もしも運命があるのなら(2)
──ひとしきり泣いたら、なんだか少し気持ちが晴れた。ガザックから離れた後、ハンカチで鼻をかんでいると、ガザックはおかしそうに笑った。
「ちょっとは、すっきりしたか?」
「…うん、ごめんね。ありがとう」
「いや、気にすんなよ。こんな頼りないおっさんの胸で良かったら、いつでも貸してやるからさ」
ガザックの言葉に、思わずくすりと笑みがこぼれた。
「おっさんって、まだ28歳でしょ?」
「それでも、お前らから見ればおっさんだろ?」
「何言ってるの、7つしか変わらないのに」
私がくすくすと笑っていると、ガザックもやがて笑い出した。一緒になって暫く笑った後で、ガザックは優しく言ってくれた。
「本当に、何かあったら言って欲しい。今更かも知れないけど、俺、お前の力になりたいんだ」
「…うん、ありがとう」
ガザックの優しさが嬉しい。こくりと頷くと、ガザックは頭をがしがしと撫でてくれた。
「バッカスに、リディに会ったって聞いてから、お前に会いたかったんだ。ここで会えて良かった」
「うん、私も。ここであなたに会えて、良かった」
「…俺、そろそろ仕事行くな。また何かあったら連絡くれ。いや、何も無くても」
ガザックの言い方がおかしくて、またくすっと笑ってしまった。ガザックは真剣な表情で言葉を重ねた。
「冗談じゃなくて、本当にな?昔みたいに……って言ったら都合が良いかもしれないけど、なんでも相談して欲しい」
昔みたいに、か……。ガザックは私が侍女になるよりも先に、見習い魔術師として宮廷にあがっていた。私は面倒見の良い彼のことを兄のように慕って、よく会いに行っていた。ガザックがデイラートになってからは、ガザックに憧れを抱いたアストが、度々ガザックの元を訪れるようになって…それで必然的に、私もアストによく会うようになって、仲良くなったんだ。それからアストのことを好きになってしまって……。ガザックには、アストのことも何度か相談したことがあった。あの時のようにただ一方的にガザックを頼りにすることは躊躇うけれど、そう言ってくれるのはとても嬉しい。
「ガザックも、私で出来ることがあったら言ってね?」
私がそう言うと、ガザックはなぜだか泣きそうな表情で笑った。
「ありがとな」
ガザックは、私から目を逸らすと、公園の外に見える風景を指差した。
「あそこに見える黒い屋根が、俺たちの住んでる寮なんだ」
ガザックが指した方角に目を向けると、少し離れたところに黒い屋根が見えた。私の働いている事務所のこんなすぐ傍に住んでいたなんて、知らなかった。今まで会えなかったのが不思議なくらいだ。だけどここからだと、スーパーからは結構遠そう。ガザックたちの住んでいる寮は、スーパーから見ると、我が家とは反対方向になるのかな。
そんな風に考えてから、私の頭にはアストの姿が浮かんだ。アストは買い物の帰りには、どうせ同じ方向だからと言って、よく家まで送ってくれていた。
「……寮って、アストやバッカスさんも一緒に住んでるんだよね?」
「ああ。部屋は別れてるけどな」
──やっぱり、そうなんだ…。同じ方向だからと言って毎回送ってくれてたけど、私たちを家まで送ってくれた後、来た道を戻って帰っていたのだろうか。そんなこと、全然気がつかなかった。
今まで気がつかなかったその優しさに、なんだか胸が苦しくなる。そうだった。アストは昔から、そういう人だった。そんなところもやっぱり変わっていないんだ……。嬉しくて温かい気持ちと一緒になって、恋しいような、苦い気持ちが溢れてくる。
でも、もう会わないって決めたんだから……。アストのことを考えるのはやめよう。私は胸にそっと手を当てた。
「まぁ、また休みの日に遊びに来いよ。娘連れてな。ぜひ会ってみたいし」
ガザックはそう言って立ち上がった。
「うん、ありがとう」
「あんま無理すんなよ」
ガザックは私の頭を乱暴に撫でると、じゃあな、と言って公園の出口に向かって行った。私も立ち上がって、歩き出したガザックの背中を見送る。さっきまでと、何も変わってはいないのに──寧ろ、アストの婚約の話を聞いてしまったというのに──、心の中のもやもやが少し、消えてしまったような気がする。もしかしなくても、思いっ切り泣いたおかげかもしれない……。ガザックに感謝しなくっちゃ。
それにしても本当に、こんなところで会えるなんて思わなかった。木陰になっていて見えにくい場所に座っていたのに、よく気づいたなぁと思う。寮からは結構近いみたいだし、ガザックもこの公園にはよく来るのかな?ガザックにももう会うことは無いのかなって思っていたから、また会いに来いと言って貰えて凄く嬉しい気持ちになった。
私も木陰から足を踏み出して、公園の真ん中に立つ古い時計を見上げた。時計の針は、丁度良い時間を指し示している。そろそろ、書類を貰える頃合いだろう。私は公園を後にして、エックスさんの家に向かった。
「ただいま戻りました」
エックスさんから書類を貰って事務所に帰ると、社長が立ち上がって出迎えてくれた。
「おぉ、お帰り。すまなかったね」
「いえ、遅くなってしまってすみません」
私は書類の入った封筒を手渡す。社長はそれを受け取ると、優しげな表情で笑いかけてくれた。
「気分転換は出来たかい?」
「え……?」
なんのことだろう、と小首を傾げるけれど、社長は微笑みを浮かべたまま私を見下ろしている。
「いや、最近どうも思い詰めているように見えたからね。うん、でも、さっきまでより良い顔をしているよ」
社長の言葉に、はっと瞠目した。社長は、私が気分転換出来るようにと外へ行かせてくれたの?
