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切り離された未来  作者: 篠井七紗
第四章 ひたむきな想い
27/44

護りたいもの(2)

 夕方になり、仕事を終えてイーシャと共に会社を出ると、少し離れたところにアストが立っているのが見えた。アストがこちらを見たので、私はほっとして笑みを向ける。

「じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日」

 帰りの方角は反対なので事務所の前でイーシャと別れて、アストの方へと駆け寄った。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「いえ、今来た所です」

 アストは優しく瞳を細めた。

「何も変わったことはありませんでしたか?」

「うん、無かったよ」

 喋りながら、並んで保育園の方へと歩き出す。

「ごめんね、わざわざ迎えに来て貰って」

 朝も夕方もアストに手間を掛けて、申し訳無いなと思う。ついつい謝った後で、今朝謝るのは禁止だと言われたことを思い出した。

「リディ、次謝ったら怒りますよ」

 アストは苦笑いしながら私を見下ろしている。

「ご、ごめん。……あ」

 言われた傍から謝ってしまった。思わず両手で口を覆うと、アストは呆れたように笑った。

「しょうがない人だな」

 あ、まただ。ふいに飛び出す親しげな口調に、心臓がとくんと高鳴る。前まではこれが普通だったのに……。何故だか今は、気安げに喋られただけで胸がドキドキしてしまう。

 二人で歩いていると、あっという間に保育園に着いた。アストは朝と同じように少し離れたところで待っていてくれたので、私は一人でアリシアを迎えに行った。

「おかあさん、おにいさんは?」

 駆け寄って来たアリシアの第一声はそれだった。あからさまに不満げな表情を浮かべているアリシアに、思わずくすっと笑う。

「お兄さんは外で待ってるよ」

 そう言った途端、アリシアは瞳をきらきらと輝かせた。

「わーい! はやく、かえろー!」

 私の手を引いて、早く早くと急かすように引っ張って行く。保育園を出て少し行ったところでアストの姿を認めるなり、アリシアは私の手を離してアストに駆け寄って行った。

「おにいさん!!」

「アリシア、おかえり」

 駆け寄って来るアリシアを抱き上げて、アストが柔らかく笑う。

「えへへ」

 アリシアもにこにこと嬉しそうだ。私の手を離して行ってしまったのは少し寂しかったけれど、それだけアストに会えて嬉しいんだなと思った。

「アリシア、クッキーありがとう。おいしかったよ」

 アストの言葉に、アリシアは嬉しそうに笑う。

「ひよこさんじゃりじゃりで、おいしかったでしょ?」

「うん、おいしかった」

 私が傍へ行くと、アストはアリシアを下ろした。アリシアはたたっと私に駆け寄ってきて、私の右手を握る。

「おかあさん、さんにんでおててつないでかえろうね」

 屈託無い満面の笑みで見上げられて、私もつられるように笑顔になった。

「そうだね」

 アリシアが幸せそうだと、やっぱり嬉しいな。

「おにいさん、きょうはしあとおかあさんと、ばんごはんたべるの?」

 アストに右手を差し出しながら、アリシアが問い掛ける。

「ううん。今日はお仕事があるから、すぐに帰るよ」

 アストはアリシアと手を繋ぎ、そう答えた。アリシアの笑みが曇る。

「ええーっ」

 がっかりした様子のアリシアに、アストはごめん、と告げた。

「また迎えに来るから」

「ほんとう? あしたのあさもきてくれる?」

「うん。あー……、待てよ……」

 一瞬頷きかけたアストが、まるで独り言のように呟いた。アリシアは不思議そうにアストを見上げている。

「ごめん、明日は来られないかもしれない」

「えーっ」

 アリシアは不満げに頬を膨らませた。

「かわりに昨日のお兄ちゃんが来るよ」

 アストの言葉に、アリシアはきょとんとしたような瞳を向ける。

「きのうのおにいちゃん?」

「昨日、ハノンお姉ちゃんと一緒に会った背の高いお兄ちゃん。覚えてない?」

 私がそう口を挟むと、アリシアは大げさなほどに悲壮な表情を浮かべた。

「えー、やだー!」

 やだって。あまりの嫌がりように、私とアストは呆気に取られる。

「どうして嫌なの?」

 そう問い掛けると、アリシアは大きな翠の瞳を曇らせて言った。

「おっきいし、おかおこわいもん」

 確かにガザックは背が高い。顔立ちは割と整っている方だと思うけれど、野生的というか、男くさいというか……。子どもから見れば怖いかもしれない。それにしたって、我が娘ながら酷い言い草だ。

