もしも運命があるのなら(1)
鳥の鳴き声に、はっと目を覚ました。カーテンの隙間から見える外の景色は、まだ仄暗い。昨夜は余計なことばかり考えてしまって、なかなか寝付けなかったけれど、いつの間にか眠っていたみたいだ。私はそっと上半身を起こし、隣で眠るアリシアを見下ろした。アリシアはあどけない顔をして眠っている。──目を覚まして、アストにもう会えないと知ったら、アリシアはどれだけ悲しむだろう。本当にこれで良かったのかな。私の選択は、正しかったんだろうか。…ううん、そんなこと考えちゃ駄目だ。自分で決めたことなんだから、しっかりしないと。
すっかり陽が昇った後、私はアリシアとトーストを齧りながら、アストにもう会えないということを、いつ伝えようかと悩んでいた。早く伝えた方がいいのかもしれないけれど、アリシアが口にしていないのに私からアストの話題を出すべきかどうか、悩んでしまう。結局、散々悩んだ挙句、言い出せなかった。
私が決めたことなんだから、後悔しちゃいけないって分かってるのに、考え始めると、本当にこれで良かったのかなって疑問が頭を擡げて来る。時間があればぐるぐると考え込んでしまうのが嫌で、私は仕事に没頭した。
一心に仕事を進めたお陰で、終業時間には、驚くほど作業が進んでいた。余計なことを考えないようにするには、何かに没頭するのが一番だ。アストが切り落とされたあの日から、私はアリシアと二人で生きてきたんだ。大丈夫、時間が経てば、この心の隙間も埋まるはずだ。
その日の帰り道、手を繋いで歩いていたら、アリシアがぽつりと呟いた。
「おにーさんにあいたいな」
「…あのね、アリシア」
繋いだ手に小さく力を込めてアリシアに声を掛けると、アリシアは不思議そうに私を見上げた。その表情を曇らせたくなくて、開いた口を閉じかける。でも、いつまでも隠している訳にはいかない。私はもう一度、口を開いた。
「お兄さんには、もう会えないんだ…」
「え?」
アリシアはすぐには理解できない様子で、きょとんとしたように私を見上げた。
「お兄さんはね、お仕事が凄く忙しいから…、もう会えないの」
「なんで!?」
アリシアは繋いだ手をぎゅっと引っ張った。
「しあ、もうおにいさんにあえないの?そんなの、やだ!」
「ごめんね」
私はかがみこんで、アリシアをぎゅっと抱きしめた。アリシアはイヤイヤをするように、手足をばたつかせる。
「やだ、しあ、おにいさんにあいたい!」
「ごめんね…」
何も言い様が無くて、私は瞳を伏せた。アリシアを悲しませたくなくてアストと離れることを決めたはずなのに、結局アリシアを悲しませていることに胸が痛くなる。やっぱり最初から、アストと親しくなるべきじゃなかった。こんな風にまた別れて、自分だけでなくアストも、アリシアさえも傷付けることになるのなら……。
家に帰ると、アリシアの大好きなアニメがやっていて、アリシアはすぐにそれに夢中になった。にこにことテレビを見ているアリシアをリビングに残し、私はキッチンで晩御飯の支度を始めた。帰りの道中、ずっと「嫌だ、嫌だ」と喚いていたので、機嫌を治してくれたことにほっとする。勿論、アリシアが納得してくれた訳ではないということは、わかっていたけれど。
翌日も、一心不乱に仕事に打ち込んだ。今はそんなに忙しい時期では無いけれど、やろうと思えば仕事はいくらでもある。心配をかけないよう、お昼休みにはイーシャと話をしながらしっかりお弁当を食べたけれど、それ以外の休憩時間は全て仕事に費やした。忙しさに悩殺されて、余計なことを考えなくて済むように。──それでも、家に帰った後でアリシアが突然思い出したように「お兄さんに会いたい!」と喚き出したときや、アリシアを寝かしつけた後なんかは、否が応でもアストのことばかり考えてしまうのだった。
それから四日程経ったある日の勤務中、突然声を掛けられて、私はぱっと振り返った。社長が困ったような表情を浮かべて、私の後ろに立っていた。
「すまないのだが、少し頼まれてくれないかね」
「どうされたんですか?」
「この書類をエックスのところに持って行って貰いたいんだ」
エックスさんというのは、大事な顧客の一人だ。エックスさんの家まではそんなに遠くないから、書類を持って行くだけならすぐに帰ってこれるだろう。
「はい、分かりました」
社長が差し出してきた大きな封筒を受け取ると、社長はほっとしたように相好を崩した。
「中に大事な書類がある。すべて読んでもらった上で、署名を貰って来て貰いたいんだ」
全て読んでもらった上で署名を貰おうと思うと、少し時間が掛かるだろう。エックスさんは家で仕事をされているし、忙しい方だからすぐに読んでもらえるとも限らない。
「でしたら、書類をお届けした後、一旦戻ってきますね」
社長は、いや、と首を横に振った。
