよね。ナツメグはあったっけ?前使い切ったような気もするけど・・・。
「───あーーーっ!おにーさん!!」
アリシアが突然、ぴょんぴょんと飛び跳ね出した。私と繋いでいない方の手で、正面を指差す。指差す方を見ると、私服に着替えたアストが立っていた。
「こんばんは」
アストの挨拶に、アリシアも大きな声で返す。
「こんばんは!」
「こんばんは」
私も慌てて頭を下げて、アリシアの指をパッと手で覆った。
「アリシア、指で人を指しちゃだめ」
「はーい」
アリシアは素直に手を下ろす。
「すみません、わざわざ時間を合わせて貰っちゃって」
「いえ、とんでもないです。俺が来たかっただけなんで」
アストは私に向かってそういうと、アリシアの目の前に屈み込んだ。
「公園は楽しかった?」
「うん!ブランコもすべり台もいっぱい乗ったよ。サンドイッチも食べたの!」
アリシアは楽しそうに話し出す。
「そっか。良かったな」
アストが目を細める。アリシアも嬉しそうに頷いた。
「うん!」
アリシアの頭をぽんぽんと撫でて、立ち上がったアストは私のかごの中を覗き見て「あ」と声を出す。
「晩御飯はハンバーグですか?」
「そうなの!はんばーぐ!」
アリシアがまたぴょんぴょんと飛び跳ねた。私と繋いだ手を離して、嬉しそうに飛び跳ねている。
「へー。いいな、俺もハンバーグ作ろうかな」
アストはそう言って、売り場からミンチのトレイを手に取った。
「おかーさんのはんばーぐおいしいんだよ!きいろいびょーんが入ってるの!」
アリシアがアストの周りを飛び回る。アストは不思議そうな表情を浮かべた。
「”キイロイビョーン?”」
その発音が奇怪で、思わずくすっと笑ってしまう。
「黄色い、ビョーン。チーズのこと」
「ああ、なるほど。とろけるチーズか」
アストも笑い返してくれた。
「自炊してるんですか?」
ミンチをかごに入れたアストに問い掛ける。以前の時の実習は王都でだったから、いつも王宮の食堂で食べてたような。
「たまには。実習期間は寮生活だけど、食事はついてないんです」
「えっ、そうなんですか。不便ですね」
「ホントに不便。王都に配属になったヤツは、城の食堂で食べさしてもらえるんで、その点はちょっと王都のヤツが羨ましいです。・・・ところで」
アストがおもむろに言葉を切った。
「はい?」
「女性に年齢を尋ねるのは失礼だって聞きますけど、アリシアのお母さんっておいくつなんですか?」
予想外の質問に、私は目をしばたいた。
「えーっと・・・。21歳、だけど」
「4つか・・・」
小さく呟くように吐き出された言葉に、小首を傾げる。
「え?」
「あ、いえ。なんでもないんです。俺の方が年下なんで、タメ口で喋ってもらえませんか?なんか、落ち着かなくて」
アストも、落ち着かないんだ・・・。私と同じだ。かつては年上で、王宮勤めの先輩だったアストから丁寧に喋られたことなんてないから、実は凄く違和感を覚えている。
「それは、いいけど・・・」
アストも私にタメ口で喋ってよ、と言うより早く、アリシアが声を張り上げた。
「しあはね、さんさいだよ!」
アリシアが指を三本立てて、アストに向かって突き出した。
「そっか、アリシアは三歳なんだ?」
「うん、さんさい!しあ、さんさい!」
アリシアはそう言ってアストに指を押し付け続ける。アストは笑った。
「あー、ホント、可愛いな」
思わずと言った風にぽろりと零された言葉に、心臓を掴まれたような気持ちになる。アストは、アリシアを可愛いと思ってくれているんだ・・・。私の胸に、じんわりと喜びが広がった。その後に溢れてきた哀しみには、気付かない振りをする。
───アリシアが、アストに懐いている。アストが、アリシアの相手をしてくれる。アリシアを、可愛いと言ってくれる。
私はもう十分すぎるくらい、幸せなはずだ。
「あ、アリシアのお母さ──・・・って、この呼び方、変ですよね。あの、名前、教えて貰えませんか」
こっちを見たアストが、困ったような、少し恥ずかしそうな笑みを私に向けた。
