本当の気持ち(3)
「あ……」
どうしよう。言って、しまった。
頭の中がさーっと真っ白になっていくのを感じた。馬鹿、私の馬鹿馬鹿! 思わず口を両手で覆うけど、そんなことをしたって後の祭りだ。一度口にした言葉は取り消せない。自分をなじりたい気持ちでいっぱいになった。何考えてるんだろう、私。あれだけ言わないって決めていたことを、こんな風にあっさりと口にしてしまうなんて……。
強い視線に居た堪れなくなって、私はすっと目を逸らした。
「あの、違うの、今のはその……」
口元を覆った手を離して、しどろもどろな言い訳を紡ぐ。所在無く絡み合わせた両手を、唐突にぎゅっと包み込まれた。
驚いて目線を上げると、翠の瞳と視線が重なる。アストは少し硬い表情で、小さな声で言った。
「もう一度、言って」
「え……?」
頭が真っ白になっていた私は、その言葉を直ぐには理解できなくて、頭の中で反芻する。もう一度、って。──まさか、好きだということを?
びっくりして言葉が出ない私に焦れたように、アストが私の名を呼ぶ。
「リディ」
優しく急かすような声に、誘導されるように口を開いた。
「……好き、だよ。だけど……」
だけど、やっぱり駄目だ。好きなだけじゃ、駄目なんだと思う。私は俯くと、外界を遮断するように、強く目を瞑った。
──その瞬間、両手を包み込んでいたぬくもりが離れていく。思わず目を開けた時、背中にそっと手のひらが触れた。まるで壊れ物を扱うみたいに、そっと抱き寄せられる。ふわりと感じた微風の匂いに、胸がとくんと高鳴った。何度抱き締められても、全然慣れる気配なんかなくて、私の鼓動がまた激しく脈打ち始めるのを感じる。
「……俺のことが許せないとか、他に好きな人がいるとか、そういう理由なら諦めるしかないって思ってた」
アストが囁くように、小さな声を紡ぐ。私は胸の前で両手を握り合わせたまま、身体を伝って響くアストの声を聞いていた。
「でもそんな理由なら、諦めたりしない。……諦められる訳がない」
背中に回された腕に、ぎゅっと力が込められる。
「もう絶対、離したりしない。あなたの傍を離れたりなんてしない」
アストの言葉は柔らかいのに、何故だか不思議と、有無を言わせない力がある。その意志の強さに、私の弱い心がぐらぐらと揺さぶられるようだった。
「俺には切り落とされる前の記憶は無いから、過去の俺たちがどんな風だったのかは、分からない。……だけど初めてスーパーで会ったあの日から、俺はあなたのことばかり考えてた」
囁くような声が、触れ合う身体を伝わって響く。
「あれからまだ二ヶ月しか経っていないけど、俺はもうこの先、あなた以上に好きだと思える人には出会えないと思う」
アストは小さく息を吐くと、背中に回した腕を緩めて、そっと身体を離した。真正面から見据えた翠色の瞳は、強い意思を宿して見えた。
「────リディ」
アストは目を伏せて、小さく息を吐いてから、ゆっくりとその目を開いた。
「俺と……、結婚して下さい」
その言葉はあまりにも予想外で──すぐに理解することが出来ず、私はただただ、呆然とアストを見つめていた。
「え……、……えぇ!?」
けっこんって……。え……? ──結婚!?
一寸遅れて理解したその意味に、驚きのあまり何も言葉が出て来ない。
アストは少し気恥ずかしそうに、翠色の瞳を細めた。
「今度こそ、あなたを一人にしたりしない。あなたが嫌だと言わない限りは、死ぬまでずっと離れない。俺には、この気持ちがずっと変わらない自信がある」
私はただ喫驚し、アストを見上げていた。驚きの後に、じわじわと喜びが湧き上がってくる。鼻の奥がつんと痛くなった。視界がじわじわと滲んで、アストの顔が見えなくなっていく。
アストはどうしてこんな風に言ってくれるんだろう。大好きな人にここまで言われて、心が揺れない訳が無い。私はアストを愛しているのだから。会えないままで四年が経っても変わらなかったこの気持ちは、この先も決して無くなりはしないだろう。私はアストが大好きだし、ずっと傍にいたいと思う。
「でも……」
だけどやっぱり、怖いのだ。傍にいることが怖くて、踏み出す勇気が持てずにいる。
「でも、と、だけど、は無し。リディの気持ちを聞かせて」
アストは私の眦に親指を添えて、そっと涙を拭ってくれた。滲んでぼやけた視界に、アストが映っている。いつもみたいに、困ったような笑顔で、静かに私を見つめている。
正直になっても、いいの?