「今は他に急ぎの仕事も無いし、署名を貰うまで向こうで待たせてもらうといい」
「いえ、ですが…」
応接間でぼうっと待っているなんて気まずいし、何より、暇な時間なんて持ちたくない。時間が有れば、余計なことを考えてしまうのは分かりきっていることなのだから。それに、ぼうっとしている時間があれば、仕事を進めた方がよっぽど有意義だ。
「応接間で待つのが気まずければ、公園でも散歩してきなさい」
「え…?」
「いいね」
社長は有無を言わさない口調でそう言うと、自分の席へと戻っていった。あまり納得いかなかったけれど、社長はああ見えて結構頑固意だから、食い下がっても無駄だろう。私は仕方なく書類を片手に事務所を出た。
エックスさんは案の定、とても忙しそうだった。後で事務所に届けようかと声を掛けて下さったけれと、忙しい方にそんなことを頼む訳には行かない。私はそのご厚意を断って、二時間後にまた貰いに来ることにした。
エックスさんの家を出て、ふう、とため息を吐く。二時間も、どこで時間を潰そうか。やっぱり、一旦事務所に帰って仕事をこなした方がいいのではないかと思うけれど…今帰ると、社長に怒られそうな気がする。私は仕方無く公園に足を運んだ。
昼間の公園では、親子連れが楽しそうに遊んでいる姿が見られた。日当たりの良いベンチにはもう人が座っていたので、私は公園の隅にある、大きな木の陰にぽつんと存在するベンチに座った。木に遮られて、遊んでいる子どもたちの姿も見えなくなる。まるで一人きりのような気分になって、少し寂しくなった。
柔らかい風が、私を通り過ぎて行く。私はそっと目を閉じた。風のそよぐ匂いでさえ、私にアストを思い出させる。風魔法は、アストの一番得意な魔法だった…。
「───リディ?」
ふいに、声を掛けられて、私はぱっと目を見開いた。もしかして、アスト?なんて、馬鹿な期待を抱いてしまう。そんな訳ないのに。
顔を上げると、目の前に背の高い男の人が立っていた。アストよりも濃い焦げ茶色の髪を、アメジストの瞳を、ただぼんやりと見上げて、それから私ははっとして立ち上がった。
「ガザック…!?」
かつて、私が兄のように慕っていた人…。私より七つ年上で、王宮でも優秀な魔術師の一人だった。アストにとってはデイラートとしての先輩にあたる。
でも、なんで?どうしてガザックまで、モーデンにいるの?今もデイラートを続けていると思っていたのに。
「驚いたな。まさかこんな所で会えるとは思わなかった」
ガザックは本当に驚いた様子で私を見つめている。
「隣、座っていいか?」
私の横を指し示されたので、勿論、と頷いた。ガザックはおいしょ、なんて言いながらベンチに腰を下ろした。私も慌てて隣に座り直す。
「本当に久し振りだな。……元気にしてたか?」
「うん、元気だよ。ガザックは?」
私がそう問い返すと、ガザックは笑って頷いた。
「元気だよ」
ガザックはそれきり、口を閉ざしてしまった。──ただ、何かを考え込むように、大木の作る大きな影を見つめている。考え事をしているのなら邪魔をしない方がいいかとも思ったけれど、どうしても気になることがあったので、私はガザックに声を掛けた。
「ガザック、デイラートをやめたの?」
「は?」
ガザックは呆けたように私を見た。
「いや、やめてないぞ?……あぁ、こんな遠くに来てるからか?」
私は頷いた。
「だって、デイラートのお仕事は陛下の警護でしょう?」
「その通りなんだが、今回はちょっと事情が有ってな」
「事情?」
「実習教官が足りてなくて、駆り出されたんだよ。だから、今回だけ、実習生の特別教官してんの」
そう、なんだ。
「お前、さ…。アストに会ったんだって?」
突然の問いかけに、肩がぴくりと揺れた。
「え?」
どうして知っているのだろうか。もしかして、アストがガザックに何か話したの?
「バッカスに聞いたよ」
バッカスさんって、確かこの間星を見に行った夜に会った、アストの実習仲間の人だよね。あの人がガザックに、私のことを話したんだ…。
「ガザックが、アストやバッカスさんの実習の教官をしてるの?」
「ああ、そうだよ」
「そうなんだ。びっくりしちゃった。まさか、アストもがザックも、モーデンに来るなんて思ってなかったから」
「俺だってまさかこんなところで、おまえに再会できるとは思わなかったよ」
ガザックはふっと笑った後で、躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「…バッカスからさ…」
「ん?」
「お前が、子どもを連れてたって聞いたよ。……アストに、そっくりの女の子だったって」
アリシアが、アストにそっくり…?確かに、私自身もアリシアにはアストの面影があると思っていたけれど、たった数分会っただけのバッカスさんにも、似ていると感づかれていたの?