「怖くないよ、とっても優しいよ?」

 安心させるように微笑みかけてみたけれど、アリシアはふるふると首を横に振った。

「しあ、おにいさんがいい」

 アリシアはアストと繋いだ手を引っ張る。アストは困ったようにアリシアを見下ろした。

「ごめん。来れたら来たいんだけど、明日はきっと無理だ」

 アストは元々実習のためにモーデンに来ているわけだし、明日は何か他のお仕事があるのかもしれない。

「アリシア、わがまま言っちゃ駄目」

 私がアリシアと繋いだ手を軽く引っ張ると、アリシアは頬を膨らませたまま私を見上げた。

「でもしあ、おにいさんといっしょがいいもん」

「明後日にはまた来るから」

 アストの言葉に、アリシアがぱっと振り返る。

「ぜったい?」

「うん、絶対」

 アストが頷くと、アリシアはやっと安心したようだった。


 その日の夜、家に帰って晩御飯を食べた後、私は家にあった布で小さなポシェットを作ることにした。アリシアがアストに貰った翠の石を入れるためだ。丁度うさぎ柄の布があったので、それを丁度良いサイズに裁断してチクチクと縫い合わせていく。石を入れるためだけのものだから随分小さいサイズのもので良かったので、あっという間に完成した。出来上がったポシェットを見て、アリシアは大喜びだった。

「うさぎさーん!!」

 アストに貰った石を入れておくように言うと、アリシアは素直に石を入れて、早速ポシェットを肩から提げる。

「わーい」

 まるでうさぎのようにぴょんぴょんと飛び跳ねるアリシアを見て、気に入ってくれて良かったと思った。

 


 次の日の朝迎えに来てくれたのは、アストの言った通りガザックだった。

「悪いな、俺で。あいつ来られなくて残念そうだったよ」

 ガザックは開口一番にそう言った。

「ううん、迎えに来てくれてありがとう。迷惑を掛けてごめんね」

 私が頭を下げると、ガザックは私の頭をがしがしと撫でてくれた。

「俺たちがやりたくてやってることだから、気にすんな」

 三人で並んで、保育園へ向かって歩き出した。けれど、アリシアはガザックを怖がって、私の右手に齧り付くように歩いている。

「おいおい、俺ってそんなに怖いか?」

 ガザックが凹んだ様子でそんなことを言うので、思わずくすっと笑ってしまう。

「だっておっきいもん」

 アリシアは私の影に隠れるようにしながら、そっとガザックを見上げた。

「でかいから色んなものが見えて、いいぞ」

 ガザックは歯を見せて笑う。アリシアは不思議そうな目をした。

「いろんなもの?」

「肩車してやろうか?」

 ガザックは、ふいにそんなことを言った。これだけ怖がっているんだから、肩車なんか嫌がるだろう。そう思ったのに、アリシアは私の影から躊躇いがちに飛び出すと、うん、と頷いた。

「よーし、こっちこい」

 ガザックがしゃがみ込んで、アリシアを肩に座らせる。立ち上がる瞬間、怖かったのかアリシアはガザックの頭にぎゅっとしがみついていたけれど、立ち上がった後はきらきらした瞳で辺りを見回し始めた。