私はあなたの傍にいてもいいの……?
私はぎゅっと目を瞑った。戸惑いと躊躇いが、私の心に吹き荒れる。アストのためを思うなら、きっぱりと振るべきだって声は、まだ頭の中に響いている。
もう一度アストを喪うことが、怖くないとは言えない。
だけど……。
だけど私は、やっぱりアストの傍にいたい。もうこの気持ちを、偽ることはしたくない。アストが真っすぐに向けてくれた気持ちを、私は信じたい。真っすぐな気持ちで、答えたい。
私はゆっくりと目を開けた。恐る恐る開いた唇は震えて、紡いだ言葉は音にならない。私は声にならない返事と共に、ただ、小さく頷いた。
「……、本当に?」
少し驚いたような声が、一瞬の後に向けられる。私はもう一度、首を縦に振った。今度は、確かな言葉と共に。やっと出せた声は涙に掠れた酷い声だったけれど、私は思いを込めて言った。
「──はい……」
一瞬目を見開いたアストは、次の瞬間には、顔をくしゃりとさせて破顔した。屈託の無い笑顔を向けられて、胸がどきんと甘く高鳴る。思わず胸に手を当てた時、急に身体が宙に浮き上がった。
「きゃ!」
咄嗟に胸の前で両手を重ねる。はっと見上げると、すぐ傍でアストが私を見下ろしていた。その瞬間、私は自分がいわゆるお姫様抱っこの状態で、抱き上げられていることに気付いた。
「あ、あ、アスト!?」
驚いて口をぱくぱくさせる私を、アストは笑って見下ろしている。
「ごめん。嬉しくて……、思わず」
そう謝りながらも、下ろしてくれる気配が無い。
「今なら、このまま城内一周できそうだ」
こ、このまま城内一周は流石に無理だと思う。幾らなんでも城内は広すぎるし、私はそこまで軽くない。それに何より、この体制で城内を一周するなんて恥ずかしすぎる。
「そ、それは腕が折れちゃうと思う……。お、下ろして?」
既にこの体制でいることが恥ずかしくて、どぎまぎしながらそう言うと、アストは心做しかむっとしたような表情を浮かべた。
「リディを抱えたくらいで、折れたりしないよ。そんなにひ弱そうに見える?」
そういうつもりではなかったのだけれど、失礼な言い方だったかもしれない。どちらかといえば、私が重い所為で、アストに掛かる負担が大きいのではないかと心配だったのだけれど。
「ごめ……」
思わず謝ろうとした瞬間、アストは唐突に、私の頬にキスを落とした。よもやいきなりそんなことをされるとは思わず、驚きのあまり声を上げると、アストはくすっと笑った。
「冗談だよ。そんなことくらいで怒る訳ないだろ」
「アスト!」
「ごめんごめん、下ろすから待って」
アストは笑いながら、私をそっと床に下ろしてくれた。真正面に立って見詰め合うような状態になると、アストはポケットの中から何かを取り出した。取り出したのは、小さな黒色の巾着袋みたい。何だろう、あれ。
「リディ、左手を出して」
よく分からないまま、言われた通りに左手を差し出した。何気なく手のひらを上にして差し出したら、アストは私の手首を優しく掴んで、その手のひらを下向きにした。巾着から取り出した何かが、そっと薬指にはめ込まれる。
「あ……」
──指輪だ。
ピンクゴールドのその指輪の真ん中には、小さな石が、斜めに二つついている。左下の石の方が、ほんの少し大きいようだ。小さい方の石は透明で、大きい方の石が翠色をしている。指輪には少しねじれがついていて、なんだか凄くおしゃれで可愛らしい。
暫くその可愛らしい指輪に見とれていた私は、ふいに左手の薬指が意味することに気付いて、はっとなった。左手の薬指は、結婚指輪を嵌める指だ。だったら、この指輪は……。勢い良く顔を上げると、私の様子をじっと見つめていたアストは、苦笑を浮かべた。
「あんまり時間が無かったから、大した物じゃないけど……」
「ううん、ううん……!」
私は目いっぱいに頭を振って、もう一度指輪に目線を落とした。この可愛らしいおしゃれな指輪は、今のアストが、私のために用意してくれたものなんだ……。