「え、っと」
アリシアのお母さん、って呼ばれることの違和感は、勿論私も感じていた。
「リディ。リディ=ルベトナー。・・・あ、リディって呼んで」
ルベトナーさんなんて呼ばれたらどうしようかと思って、慌てて付け加える。
「・・・リディ」
躊躇いがちに、名前を呼ばれた。アストの声が、私の名前を呼ぶ。ただそれだけのことで、もう胸がいっぱいになった。ただ何も考えず幸せだった日々を思い出して、瞳の奥が熱くなる。だめだめ。もう泣いたりしないんだから!私は涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪えた。
「・・・うん。なに?」
なんでもないように、小首を傾げてみせる。
「・・・・・・いえ。ハンバーグの具材、買いましょう」
アストはそう言うと、先立って歩き出した。
「あ、・・・うん」
私はアリシアと手を繋ぎ直して、アストの背中を追った。
レジでお会計を済ませた後、私たちは三人で並んで、家までの道のりを歩いていた。彼が住んでいる寮が私たちの家と同じ方向だというから、一緒に帰ることにしたのだ。重たいからいいと固辞したんだけど、アストは頑として譲らず、私の分の買い物袋も持ってくれた。私はアリシアと手を繋ぎながら、両手にスーパーの袋を持って歩くアストの姿を見上げる。
───今朝までは、もう会いたくないと思っていたはずなのに、いざ会うと離れがたいと思ってしまう。スーパーで過ごす時間を徒に引き延ばしたくなって、無駄に買い物をしてしまった。グラタンの素だって、いくらアリシアが大好きだからって、三箱も買っておく必要なんて無かったのに。
「ん?どうかしました?」
アストが不思議そうに問い掛けてきた。私は慌てて、首を横に振る。
「・・・ごめんね。沢山買っちゃって」
「このくらい、全然平気です。見た目はかさばってますけど、軽いモンばっかですし」
アストはそう言って、優しく笑いかけてくれた。───アストは、優しい。私の知っている頃と何も変わっていなくて、一瞬、全部あの頃のままじゃないかって錯覚させるくらい。
あっという間に家に到着した。四年前に王都を離れてモーデンに来た時から住んでいる、小さな小さな家だ。
「───私の家、ここなの」
「スーパーから、結構近いんですね」
「うん。・・・袋、ありがとう。重たいのに、ごめんね」
「だから、重たくないですって」
アストは小さく笑って、私にスーパーの袋を差し出した。それから、しゃがみ込んでアリシアと目線を合わせる。
「じゃあ、またね。アリシア」
「えーっ、おにーさん、もう帰っちゃうの?」
アリシアが不満そうに唇を尖らせる。本当に不思議なくらいアストに懐いているんだなあって、私もびっくりする。
「うん、ごめんね。またスーパーで会おう」
アストがそう言ってアリシアの頭を優しく撫でると、アリシアはころっと機嫌を直して笑顔になった。
「ほんと?またスーパーで会える?」
「うん、会おう」
アリシアの頭に二、三回ぽんぽんと優しく触れて、アストが立ち上がる。
「じゃあ、俺帰ります」
「うん、ごめんね。ありがとう」
私が少し頭を下げると、アストは小さく首を横に振った。気のせいか、どこか硬い表情を浮かべている。
「・・・いえ。また、明後日にスーパーで待ってます」
小さな声でそう言われて、私は反射的に「うん」と、頷いてしまった。あ、って思ったけど、アストがほっとしたように微笑んでくれたから、今更何も言えなくなってしまう。
――それに、いいよね。アリシアを出来るだけアストに会わせてあげたいって、思っていたんだから。
「・・・じゃあ、また明後日に」
アストははにかむような微笑を浮かべたまま、軽く会釈して背を向けた。
「おにーさん、またね!」
アリシアが、私と繋いでいない方の手をぶんぶんと大きく振る。少し先まで歩いたアストが振り返り、笑って手を振り返してくれた。
「ばいば―い!」
アリシアはとても嬉しそうに笑って、さらに大きく手を振り返した。