「わあ、たかーい!」

 それは、そうだろう。ガザックは私よりうんと背が高いし、アストよりも高い。ガザックに肩車してもらえば、見える景色は普段とは大分異なっていると思う。

「どうだー。凄いだろ」

 ガザックが威張るようにそう言うと、アリシアはくしゃっと顔を綻ばせた。

「うん、すごい! すごーい! あのね、とおくまでみえるよぉ」

 きゃっきゃとはしゃいでいるアリシアを見て、私は吃驚した。さっきまでガザックのことをあれだけ怖がっていたと言うのに、あっという間に懐いている。

 保育園に着く頃には、アリシアはガザックとお別れすることを残念がるくらいだった。

「おじちゃん、またかたぐるましてね」

 地面に下ろされたアリシアが、名残惜しそうにガザックを見上げる。

「アリシア、おじちゃんじゃないの。おにいさん」

 失礼な言い草に慌ててそう口を挟むと、アリシアは不思議そうに私を見上げた。

「ちがうよぉ。おじちゃんは、おにーさんじゃないよ? おにーさんは、おにーさんだもん」

 どうやらアリシアの中では、お兄さん、イコール、アストになってしまっているらしい。きょとんとしたように小首を傾げている。

「いいよ、別に。三歳の子から見れば俺なんかおっさんだろ」

 ガザックは気を悪くした様子も無く、そう言って笑ってくれた。

「また肩車してやるよ。じゃあな」

 ガザックが頭を乱暴にかき回すと、アリシアは驚いていたけれど、すぐに嬉しそうに笑った。

「うん! またね、おじちゃん!」

 アリシアと別れて、私の働いている事務所に向かって歩き出す。ガザックは瞳を細めて言った。

「可愛いなあ、アリシア」

「えへへ、ありがとう」

 アリシアのことを褒められると凄く嬉しくて、思わず頬が緩む。そんな私を見下ろして、ガザックは笑った。

「でも確かに、顔のパーツはアストに似てるな」

「そうかな? でもそれって、アストも可愛いってこと?」

 すかさずそう突っ込むと、ガザックは何とも言えない表情を浮かべた。

「まさか」

 その表情がおかしくて、思わず笑ってしまう。

「あ、でもアストはね、私に似てるって言ってたよ」

 ふいに、遊園地に行った時に観覧車で言われた言葉を思い出す。ガザックは目を細めた。

「まあ、それも分かる。なんつーか、顔のパーツはあいつ似かもしれないけど、雰囲気はお前に似てるんだよ」

「雰囲気? それって、どんな?」

 私がそう問い返すと、ガザックは困ったような表情を浮かべた。

「雰囲気は雰囲気だよ。んなもん、表現できない」

「えー、何それ。気になるよ」

「気になるって言われたってなあ、雰囲気なんか説明できないって」

 ガザックは困ったようにそう言うと、右手で追い払うような仕草をした。この話はおしまい、ということだろう。

「──だけど、アリシアか。良く考えたな」

「ん?」

Ast(アスト)Liddy(リディ)から二文字ずつ取ってAlisia(アリシア)ってつけたんだろ?」

 ガザックの言葉に吃驚して、私は目をしばたたいた。

「よく、気付いたね」

 アリシアの存在を知るよりも前に、アストは切り落とされて13歳に戻ってしまった。アリシアはこれから先の長い人生の中で、父親からは何も貰うことが出来ないのだ。そう思ったとき、せめて名前だけでも父親の物の一部を貰おう、と考えたのだ。