まさかこんなに素敵なものを貰えるなんて、思ってもみなかった。
「可愛い……」
指輪を見つめて呟くと、アストはほっとしたように笑ってくれた。
「無駄だと思いながら作ってた物だから、リディが受け取ってくれて嬉しい」
きらきらと光る二つの石を見つめていると、段々と瞳の奥が熱くなってくるのを感じる。アストが私のために用意してくれた指輪。その指輪は、その石は、きらきらと輝いて、私の薬指で光を放っている。その光を見ていたら胸がいっぱいになって、涙がぽたぽたと零れ出した。
「リ、リディ?」
俄かに驚いたようなアストの声に、私はなんでもないの、と答えながら、手の甲で乱暴に涙を拭う。
「目に傷が付くよ」
アストはそう言って私の手首を掴んで止めると、自分の指先でそっと涙を拭ってくれた。けれど、それでは全然追いつかないくらいに、涙が後から後から溢れ出す。まるで子どもみたいに、大粒の涙がぽろぽろと零れていく。
「リディ? どうしたの?」
心配そうな声に、私はなんでもない、の意味を込めて頭を振った。
「なんでも、ないの」
「なんでもないわけが……」
怪訝そうなアストの声を遮るように、噦り上げながら答えた。
「ごめん、なさい、──嬉しくて……」
まさか、こんなに綺麗な指輪を貰えるなんて思わなかったから……。アストから貰った指輪を、左手の薬指に嵌められる日が来るなんて、考えたことも無かった。
……ううん、付き合いだした頃は、ずっと夢見ていた。いつかアストに指輪を貰いたいなって、プロポーズして貰いたいなって、人並みにそんな憧れを抱いていた。だけど、アストが切り落としを受けたあの日から、そんな夢はもう叶わないものだと思っていた。結婚指輪なんて一生嵌めることは無いだろうと、諦め切っていたのだ。
なのに、あれから四年が経って……まさかアストに、薬指に指輪を嵌めて貰える日が来るなんて、思いもしなかった。なんだか信じられなくて、夢を見ているんじゃないかとすら思える。
「──リディ」
アストは目を細めて私を見下ろしながら、指先で私の頬を拭ってくれる。
「どうしよう、俺、凄く幸せだ」
空いている方の手で、頭をそっと撫でられる。その優しい手つきに誘われるように、涙がじわじわと溢れていく。アストは私の涙を拭うのをやめると、頭を撫でていた手を動かして、私の頭を自分の方へと引き寄せた。アストの肩口に顔を押し付けるような形になって、アストの肩に私の涙が染み込んでいく。
「濡れちゃうよ」
「そんなこと、気にしなくていいから」
アストは苦笑するように笑いながら、空いている方の手で、私の背中をぽんぽんと叩いてくれた。まるで小さい子をあやすようなその動きに、何故だか心が落ち着いていくのを感じる。
「……やっぱり、無理かも」
まるで独り言のように、小さく呟かれた言葉にどきりとした。無理って、何がだろう……。嫌な予感が私の中で湧き起こった時、アストは囁くように続けた。
「リディがやっぱり嫌だって言っても、もう俺、あなたを離せないと思う」
さっきとは違う意味で、どきりと心臓が跳ねた。嫌だ、なんて言う訳が無い。寧ろ、離さないで欲しいと思っているのは、私の方なのに。
「うん……、離さないで」
思い切って、伸ばした手をアストの背中に回した。ぎゅっと抱きついて、小さく鼻を啜る。柔らかい風の匂いが鼻腔を擽って、一度止まった涙がまた溢れ出しそうになった。その体温に、匂いに、声に、アストの存在自体に対して、胸がきゅうと締め付けられるように疼く。
頭にそっと添えられていた手が、私の背中に回された。そのまま、強く抱き締められる。頭にぎゅっと頬を押し当てられて、どきどきと鼓動が早くなっていく。身体はどんどんと熱くなっていくし、どきどきして胸は痛いけれど、それでも、もう離して欲しくない、と思える。
──目を瞑った瞬間、コンコン、と扉をノックする音が響いた。私はぱっと目を見開いた。咄嗟に反応できず扉を凝視する私をよそに、アストは驚いた様子も無く、私から離れて扉の方へ向かって行く。熱を失った身体が寂しくて、咄嗟にアストを引き止めてしまいそうな自分の手を、慌てて引き止めた。何をしているんだろう、私。どうかしている。