「……ごめんなさい、社長」
「何を謝っているんだい?書類、ありがとう」
私は慌てて頭を下げた。
「で、どうだい。少しは気分転換になったのかな?」
「はい!」
私が顔を上げて勢いよく頷くと、社長は笑みを深くした。
「なら、良かった。引き続きデスクの書類、頼むよ」
「はい」
私は慌てて自分の机に戻り、机の上に書類を広げる。視線を感じてふと顔を上げると、向かいの席からイーシャが笑いかけてくれていた。私もにっこりと笑みを返して、手元に目線を戻す。……心配をかけないようにしていたつもりが、イーシャだけでなく社長にまで心配をかけてしまうなんて。とても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。本当に、駄目だなぁ。最近は特に、周囲の人に迷惑ばかり掛けている気がする。私の周りには優しい人が多いんだから、心配をかけないようにもっとしっかりしなくちゃ。
もし何か辛いことがあったら、また、ガザックに話してみようかな?甘えても、いいよね?ガザックが住んでいる寮の場所も教えて貰ったし、その内、会いに行こうかな。──なんて、そんなことを考えてはみたけれど、実際に会いに行くことは無いだろうなと感じていた。ガザックにはまた会いたいと思うけれど、ガザックの住んでいる寮には、当然のことながらアストもいるのだ。鉢合わせする可能性を思うと、とても会いに行く気にはなれなかった。
ガザックに会ってから三日程経った日、私はまた木陰のベンチに腰掛けていた。ここで感じられた風の匂いが忘れられなくて、どうしてもまた来たくなったのだ。今日は珍しくイーシャがお休みを取っていたから、一人でお弁当を持って公園に出てきた。
風の匂いは私を、ほんの少し寂しい気持ちにさせるけれど、それでも優しく包み込まれるような感覚には懐かしさと愛しさを覚える。お昼の暖かい陽気を、柔らかい風が運んでくるのが心地良い。やっぱりここは、良い場所だと思う。
お弁当を食べた後、瞳を瞑ってぼんやりと風を感じていると、誰かの気配を感じた。ぱっと目を開けて気配のした方を見ると、魔術師の服を着た男の人が驚いたような顔をして立っていた。…アストと星を見に行った夜に会った人だ。名前は確か、バッカスさんだったよね。
「こんにちは、バッカスさん」
「どうも、リディさん。…バッカスさん、とか気持ち悪いんでやめて下さい。バッカスでいいっす」
苦笑いを浮かべながらそう言われたので、私は笑って頷いた。
「じゃあ私も、リディって呼んで下さい」
バッカスは目を細めて笑った。
「了解。それにしても、まさかここで会うなんて、驚いたな」
ここで、の部分に妙なアクセントを感じて、私は小首を傾げた。
「どうして?」
「アストも、ここが好きなんだよな。暇なときは、ここのベンチに座ってるし。…あ、もしかしてそれを知っててアストを待ってた?」
え!アストもここが好きなの…?私は吃驚しながら首を横に振る。
「ううん、知らなかった。ここ、風の匂いを感じられるから、気に入っちゃって」
私がそう言うと、バッカスは瞳を大きく見開いた。
「あいつと同じこと言ってる。…あいつもよくここで、目を瞑って座ってるんだよな。ここは風の匂いが強いから好きだとかなんとか。俺は風属性は弱いから、あんまりぴんとこねぇんだけど。でも、魔力を持たないあんたにも感じられるってことは、感性の問題なのかな」
些かがっかりしている様子だったので、何だか可愛らしいなと思って私は微笑った。この間会った時はちょっぴり怖かったけれど、今日は嘘みたいに刺々しさを感じない。
「今日はお休み?良かったらここ、座らない?」
私がベンチの空いている部分を指差すと、バッカスは、いや、と首を横に振った。
「俺、今仕事中なんだ。アストを探してて、ここにいるかなーと思って来たんだけど」
まだ寝てんのかな、と、バッカスは小さな声でぼやいた。
「もしここに来たら、俺のとこに来るように伝えてもらえねぇ?あいつ今日は休みなんだけど、手伝ってもらいたいことがあって」
「……うん、分かった」
私が頷くと、バッカスは、まるで何か言いたいことが有るかのように、私をじっと見据えた。