「そりゃ、気付くだろ」

 ガザックは目を細めて笑う。

「いい名前じゃないか。女の子らしくて可愛いと思う」

「……ありがとう」

 アリシアは、響きも可愛らしいし、私もとても気に入っている名前だ。

「……あ、あとな。俺、お前に一つ謝らなきゃならないことがあるんだ」

 ガザックはふいにそう言った。

「え?」

 一体なんだろう、と首を傾げる。

「この前、ティアナ王女がアストと婚約するって言っただろ? ──あれ、事実じゃなかった」

 申し訳なさそうな表情を浮かべるガザックに反して、私はそのことかと安堵した。

「うん、ごめんね。それ、私も教えてもらった」

「……え?」

 ガザックは驚いたように私を見下ろす。

「誰に?」

「おととい、アストに教えてもらったよ」

 ガザックは二、三度瞬いた後で、マジかよ、と漏らす。

「ごめんな、俺、てっきり事実だと思い込んでたんだよ」

「ううん。それで、ティアナ王女に教えてもらったの?」

 私が問い掛けると、ガザックはああ、と頷いた。

「おとといな、お前とアストが寮を出た後、俺とティ……ハノンが残ってただろ?」

 誰かに聞かれていたときのことを考えたのか、ガザックはティアナ王女と言いかけて、ハノンと言い直した。

「あの時さ、ハノンが”アストって絶対リディのこと好きだよね! どう思う?”とか聞いてきやがってさ」

 ええっ。そんな会話をしていたの!? 驚く私をよそに、ガザックはうんざりしたようにため息をついた。

「”より戻してくれないかなー。”なんていうから吃驚してさ。いやいや、お前がその仲引き裂いてんだろって思って突っ込んだら……”ああ、ごめん。あれ嘘”とかってさ!」

 ガザックは片手で額を覆った。

「もう最悪だよ。俺お前に余計なこと言っちまって……本当に、ごめん」

 ガザックがあまりに悲壮な雰囲気でそんなことを言うので、私は思わず笑ってしまった。

「おいおい、ここ、笑うところか?」

「ごめん、ごめん。でも、そんなに気にしてくれてたんだね」

 私が笑ってガザックを見上げると、ガザックはなんだか居た堪れなさそうに目を逸らした。

「そりゃ、気にするだろ。……元々、お前らの仲を引き裂いたのは俺みたいなもんだし、さらに今回までもとあっちゃ、なあ」

「何言ってるの、アストが切り落としされたのはガザックの所為じゃないって、何度も言ってるのに」

 ガザックが責任を感じることなんて何もないって、何回も言っているのに。

「今度そんなこと言ったら、怒るからね」

 アストの真似をして、釘を刺しておく。

「悪い」

 ガザックは眉尻を下げ、微かに笑った。

「そういえばこの間バッカスに、ガザックにはもう恋愛する気が無い、みたいな話を聞いたんだけど」

 私がそう言うと、ガザックは驚いたように瞠目した。

「お前ら、どんな話してんだよ」

「ガザック、私が王都に居た頃に付き合ってた彼女と、別れちゃったの?」

「……まあな。あ、でも別に、お前らとは関係ないからな。振られたんだよ」

「え、そうなの?」

 バッカスの言い方からして、てっきりガザックの方から別れを告げたのかと思っていた。吃驚してそう聞き返すと、ガザックは私の額を軽くはたいた。

「そうだ。人の古傷をえぐるな」

「いたぁ」

「痛い訳あるか」

 ガザックはおかしそうに笑う。

「別に俺は恋愛する気が無い訳じゃない。あれから、好きになれる相手がいなかっただけだ。だから、お前が気にすることじゃない」

「本当に?」

 訝しんで問い掛けると、ガザックは頷いた。

「ああ。……良いなと思う相手と出会えれば、いつかは結婚したいとも思ってるよ」

 そういえばアストは、ガザックもティアナ王女のことを気にしている、というようなことを言っていたけれど、実際のところはどうなんだろう。本当はガザックの気持ちも聞いてみたかったけれど、好奇心で首を突っ込むのも野暮だと思って何も言わないことにした。

 話していると、いつの間にか事務所の前に着いていた。

「あっ」

 ガザックが何かを思い出したように、ポケットを探る。

「ん?」

「悪ぃ、すっかり忘れてた。これ、渡そうと思ってたんだ」

 ガザックはポケットから取り出した、小さな箱を私に渡す。

「何、これ?」

 全く見覚えの無い白い小箱を掌に乗せて、首を傾げる。シンプルで何の変哲も無い無機質な箱。箱を開ける爪の部分には、四桁の数字のダイヤルがついている。これって、鍵だよね?

「多分、お前へのプレゼント」

「え? 多分って?」

「……それ、アストが持ってたもんなんだ」

 ガザックは躊躇いがちに言った。

「え?」

 アストが持っていたもの? ……それを、どうしてガザックが私に?

「お前が王都を出て直ぐだったかな。アストが、それを俺のところに持ってきたんだ。引き出しの奥にシールド掛けて入ってたけど、鍵の番号が分からなくて開けられない。これって仕事と関係あるものだろうかって」

 ガザックは目を伏せた。

「シールド掛けてあったってことは、アスト以外の人間はその箱を見ることも触ることも出来なかったってことだ。にも拘らず、そんな魔力の無い人間が使うような鍵まで掛けて、厳重に保管してるなんて一体何だろう、って思うだろ?」

 私は頷いた。

「ひとつだけ心当たりがあったから、それ、アストから預かったんだ。……一応、確認のために開けさせて貰ったけど、その鍵を開ける四桁の数字は、お前の誕生日だった」

「え?」

 私の、誕生日?

「その箱の中に、小さい箱が入ってた。流石に勝手に見るのもどうかと思って、中身までは見てない。だけどそれは多分、以前のアストがお前に贈ろうとしてたものだと思う」

「アストが私に……? どうして?」

 そんなこと、分かるの?

「アストには、仕事に関係あるもんだったって言っといた。あいつがこれ持ってても、何かの折に捨てちまうかもしれないしな。けど、ずっと処理に困ってたんだ。アストに黙って、勝手にお前に渡すのもどうかと思って。そもそも、お前がどこにいるのかさえ知らなかったしな」

