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切り離された未来  作者: 篠井七紗
第三章 もしも運命があるのなら
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揺れる心(2)

 仕事を終えた後、私はいつものようにアリシアを迎えに行った。アリシアは、何か大きな紙を大事そうに抱えて駆け寄って来た。

「おかーさん!」

 アリシアの小さな体をぎゅっと抱き締めて、私は問い掛けた。

「アリシア、何を持っているの?」

「えへへ、ひみつ」

 アリシアはにこにこと笑いながら、その紙を見せまいとするように、ぎゅっと抱き込む。画用紙のように見えるから、また何か絵を描いたのかもしれない。

「えぇ、お母さんに見せてくれないの?見たいなあ、アリシアの絵」

 私がそう声を掛けると、アリシアは僅かに逡巡する様子を見せたけれど、すぐに首を横に振った。

「だめー」

 アリシアは紙をしっかりと抱え直して、私を促した。

「はやく、おうちかえろ!」

 何の絵なのだろうと気にはなったけれど、お喋りなアリシアのことだからそのうち見せてくれるだろうと考え、私は一旦諦めて、アリシアとともに帰路に着いた。

 今日のアリシアは大きな紙を抱えているから、両手が塞がってしまっていて、いつものように手を繋いで歩くことができない。

「ねえ、アリシア。お母さんが持ってあげるから、手を繋ごうよ」

 アリシアはぶんぶんとかぶりを振った。

「だめ、おかあさん、見ちゃだめ」

「見ないよ。持つだけ」

 私がそう言っても、アリシアは首を横に振り続ける。まあ、手を繋がなくても、すぐ傍を歩いているから大丈夫かな。

「お母さん、スーパーに行きたいんだけど、大丈夫?重たくない?」

 アリシアはこくりと頷いた。

「おもたくないよ」

 アリシアは抱え込んだ紙をじっと見て、ぽつりと言った。

「おにーさんに会いたいなあ」

「…そうだね」

 私も会いたいな、と心の中で呟く。実際に会ったら、どんな顔をすればいいのかは、わからないけれど…。

「…あっ!」

 スーパーが近くなった頃、アリシアが急に大きな声を上げて走り出した。私は慌てて後を追い掛ける。

「アリシア!こけるから、走っちゃ駄目!」

 アリシアは、私の制止の言葉なんかまるで聞こえていないように、とたとたと駆けていく。

「おにーさん!」

 アリシアが嬉しそうに発した言葉に、私は驚いてアリシアの行く先を見た。スーパーの入り口のベンチに、アストが座っていた。な、なんでこんなところに…。一瞬そう思ったけれど、アストだってこの辺りに住んでいるのだから、約束をしていない時でも、会ってもおかしくはない。そうは思いながらも、私は近寄る勇気が持てなくて、その場に立ち尽くした。

「おにーさん、こんばんは!」

「こんばんは、アリシア」

 立ち上がったアストが、駆け寄ってきたアリシアを受け止める。アリシアはそのまま抱き上げられて、嬉しそうに笑った。

「おにーさん、久しぶりだねぇ。しあ、会いたかったんだあ」

 アリシアの言葉に、アストが頬を緩める。

「俺もアリシアに会いたかったよ」

 アストはアリシアの頭を撫で、それから、アリシアが大事そうに抱えている紙を不思議そうな目で見つめた。

「何を持ってるんだ?」

「あのねー、きょう、おえかきしたの。あとでみせてあげるね」

 どこか誇らしげなアリシアに、アストは笑顔を返した。

「ありがとう。楽しみだなぁ。何が描いてあるんだろう?」

 アストは、アリシアを抱え直すと、ふと私の方を向いた。立ち尽くしたままで二人の様子を見ていた私と、アストの瞳がしっかりと合ってしまう。それだけで、あの夜のことを思い出して、私の心臓がとくんと高鳴った。咄嗟に背中を向けて逃げ出したくなったけれど、そんな訳には行かないし、いつまでも立ち尽くしている訳にもいかない。私は、二人に近付いて行った。

「こんばんは」

「こんばんは、リディ」

 私をじっと見据える翠色にいたたまれなくなって、そっと目を逸らす。

「二人に会いたくて、こんなところで待ってました。ここなら、通るかなって思って」

 ストーカーみたいですね、すみませんと言って、アストは笑った。待っていた、と面と向かって言われて、頬が熱くなるのを感じる。アストも、私達に会いたいと思ってくれていたんだ。