「どうかした?」
私がそう訊ねると、彼は少し逡巡する様子を見せた後で、遠慮がちに言った。
「アストとなんか、あった?」
「え?」
「いや……、こんなことに首突っ込むのも野暮だとは思うけど、気になってさ。アスト、最近元気が無いっていうか……」
「……」
元気が無い、って……。本当に?そんなことを言われると、とても心配になる。
「モーデンに来てから、あいつ結構楽しそうだったけど、それって多分あんたに会ったからだと思うんだよね。喧嘩したんなら、仲直りしてやって欲しい」
私に会ってから、アストが楽しそうだった……?──その言葉は、私の心に深い喜びと悲しみをもたらした。喧嘩なんて、していない。喧嘩どころか……私たちは、他人に戻ったようなものなのだから。バッカスはアストに元気が無い理由を、私と喧嘩したからだと思っているのかな。
心配して言ってくれているのだと思うと、とてもいたたまれない気持ちになって、私は俯いた。
「……。よりを戻すつもりはねぇの?」
「え?」
吃驚して顔を上げる。バッカスは自分の頭をがしがしと掻いた。
「あいつさ、今でもあんたのことが好きなんじゃないかって思うんだけど。この間一緒にいるのを見て、俺はてっきりよりを戻したのかと思ったくらいで……」
「ううん。もう、そんなつもりはないの」
私は俯きがちに首を横に振りながら、バッカスも、アストとティアナ王女が婚約するという話を知らないのかもしれない、と考えた。
「あんた、他に好きな人でもいんの?」
私は首を横に振る。バッカスはふぅとため息を吐くと、おもむろに私の隣に腰掛けた。それから、唐突にこう言った。
「……ガザック教官、あれからずっと彼女いねぇんだ」
あれから、って…。アストが切り落とされてからってことかな?あの当時、ガザックには彼女がいたと思うけど、別れてしまったのかな。
「本人は、好きになれる相手がいないだけだって言ってたけど……前に飲みに行ったときに聞いたら、"あいつらより先に幸せになるわけにはいかない"って、漏らしてたから…多分、それが本音だと思う」
「え……?」
「わかるよな、…あんたのことだって」
──それが、私とアストのことだというの?ガザックは、そんなことを考えていたの?まさか、アストが切り落としをされたことに責任を感じて?
「俺には、このままじゃ三人とも幸せになれないんじゃないかって思えて。あんた、今でもあいつのこと好きなんじゃないの?俺の勘違いじゃなかったら、あんたらは想い合っているように見えるんだけど、なにがあんたを躊躇わせてんの?」
「…」
私が俯いて黙り込んでいると、バッカスはあっ、と呟いて頭を掻いた。
「…悪い、こんなこと言って。関係ないくせに、首突っ込みすぎだよな」
私はつま先をぼんやりと見ながら、首をただ横に振った。
「ううん…、ありがとう。……心配してくれているんだよね」
バッカスが笑う気配がした。
「お節介に礼を言うなんて、変な女だな、あんた。…あ、やべ。そろそろ戻らねぇと」
バッカスは慌てたように立ち上がった。
「長々話しちゃって、悪い。じゃあ俺行くわ」
「あ、うん。…ありがとう」
バッカスは笑みを浮かべると、片手を挙げてそのまま慌しく去っていった。何だか凄く気さくで、親しみやすい人だったな。この間会った時とはすっかり印象が変わってしまった。
「…」
私はお弁当箱を鞄に片付けながら、小さくため息を吐く。最近アストの元気が無いって言っていたけれど、もしそれが本当に私の所為だと言うのならと考え込んでしまう。ただの自惚れかもしれないのに……。
それに、ガザックのことも気になる。王都を離れて以来、ガザックとは連絡を取っていなかったし、彼女と別れてしまったことも知らなかった。……バッカスの言っていたことが本当なら、ガザックは私が思っていた以上に、アストが切り落とされたことに責任を感じているってことだよね。そんなの、ガザックは何も悪くないのに。もし本当に、私たちの所為でガザックが誰とも付き合う気が無いというのなら、そんなに悲しいことは無い。もう一度ガザックに会って、ちゃんと話をした方がいいのかもしれない。
