運命のいたずら(1)
───四年後
「おかーさん!!」
満面の笑顔で駆け寄って来たアリシアを抱き締めると、それだけで今日一日の疲れが飛んでいくような気がした。
「ごめんね、アリシア。遅くなって」
「ううん。あのね、しあ、いい子にしてたよ」
無邪気に笑うアリシアの頭を撫ぜて、その後ろに立っている保育士さんに会釈した。
「すみません。遅くまでありがとうございました」
「いいえ、とんでもないですよ。じゃあアリシア、またね」
先生がにっこり笑って、手を振る。
「はい、先生、さようなら!」
「失礼します」
アリシアも笑顔で手を振り返した。私は先生にもう一度会釈をし、アリシアの手を取って保育園を出た。
「あのねえ、きょうはおえかき、いっぱいしたの」
「そうなの?またお母さんにも見せてくれる?」
「うん! あのねー、おかあさんのえもいっぱいかいたよ。えへへ」
笑顔で私を見上げて来るアリシアを見下ろして、私も自然と笑顔になった。天涯孤独の身だった私が、一人でアリシアを産むことを決意したあの日から、もう四年が経とうとしていた。まだお腹の中の小さな存在だったアリシアは、もう三歳になる。
「今日の晩御飯は何食べよっか?」
「しあ、ぐらたんがいい!!!!」
アリシアが声を張り上げた。その様子が本当に可愛らしくて、笑みがこぼれる。
「ぐらたん!」
「アリシアは本当にグラタンが好きだねぇ。じゃあ今日はグラタンにしようね」
「わーい! ぐらたんー!まかろにぐらたんー!」
毎日仕事三昧で、家に帰れば家事育児が待っている。辛く無いといえば嘘になる。でも、アリシアを産んで良かった、と私は強く思う。アリシアは、私の唯一の家族。そして、私の愛した人が残してくれた大事な宝物。産んでいなければ、一生後悔していただろう。
私には、アリシアがいる。小さなこの子の笑顔を見れるだけで、私は幸せだ。
髪の色は私に似て桃色だけど、可愛らしい顔立ちはアストに似たのかな、と思う。特に大きな翠色の瞳は、アストにそっくりだと思う。アストはもう少し釣り目気味だったけど。鼻筋が通っているところもアスト似だろう。私の鼻はどちらかというと低い。
「あっ、おかーさん!」
「どうしたの?」
「えびは? えびは?」
「うん、えびも買って帰って、入れようね」
「やったー!」
帰宅途中にあるスーパーで何を買うのかを考えながら、二人でゆっくりと家への道のりを歩いた。
「明日は、お休みだねぇ。何しよっか?」
仕事が忙しいから、お休みは本当に久しぶりだ。しんどいからごろごろしていたいけれど、それではアリシアがかわいそうだ。久しぶりに遊園地にでも連れて行ってあげようか。
そんなことを考えていたら、アリシアは勢い良く手を上げた。
「はーい! あしたは、はんばーぐ!」
「あ、もう食べたいもの決まってるんだ?」
「きいろいね、びょーんがはいってるの!」
「チーズ入りのハンバーグがいいのね?」
「うん!」
嬉しそうに笑うアリシアに、私も微笑み返した。
スーパーに着くと、アリシアと一緒に鮮魚コーナーへ行った。海老を手にとってかごに入れる。オニオンは家にあったし、グラタンの素もあったはず。マカロニは……あと少ししか無かったかな。一応買って帰ろう。あ、チーズもいるや。
そんな風にぼんやりと考えごとをしていたら、色素の薄い栗色の毛が視界の隅に入った。
「!」
……アスト!
去っていく背中を追いかけそうになって、踏み出した足を慌てて止める。こんなところにアストがいる訳ない。私は、私にもアストにも何の縁もゆかりもない田舎の村に来たんだから。
遠くの角を曲がって消えた背中を見送って、ため息をついた。
栗色の毛なんて珍しくもなんとも無いのに。動揺して、馬鹿みたい。情けなくなって、俯いた。瞳の奥がじんとする。ああ、なんで。どうしてこんなことで涙が溢れてくるの。私はお母さんなんだから。しっかりしなきゃ。泣いちゃ駄目。
ぐしぐしと目を擦って顔を上げる。アリシアをびっくりさせてはいけない。私はアリシアに笑いかけようとして、隣にアリシアがいないことに気がついた。
「……っ、アリシア!?」
私に黙ってどこかに行ったりするような子じゃないのに。どこに行ったの!?私はパニックになりながら、スーパーの中を走り出した。変な人に連れ去られていたらどうしよう。私があの子から目を離したから。くだらないことで泣いたりなんかしたから。どうしよう、どうしよう……っ!
そんなに広い訳でもないスーパーの中を勢い良く走っていると、少し離れたところに見慣れた桃色のツインテールを見つけた。誰かと喋っているようだ。変な人だったらどうしよう!