「これからお買い物ですか?」

「うん」

 私が頷くと、アストは笑みをたたえて言った。

「俺もご一緒させてもらっても、いいですか?」

「うん!おにーさんもおかいものしよー!」

 私が返事をする前に、アストの腕の中でアリシアがそう答えた。私も微笑んで頷いた。こんなところで待ってくれていたのに、嫌だと断ることなんてできるはずがない。──なんて、尤もらしい言い訳を考えてはみたけれど、結局のところ、私自身がアストと一緒にいたいだけなのかもしれなかった。



 スーパーに入って、三人で売り場をうろうろとまわった。三人で、と言っても、アリシアはずっとアストに抱き上げられたままだったけれど。三日ぶりにアストに会えて、だっこまでしてもらえて、アリシアはとても機嫌が良さそうだ。

「ねえねえ、きょうもごはんいっしょ?」

 アリシアの言葉に、アストがううん、と首を横に振った。

「今日は帰るよ」

「ええーっ」

 途端、アリシアが不満そうに頬を膨らませる。アストの方からそんな風に否定されるのは珍しいような気がして、私は思わず問い掛けていた。

「あれ、今日はお仕事なの?」

「はい、今は休憩時間なんで、また行かなきゃならないんです」

 アストは何だか残念そうだ。

「休憩って言っても、ちょっとしかないんで、会えるか不安だったんですけど。会えて良かったです」

 そう言って、にこりと笑みを浮かべた。

「でも…そんな風に聞いてくれるってことは、またお家にお邪魔してもいいってことですか?」

「え?」

 吃驚して私が聞き返すと、アストはふふっと笑った。

「今日は何を買いますか?」

「え、えっと…」

 完全にペースを乱されている。私はおたおたしながら、今日買う食材を、頭の中で必死にリストアップした。



 スーパーを出た後は、三人で並んで歩いて帰った。今日もアストは買い物袋を持ってくれている。アリシアは、最近お気に入りの両手繋ぎをしたがるかと思ったけれど、紙を抱えることの方が大事なようで、私たちは手を繋がないまま、並んで歩いていた。

「おうちにかえったら、おかあさんにも、絵、みせてあげるね」

 アリシアはにこにこしながら私を見上げた。

「うん、楽しみだなあ」

「えへへ」

 アリシアの幸せそうな笑顔を見ていると、それだけで、心が洗われるようだ。アリシアには今みたいに、ずっと笑っていて欲しいと強く思う。そのためには、どうすることが最善なのだろう。三ヶ月立って離れるくらいならと、今アストと距離を置くことを考えたけれど、アストは、アリシアが望むなら会いに来ると言ってくれた。勿論、そんな風にアストに迷惑を掛ける訳にはいかない。そう思っていたのに、昼間のイーシャの言葉が、頭から離れない。──もしも私たちの間に、恋に落ちる運命なんてものがあるのだとしたら…。私はアストにこの心を伝えても、許されるのだろうか。アストの傍にいることを、許されるのだろうか。

「──リディ?」

 アストの声に、私ははっとして顔を上げた。アストは、どこか心配そうな目で私を見つめている。

「なんだか上の空みたいですけど、どうかしましたか?」

「そ、そんなことないよ。大丈夫。ごめん、ぼうっとしてたの」

「だったらいいんですけど…」

 アストはどこか訝しげだ。

「ごめんね、なんだかお腹減っちゃって」

 私は小さく笑って見せた。さっき頭に浮かんだ馬鹿みたいな願望を、慌てて思惟の隅っこに追いやって蓋をした。私たちが結ばれる運命にあるのだというのなら、そもそも、切り落としなどという稀有な事象に引き裂かれるはずがないのだ。

「…あっという間に着いちゃいましたね」

 アストは名残惜しげに言った。いつの間にか、もう家の前まで来ていた。

「おにーさん、おうちはいらないの?」

「うん、今日は時間無いから、帰るよ。ごめんな」

 アリシアは不満げに頬を膨らませたけれど、次の瞬間にはぱっと笑顔になって、手に抱いていた大きな紙を広げ出した。どうやらやっとのこと、見せてくれる気になったらしい。

「みて、みて!」

 アリシアが広げた紙を見て、私ははっと息を呑んだ。紙に描かれていたのは、仲良さげに手を繋いでいる三人の人物だった。真ん中の小さな人間はアリシアで、隣にいるのは多分、私。その反対隣にいる、茶色一色で描かれているのは恐らく、アストだ。三人は、にこにこと笑っている。ついこの間見せてくれた絵よりも、ずっと上手くなっている。私は吃驚してしまった。