私が呆然として何も言えずにいると、ガザックは困ったように笑った。
「…やっぱり、アストの子なんだな?」
「……アストも、気付いているのかな…」
私が思わずそう呟くと、ガザックは気遣わしげに問い掛けてきた。
「アストには、話していないのか?」
「うん…、何も言ってない。アリシアのお父さんは死んじゃったって言ってあるの」
「そうか…。じゃあ、気付いていないかも知れないな。あいつは人のことには敏感だが、自分のことになるとどうも疎いだろ?」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
「だけど、お前が子どもを産んでいるなんて知らなかったよ。…今、いくつだ?」
「三歳。夏が来れば、四歳になるわ」
「そうか…」
ガザックは小さく息を吐いた。
「…ごめんな」
「え?」
「ずっと、後悔してた。俺、どうしてお前の助けになってやれなかったんだろうって。…お前が侍女を辞めて遠くへ引っ越すって話も、女官長から聞いて知ってたんだ。でも俺、お前に合わせる顔が無いと思って、見送りにさえ行けなかった」
ガザックは顔を伏せた。
「アストが切り落としされたのは、俺や他のデイラートが力不足だったからだ。俺は…、まだ新人だったあいつ一人に、全てを背負わせたんだ。お前にも、合わせる顔が無いと思ってた」
「そんなことない!アストが切り落としされたのは、ガザックの所為じゃないよ」
思わずそう叫ぶと、ガザックは俯いたままで首を横に振った。
「いや、俺たちの力不足が原因だよ。…でも、それでお前の前から逃げたのは、間違いだったと思ってる。ああいう時だったからこそ、俺はお前の力になってやるべきだったのに」
私はただ首を横に振った。ガザックが、そんな風に私のことを考えてくれていたなんて、全然知らなかった。アストが切り落としされたことだって、確かにショックだったけど、ガザックや他のデイラートの所為だなんて思ったことないのに。
だけど、ガザックが私のことを気にかけてくれていたことを申し訳なく思うと同時に、その気持ちを嬉しく思った。
「ううん、ありがとう」
「ありがとうって、俺、何もしてやってないのに」
「ううん。そんな風に、私のことを考えてくれていたことが、凄く嬉しいの」
ガザックは顔を上げて、私を見た。
「…リディ」
「あの時は辛かったけど、今の私にはアリシアもいるし、毎日とても幸せなの。だから、大丈夫。ありがとう」
出来る限り精一杯の笑顔を浮かべてそう言うと、ガザックは表情を曇らせた。
「………。リディ、今は、…その、娘と二人で暮らしてるのか」
「うん?そうだよ」
「アストとは、どこで再会したんだ?」
私はガザックに聞かれるまま、アストとスーパーで再会し、アリシアがアストにとても懐いたこと、時々会うようになったことを話していた。でも、アストに好きだと告白されたことや、私がもう会えないと告げたことは、言えなかった。ガザックを心配させるだけだと分かっていたし、何より、それを口にするだけでも、涙が溢れてきそうだったから。
「───そうか…。たまたま再会するなんて、そんな偶然もあるものなんだな」
私が話し終えると、ガザックはただ驚いたようにそう言った。
「私も、びっくりしたよ。実習は、王都で行われるものだと思っていたし」
「そうだよな。実習が各地で行われるようになったのは今年からだからな。それに、俺もモーデンにお前がいるなんて知らなかったから…驚いたよ。知っていたら、アストをこの地に連れてくるようなことはしなかったのに」
まるで心底悔いているようなガザックの声に、私は笑って首を横に振った。
「そんなの、ガザックが決めたことじゃないでしょ?それに、私は会えて嬉しかったよ」
再び別れる辛さを経験することになったけれど、それでも、大切な思い出が増えた。
「…なあ。今も、あいつのことが好きなのか?」
ガザックはじっと私の目を見て、問い掛けてきた。ううん、もう吹っ切れたよって答えようとしたけれど…、ガザックの真摯な瞳は嘘を吐くことを許してはくれなかった。
「うん…、今も、好きみたい」
私は笑ってみせたつもりだったけれど、ガザックは苦々しい表情を浮かべた。
「…ごめんな」
「ねえ、さっきから謝ってばっかりだよ。ガザックは悪くないのに。どうして謝るの?」
ガザックは瞳を伏せると、搾り出すような声で言った。
「……。アストは…、この実習が終わったら、ティアナ王女と婚約することが決まってる」
「……こん、やく?」
その言葉をすぐに理解することは難しくて、私はただ呆けたように反芻した。
「あぁ。…アストは、身を挺して陛下を守った訳だから、陛下のお気に入りだっただろう?それで、陛下は…第二王女であるティアナ王女を、アストのもとに降嫁させようと考えておられるみたいなんだ」
ガザックは重い息を吐いた。
「アストは宮廷に仕えるただの魔術師だから…、陛下の決定に異を唱えることなんて出来ない。二人はいずれ、結婚することになると思う」
アストとティアナ王女が、結婚する…?