「はい」
アストが扉を開けると、その向こうにはティアナ王女が立っていた。ティアナ王女は、トレイを持っていた。トレイの上には、瓶に入ったお水と、伏せられたグラスが二つ乗っている。
アストは扉を肩で押さえながら、ティアナ王女からそのトレイを受け取った。
「ごめんね、お父様がアストを呼んでるの」
ティアナ王女は素早く扉の中に滑り込んで、私の方へと歩み寄って来る。ティアナ王女のお父様とは、国王陛下のことだろう。一体、どうされたのかな。黒魔術師の件で、何かあるのだろうか。
アストはトレイを持って私たちの方へと戻って来た。手に持ったトレイをテーブルの上に置いて、ティアナ王女に向かって頭を垂れる。
「分かりました」
「ごめんね、でも、直ぐに終わると思うから」
申し訳なさそうな表情を浮かべたティアナ王女に、アストは、いえ、大丈夫です、と小さく笑った。
「じゃあリディ、俺、行って来ます」
私の方を振り返ったアストに、私も笑って頷いた。
「うん、」
いってらっしゃい、と口にする前に、近寄って来たアストにぎゅうっと抱き締められる。
「え、あ……、アスト?」
まさかティアナ王女の目の前で抱き締められるとは思わなくて戸惑っていると、アストは直ぐに身体を離した。私たちの間に少し空間が出来て、私はアストの顔を見上げる。アストは優しく笑みを浮かべると、私の前髪を持ち上げて、額にそっとキスを落とした。
「……っ!」
驚いて、咄嗟におでこを手のひらで覆った私に、アストは悪戯っぽく笑った。
「行って来ます」
こんな風にキスをされるのは、初めてじゃない。切り落とされる前だって頻繁にしてくれていたし、カルクリーヴを掛けてくれる時もしてくれていたから、もういい加減慣れてもいいはずだ。それなのに、たったそれだけで、一気に頬が熱くなるのを感じる。
「い、い、いってらっしゃい」
さらっと応えようとしたつもりが、吃ってしまった。アストは瞳を細めて優しく笑うと、私の頭を一度だけ撫でて、そのまま扉から出て行ってしまった。
私とティアナ王女は暫くの間、呆然と立ち尽くしたまま、アストの出て行った扉を見つめていた。やがて、ティアナ王女はさっと私の方を振り返ると、大きな瞳を二、三度ぱちぱちとしばたたいた。
「我が世の春が来た、って感じ……? スキップでもしそうな勢いだったけど」
驚きを通り越して怪訝そうな表情を浮かべたティアナ王女は、額を押さえている私を見て、あ! と大きな声を上げ、私の左手を掴んだ。
「この指輪、さっきまで無かったよね!?」
目敏く指輪を見つけたティアナ王女は、私の左手の薬指に嵌められた指輪を凝視して、口をぱくぱくさせている。
「え、左手の薬指ってことは……結婚!? ね、ねえ、お姉ちゃん、プロポーズされたの!?」
ティアナ王女のオリーブの瞳は一瞬にしてきらきらと輝きだし、彼女は好奇心に満ちた乙女の様相で、捲くし立てるようにそう言った。少し照れるような、恥ずかしいような気持ちになりながらもこくりと頷くと、ティアナ王女はきゃー!と甲高い悲鳴を上げた。
「やったあああああ! どうしよう、どうしよう。やだ、もう、嬉しい!」
ティアナ王女は私の両手を握って、ぶんぶんと上下に振り回す。私とアストのことなのに、ティアナ王女は言葉通り、本当に嬉しそうににこにこしてくれている。そうやって喜んでくれることが嬉しくて、私にも自然と笑顔が浮かんでくる。
「何、何、一体何があったの? この数分間の間に一体何があったの? ちょっと、それじっくり聞かせてよ」
ティアナ王女は興奮気味にそう言うと、私の手を引いたまま、ベッドの傍にあるソファに座った。私はその勢いに飲まれるように、そのまま隣に腰を下ろす。
「あ、そうだ。お水」