「────アリシア!」
叫んで、慌てて駆け寄っていく。アリシアの相手をしていた男の人が立ち上がった。
遠くから必死の形相で走ってくる私を見て、母親だと気づいたのだろう。小さく会釈してきた。
だけど私は、会釈を返すことが出来なかった。
「……っあ、すと」
───どうして。
どうしてアストがここにいるの。
なんで?
さっきの、見間違いじゃなかったの?
「────おかーさん、このひと探してたよね!」
「……へ?」
呆然と立ち尽くしていた私は、アリシアの声に我に帰った。
「どうして?」
「さっき、うしろすがた見て、おいかけようとしてたもん!」
……気づかれてたんだ。
「だからね、しあが呼んできてあげようと思って、見つけたんだよ!」
得意げに話すアリシアに、また泣きそうになる。こんな小さい子なのに、気を使わせて。何やってるんだろう、私は。
何だか目を合わせるのが怖くて、恐る恐るアストを見た。だけどアストはしっかりと私を見ていて、ばっちり目が合った。強い視線に思わず目を逸らす。
私が黙り込んでいると、アストが遠慮がちに口を開いた。
「……あの、前にどこかでお会いしたこと、ありますか?」
「……いえ…」
今のアストには、一度しか会っていない。切り落としされた翌日、医務室で会っただけだ。いきなり目の前で泣き出した女のことを、アストは覚えていないみたいだった。私はほっとして、息をつく。
「おかーさん、このひとに用があったんじゃないの?」
きょとんとしているアリシアを、そっと抱き上げた。
「ごめんね、お母さんの勘違いだったの。───後ろ姿がね、凄く似てたから、間違えちゃったの」
小さく笑うと、アリシアが不思議そうに首をかしげる。
「だれに?」
「アリシアのパパに」
「パパ、って、しあがうまれるまえにしんじゃったパパ?」
「そうだよ」
アストは、アリシアが生まれる前に死んだことになっている。私の愛したアストは死んでしまったようなものだから……。
「それより、アリシア。このひとって呼び方は失礼でしょ。お兄さん、って呼びなさい」
「はい!」
アリシアは元気良く返事をした。アリシアをそっと下ろして、アストに向かって小さく頭を下げた。
「……。あの……ごめんなさい、この子が迷惑をかけて」
目が合わせづらくて、アストの首の辺りを見ていた。
「……いえ」
「おにーさん、モーデンのひと?」
モーデンとはここの村のことだ。
「モーデンには、三日前に来たんだ」
「どこからきたの?」
アリシアは無邪気に問い掛けている。だけど私は胸が痛くて、早くアストから離れたいと思った。アストがどうして、モーデンに来たのかは凄く気になる。だけど、アストが傍にいると思うと、心臓が痛いくらいに暴れだした。まだ、こんなにもアストのことが好きなんだ。目の前にいるアストは、今は確か17歳で……、私とアストが出会ったときの年齢だ。
アストだけが、あのときのまま。私はもう、21歳になってしまった。
「王都だよ。お仕事の都合で、三ヶ月だけこっちにいるんだ。アリシアもこの辺に住んでるのか?」
「うん、しあのおうち、すぐそこ! おにーさんは?」
三ヶ月……か。その間、もう二度と会わずにいることは出来るだろうか?
「俺の家もそんなに遠くないよ」
引越してしまえれば楽だけれど、たった三ヶ月のために引っ越すのも、金銭的な意味できつい。折角見つけた仕事も、やめたくはないし……。
「こんど、あそびにいってもいい?」
「いいよ」
アストがしゃがみこんで、アリシアの頭を撫ぜている。アストは元々子どもが好きだったから……。アストがもし切り落としなんかされてなくて、アリシアと三人で家庭を築けていたら。アストはこんな風にアリシアを撫でて、可愛がっていたのだろうな。
そんな仮定が、現実にはならなかったビジョンが、リアルになりすぎて。気がついたら、瞳から大粒の涙が溢れ出していた。
「…あの……?」
アストに戸惑いがちに声をかけられて、私ははっとなる。アリシアも心配そうに私を見ていた。
「おかーさん、どこかいたい?」
「ううん、痛くない。ごめんね、目にゴミが入ったの。すみません、失礼します」
これ以上、アストといたら、心が壊れてしまいそうだ。慌てて会釈して、アリシアの手を引いてレジに向かった。
「え、あ、……はい」
戸惑ったようなアストの声を背中に聞きながら、私はもう振り返れなかった。
神様って、いるのだろうか。
もしいるのなら、私にはとことん冷たい神様だ。
どうかもう二度と、アストに会いませんように。
そう思いながらも、久しぶりに見たアストの姿が脳裏に焼きついて離れなくて……
心の奥底では、もう一度会いたいと思っている自分がいることは、否定できなかった。