ガザックの言葉を理解すると同時に、頭の中が真っ白になっていく。どういう、こと?
「それ、本当なの…?」
「ああ、ティアナ王女本人から聞いたから、間違いない」
ガザックは私を一瞥すると、気まずそうに瞳を逸らした。
「…アストも、知っているの?」
「当然、知っているはずだよ」
アストが、ティアナ王女と結婚する?アストは、私のことを好きだと言ってくれたのに…。アストの結婚相手はもう決まっていたというの?婚約することが決まっていながら、私のことを好きだと言ったの?理解が、追いつかない。結果的に、私はアストを振った形になり、彼を傷付けてしまった。だから、こんな風に考える権利は無いって分かってはいるのに、どうして、って疑問が頭の中を渦巻いている。
ティアナ王女…。私が侍女をしていた時、ティアナ王女とも何度かお話したことがある。王女はあの時まだ14歳で、とてもお可愛らしい方だった。今は、18歳になっているはずだ。──王妃様に良く似た、美しい女性になっておられることだろう。
私は、アストが私以外の誰かと結婚して、幸せな家庭を持つことを望んでいたはずなのに。どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。頭が真っ白になる。ガザックが、私を痛ましげな瞳で見ているのを感じた。何か言わなきゃ、と思うのに、何も言葉が出て来ない。
「そ、っか。そうなんだ」
やっと出てきた言葉は、そんな陳腐な相槌だけだった。ガザックに心配を掛けたくなくて、なんてこと無いように笑って見せようと思うのに、顔の筋肉が動いてくれない。
「はは、…そうなんだ…凄いね、アスト。王女様をお嫁にもらっちゃうなんて…」
笑ったつもりだったのに、いつのまにか、頬を暖かい何かが伝っていた。
「…リディ」
ガザックは、突然私の後頭部に手を回し、私の顔を自らの胸に押し付けた。ガザックに抱きしめられるような形になって、頭の中に沢山の疑問符が浮かび上がる。
「ガザック?どうしたの」
「いいよ、無理に笑おうとすんな。そんなことしてたら、心が壊れちまう。…泣きたいなら、泣けばいいんだ。思いっきり泣けよ。ここなら、誰にも見えない」
ガザックは苦しそうに息を吐いた。
「──俺、本当に馬鹿だよ。間違ってた。俺はアストの代わりにはなってやれないけど、お前の泣き場所くらいにはなってやれたのに。そんなことに、四年も気付かないなんて」
どうして、そんなこと言うんだろう。もう泣かないって決めたのに。泣かないで頑張ろうって思っていたのに、ガザックの優しい言葉で、私の弱い心が挫けそうになる。鼻の奥がツンとするのを、眼をぎゅっと瞑って堪えようとするけれど、瞳の淵にはみるみる涙が溜まってくる。
「どうして、そんなこというの。…泣きたくなんて、ないのに」
「いや、お前は一回、思い切り泣いた方がいいよ」
堪えきれなくなった涙が、一筋、二筋と頬を伝っていく。ガザックは優しく頭を撫でてくれて、その優しさと温もりが、余計に私の眦を熱くさせる。
──どうしてこんなに悲しいんだろう。アストが若くて綺麗なティアナ王女をお嫁さんに貰って、王家と縁続きになれるなんて素晴らしいことだ。魔術師として、こんな名誉は無いだろう。アストのことを想うなら、とても喜ばしいことのはずなのに。私は、私なんかのことは忘れて、アストに幸せになって欲しいと思っていたはずなのに…。なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。
ふいに、イーシャの言葉を思い出す。イーシャは、切り落とされたアストと私がこんな風に再会して、アストがまた私のことを想ってくれたのは運命ではないかと言ってくれた。アストと私の間には、運命があるんじゃないかって。…でも、やっぱりそんなものありはしないのだ。私とアストの間に運命なんてものがあるとすれば、それは結局、最後には切り離される運命でしかない。切り離された未来が繋がることなんて、やはり二度とありはしないのだ…。もうとっくに諦めていたはずの未来に、心のどこかでは未だにしがみついていたことに気付かされる。なんて愚かなんだろう。本当に、馬鹿だ。馬鹿だよ…。
私はガザックにしがみついて、声が枯れるまで泣き続けた。