私の手をぱっと離したティアナ王女が、テーブルのトレイの上に伏せられていたグラスを立てる。私が慌てて瓶を手に取ろうとしたら、私に入れさせて、と制された。ティアナ王女は危なげない手つきでお水をグラスに注ぎ、手渡してくれた。王女は普段から、こういった身の回りのことは自分でしているのかもしれない。
「ごめんね、お水、遅くなっちゃって。本当はもっと早く持っていけたんだけど、邪魔しちゃ悪いと思って待ってたの」
ティアナ王女はこともなげにそう言った。
「ううん、ありがとう」
私はお礼を言ってグラスを受け取り、口をつけた。
──水を飲み干してから、ティアナ王女の言葉の意味に気付く。
「ま、待ってくれていたの? 一体、どこで?」
まさか、部屋の前で待ってくれていたのだろうか。もしそうなら、ひどく申し訳無い上に、会話を全て聞かれていたことになってしまう。そんなの、あまりにも恥ずかしすぎる。
「あ、大丈夫。自分の部屋に戻ってたよ」
ティアナ王女は私を安心させるように、そう言って笑ってくれた。彼女は自分のグラスにも少しだけ水を注ぐと、それを素早く飲み干して、グラスをテーブルの上に置いた。
「それで、ねえねえ、何があったの?」
ティアナ王女は急かすようにそう言って、じっと私を見つめている。私は少し気恥ずかしいような気分になりながらも、アストが指輪をくれて、プロポーズしてくれたことだけを簡潔に説明した。あまりに詳しく話すのは、さすがに恥ずかしい。
「きゃあ、やっぱりそうなんだ! じゃあやっぱり結婚するのね!?」
嬉しそうに笑ってくれるティアナ王女に、私ははにかみながらも、しっかりと頷いた。正直、まだ気持ちがふわふわとしていて、これは夢なんじゃないかとすら思う。だけど、そっと下ろした視線の先で、左手の薬指に嵌められた、新しい指輪がきらきらと輝いている。私は無意識のうちに、右手の指先でその指輪を撫でていた。
「でも、お姉ちゃん、一体どこに住むの? 事件が解決したから、アストはもうこのままこっちに帰ってくるわよね?」
どこに住むか、なんてまだ決めていなかったけど、まだ時間はあるからじっくり考えるつもりでいた。王都に出るなら仕事をやめなくてはならないけど、私とアリシアがモーデンを離れる方が自然だろう。
だけど、アストがこのまま王都に帰るってどういう意味だろう。
「え? 実習は、まだ三週間くらい残ってるはずだけど……」
不思議に思って問い返すと、ティアナ王女はしまった、というような表情を浮かべた。けれど、すぐにあっけらかんとして笑った。
「ま、いいよね。もう終わったことなんだし。あのね、アストたちは別に実習をしにモーデンに行っていたわけじゃないの」
「え!?」
予想外の言葉に、私は間の抜けた声を返してしまった。実習生だったアストが、実習をしに来ていた訳じゃないって、どういうことなんだろう。
「大体、デイラートのガザックが実習教官してるなんておかしいと思わなかった?」
確かにそれはおかしいと思ったけれど、ガザックは教官が足りないから借り出された、と言っていたから、そうなんだ、と額面通りに受け止めていた。あれは、嘘だったんだろうか。
「シルアスから、モーデンに黒魔術師が潜んでいるかもしれないって話を聞いて、モーデンにクルシュを送ろうかって話になったんだけど、今までいなかったクルシュがいきなり村に来たら、村の人たちの不安を煽るし、黒魔術師を変に刺激することになるでしょ?」
ティアナ王女の言葉は、前にイーシャが言っていたことと同じだったので、私は納得して頷いた。
「実習の名目で見習いを連れて行けば、不自然じゃない。そう考えたお父様がアストたちに実習生の振りをさせて、モーデンに送り込んだのよ」
「え、じゃあ、アストはもう実習生じゃないの!?」
驚いてそう声を上げると、ティアナ王女はくすりと笑った。
「そうよ。アストはもう半年も前からデイラートとして働いてるの。バッカスとルークは、クルシュとしてね。モーデンに行った魔術師の中に、実習生なんて一人もいなかったの」