とりあえず、そろそろ、私も事務所に戻らないと。私はベンチから立ち上がり、事務所に向かって歩き出す。公園の入り口のところで、さっきまで座っていたベンチを振り返った。
バッカスさんは、アストもあのベンチを気に入っていると言っていた。だったらもう…、ここには来ない方がいいだろう。鉢合わせた時のことを思うと、ここでまたお昼ご飯を食べよう、という気にはなれなかった。折角良い場所を見つけたと思ったけれど、仕方が無いよね。少し名残惜しい気持ちになりながら、踵を返して事務所に向かって歩き出した。
もう会えない、と告げて以来、スーパーでアストに会うことはぴたりとなくなった。すぐ近くに住んでいて、これまでは頻繁に会っていたのに、会おうと思わなければこんなにも会わないものなのか、と不思議に思う。もう会わない方が良いと分かっていながらも、アストと会った場所に行けば、無意識にその姿を探してしまう。実際に会ったらどうすればいいのかなんて、分からないくせに……。
だけど、ことあるごとにアストに会いたいと言っていたアリシアは、気付いたらぴたりと言わなくなっていた。どうしてだろう。もう、アストのことを忘れちゃったのかな。それとも、我慢しているんだろうか……。私からその話題を振るわけにもいかないから、ただアストのことには触れないように日々を過ごしていた。お休みの日には、公園に遊びに行ったり、クッキーを作ったりしてアリシアと二人で明るく過ごした。アリシアは今までのように、楽しそうにはしゃいでいたのでほっとしたのだった。
──結局、ガザックにも会いに行けずにいる。もしもバッカスが言っていたように、ガザックにもう誰とも付き合う気がないというのなら、このまま知らない振りなんて出来ない。それが私たちの所為かもしれないと言うのなら、尚更だ。アストと私のことは、ガザックが気にすることじゃないってことをちゃんと伝えたい。私はもう誰かと付き合うつもりはないし、ガザックに幸せになって欲しいと思っているんだから。だけど……、何も言われていないのにそんなことを言うのは自意識過剰かもしれないと思ったし、何より、寮まで会いに行く勇気が未だ持てずにいた。またどこかで会えたらいいと思ったけれど、それ以来ガザックを見かけることはなく、公園でバッカスに会ったのを最後に魔術師の誰とも会うことは無かった……。
「……あ…!」
ある日の帰り道。アリシアを迎えに行く途中で、少し離れた場所に誰かが立っているのに気づいた。私のいる位置からは殆ど後ろ姿しか見えないような横顔だったけれど、もう私がアストを見間違えるはずなんてなくて……、私はただ呆然と立ち尽くした。アストは何か考え込むような真剣な表情で、道の先をじっと見据えている。まるで足が地面に貼り付いたかのように動かなくなってしまって、私はじっとアストの横顔を見つめていた。
こうして遠くから見つめているだけでも、胸が苦しくなる。今すぐ傍に行きたい気持ちと一緒に、今すぐ逃げ出したいような気持ちが溢れ出してくる。どうしてこんなところで会うんだろう。バッカスにもガザックにも、ルークさんにも会わないというのに……。どこに行ってもアストの姿を探してしまっていたくせに、いざ会うと苦しくて、逃げ出したくてたまらない。早くここを立ち去ろうって思うのに、それでも足が動かない。
「……っ」
ふいに、アストが振り返った。私と目が合った瞬間、はっとしたような表情を浮かべる。アストはさっと目を伏せるように逸らすと、軽く会釈するようにほんの少しだけ頭を傾けて、そのまま踵を返して去っていってしまった。私はアストの背中を、呆然と見送るしかない。
───目が合った瞬間、私は何を期待したの?どうして背を向けられた瞬間、見えないナイフで切られたかのような痛みを感じたんだろう。胸が締め付けられるように苦しい。もう会えないと言ったのは私で、アストの対応は何も間違っていない。私に傷付く資格なんかないのに。それでも……ふっと目を逸らして去っていくその姿は、私の心に鋭い痛みを残していった。
そして、それ以来、アストの姿を見かけることは無かった。