 ガザックは小さく息を吐いた。

「この前ハノンに話したら、絶対お前に渡した方が良いっていうから、持ってきた」

 ハノン……って、ティアナ王女のことだよね。

「これ、なんなの?」

「中は見てないけど、多分あれ(・・ )で間違いない。開けたら分かる。……じゃあ、また帰りに迎えに来るな」

 ガザックはそう言って、私の頭を撫でてくれた。撫でるというよりかは、ぐしゃぐしゃにしたような感じだったけれど。

「……うん、ありがとう。ごめんね、迷惑を掛けて」

「いや。悪いな、俺で」

 ガザックはからかうような素振りは見せずに、真面目な声で言う。

「それ、どういう意味?」

「いや、別に変な意味じゃないんだけど、アストは今朝から王都に行ってるから、帰りも俺で悪いなって思ってさ」

 十分変な意味じゃない、と思ってガザックを見上げると、そんな不満が私の顔に出ていたのか、ガザックは堪えきれない、というように声を出して笑った。それを見て、やっぱりからかわれていたことに気付く。

「まあ、明日の朝にはあいつが来るからさ」

「ガザック」

 アリシアをたしなめる時のような声を出すと、ガザックは殊更おかしそうに笑った。

「怒るなよ」

「だったらからかわないで」

「悪い、悪い」

 じゃあまた帰りに来るわ、と言って、ガザックは来た道を戻っていった。私はその背中を見送りながら、ガザックの言葉を反芻していた。アストが王都に帰ってるって、どうしてだろう?

 それにしても、ガザックにアストのことでからかわれるとは思わなかった。嘗ては、それこそ私とアストが付き合い出した頃は、うんざりする程からかわれたものだった。けれど今となってはガザックは、私とアストの関係については責任を感じている位で──見当違いの物なんだけれど──、あんな風にからかったりすることなんて無かったのに。ティアナ王女との婚約が嘘だと分かって、私たちが付き合い出すと思っているのかな?

 私がもしアストにこの気持ちを打ち明けたら、アストはきっと受け入れてくれるのだろうと思う。そうなれば、ガザックもきっと安心するのだろうな。アリシアだって、喜ぶに違いない。なのに、私はその選択をしないつもりでいる。アストやアリシアの未来のことを思ったら、その方が良いのだと自分に言い聞かせてきた。けれど、それで本当に正しいのだろうか。それとももう、私は意固地になっているだけなんだろうか。──ううん、それとも私は、自分が間違っているという理由をつけてアストの傍にいたいだけなのかもしれない。考えれば考える程、どうすることが正しいのか分からなくなってくる。こんな風にぶれていてはいけないのに。

 ガザックの背中を暫く見送った後、私は事務所に入った。

 手の上にある小箱をじっと見下ろす。あれ(・・ )、って、一体なんだろう? アストが私に贈ろうとしていたものだとガザックは言っていたけれど……本当にそうなのだろうか? その小箱の中身がとても気になったけれど、さっさと掃除を始めないと皆が来てしまう。気になる気持ちを抑え込み、家に帰ってから開けようと、落とさないように鞄の奥底に沈めた。

 それから、いつものように窓を開けてはたきで掃除を始めた。イーシャが来る前に、と思いながら、ティーポットにお湯を沸かす。その時、事務所のドアの前に人影が見えた。

「あれ、イーシャ?」

 ちら、と時計を見ると、そろそろイーシャの来る時間だった。直ぐに入ってくるかな、と思ったけれど、ドアはなかなか開かない。荷物が多いのかな。たまにそういうときがあるから、私は躊躇わずにドアに近づくとドアを開けた。

 正直、甘く考えていた。私が魔力を持っていないことを知られた以上、私自身が襲われることなんてまず無いと思っていたのだ。

「……あ……」

 ドアの向こうには、見覚えの無い男の人が立っていた。私より少し年上くらいだろうか。この事務所を見知らぬ人が訪ねて来ることなんて滅多に無いし、それがこんな早朝ともなれば尚更だ。それに──なんとなく嫌な予感がして、思わず後ずさる。男はすっと手を翳した。

「цеюζргыя, юζргыя」

 男の口から、聞き取れない言葉が飛び出す。──魔術だ! その途端、一気に仄暗い闇に包まれて、以前に向けられた鎖の魔法と同じものだと気付いた。どうしよう。ガザックはもう行ってしまったのに! 鎖は、飛び掛るように私に近づいて来る。まるで体が自分のもので無くなってしまったかのように動かない。私はぎゅっと目を瞑った。

 ──その瞬間。

「Еч・яыгрζюец-яыгрζю!」

 女性の声が素早く魔法を紡ぎ、仄暗い闇を光が切り落とした。私は吃驚して、声のした方を見る。男の数歩隣に、イーシャが両手を重ねて翳すようにして立っていた。

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