「凄いね、アリシア。上手に描けたねぇ」

 私がそう声を掛けると、アリシアはえへへ、と笑った。

「おにいさん、しあ、じょうず?」

 そして、誉めてと言わんばかりに、アストを見上げた。

「うん……。アリシア、俺まで描いてくれたんだ?」

 アリシアの目線にしゃがみこんだアストは、驚いた様子で瞠目している。

「本当に上手に描けてるよ。アリシア、絵を描くのが得意なんだな」

 アリシアは嬉しそうに笑った。

「えへへ、これね、おにーさんにあげる」

「え?…俺に?」

 驚いているアストに、アリシアはその紙を差し出した。

「だからまた、しあとあそんでね」

 アリシアの健気な言葉に、胸を突かれるようだった。アリシアはきっと、アストを喜ばせようと思って、一生懸命にこの絵を描いたんだ…。アストはその紙を受け取ると、アリシアをぎゅっと抱き締めた。

「ありがとう。大事にするよ。…俺もアリシアと、もっと遊びたい」

 アストの言葉に、アリシアは破顔した。

「しあ、おにーさん、すきだよ。…おかーさんと、ぐあたんのつぎにすき!」

「そっか、俺、グラタンには負けてるのか…」

 そんな風に言いながらも、アストは嬉しそうだ。

「俺もアリシアのこと大好きだよ。また、遊ぼう」

「うん!」

 アリシアはにこにこして頷く。

「じゃあ、俺、そろそろ戻らないと…」

 アストはアリシアの頭を優しく撫でた後、立ち上がった。私は、慌てて買い物の袋を受け取る。

「ごめんね、ありがとう」

「いえ、すみません、慌ただしくて…。じゃあ、今日は帰りますね」

 アストは私の方へ一歩踏み出し、アリシアにしたのと同じように、私の頭を撫でてくれた。私ははっとして、アストを見上げる。また、額にキスをするつもりなの…?頭を撫でられているだけなのに、私の思い違いかもしれないのに…。心臓がバクバクと暴れ出す。

「──ほら、また」

 アストはふいにそう言った。

「…え?」

「そういう目で俺を見るの、やめてくれませんか?」

 そういう目って、どういう目?なにか、変な顔をしていたのだろうか。恥ずかしくなって目を泳がせる。アストは少し瞳を細めて微笑うと、私の前髪を押し上げて、そこにそっと唇を当てた。その一瞬で、心臓が大きく跳ね上がる。

 ──きっと、嫌だと後ろに下がって、拒絶することは簡単だった。本当は、アストの気持ちに答える気は無いってことを、はっきり態度で示した方がいいに決まってる。だけど…。額へのキスくらいいいんじゃないかと、心の中の悪魔が囁いている。国によっては、友人同士でも額や頬にキスをしたりするというし…。頭の中で、そんな言い訳がぐるぐると巡る。この国には、そんな習慣はないと言うのに。

「しあも!」

 アリシアがふいに、アストの服を引っ張った。

「ん?」

 アストがしゃがみこんで問い掛けると、アリシアは唇を尖らせた。

「おかあさんだけ、ずるい。しあにもおでこにちゅうして」

 アストは驚いたように瞳を瞬いて、それから、私の方を仰ぎ見た。

「…しても、いいですか?」

 なんでそんなことを聞くの?私には聞いてくれなかったのに、とも思ったけれど、アリシアはまだ幼いから、気を遣って聞いてくれたのかもしれない。私がしてあげて、と頷くと、アストはアリシアの前髪をかきあげて、小さな額にキスを落とした。アリシアは少し恥ずかしそうに、えへへ、と笑う。

「しあもしてあげる」

「え?」

 アストの返事を聞かずに、アリシアは手を伸ばしてアストの前髪を除けると、額にえいっ、とキスをした。

「ふふふ」

 アリシアはなんだか嬉しそうだ。アストは、優しい瞳でアリシアを見詰めた。

「アリシア、ありがとう」

「えへへ、しあ、これ、すき!」

 保育園で友達にしないように言わないと、と思いながら、私はアリシアを見下ろした。アリシアは、無邪気に笑っている。

「あ、やばい。俺、帰らなきゃ」

 アストは慌てて立ち上がった。

「じゃあアリシア、またね。絵、ありがとう。大事にするよ」

「うん」

 アリシアはにっこりと笑った。

「じゃあ、リディ。今度こそ、帰ります」

 アストの言葉に、私はうん、と頷いた。

「お仕事、頑張ってね」

 実習とは言え、実際に警備の仕事をしている訳だから、仕事は大変だろう。労いの気持ちを込めて、いってらっしゃい、と言うと、アストははにかむように笑った。

「いってきます」

「いってらっしゃい!」

 私の言葉を真似して、アリシアが大きな声で言う。今日もまた、遊園地に行った日のように泣いてしまったらどうしようかと思ったけれど、アリシアは笑顔でアストに手を振ってくれたので、不思議に思いながらも、私はほっとしたのだった。


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