揺れる心(1)
「はぁ…」
無意識に溢した溜め息で、はっと我に返る。いけないいけない、仕事中なんだから、集中しなきゃ。一番近くにあった書類を手に取って、日付を確認していく。ふと視線を感じて顔を上げると、イーシャが物言いたげな目で私を見ていた。どうかしたのかと思い首を傾げて見せると、イーシャはなんでもない、というようにかぶりを振り、目線を手元に戻した。少し気になったけれど、休憩の時に聞こうと考えて、私も手元に目線を戻す。
――アストと遊園地に行ったあの日から、三日が経った。あれからアストには会っていない。会いたいと思う反面、会った時、どんな顔をすればいいのかが分からない。アストは、本気であんなことを言ったのかなって、何度も考えた。嘘を吐くような人じゃないって分かってはいるけれど、それでも、未だに信じられない。嬉しくて、でも、切ない気持ちになる。
アリシアは、お兄さんには次いつ会えるの、いつ会えるのと何度も聞いてくるけれど、私にも分からない。アリシアは、アストに会いに行こうとまで言うけれど、私はアストがどこに泊まっているのかさえ、詳しくは知らない。だけど、アストは諦めないと言ってくれたから、きっとまた会いに来てくれるだろう。気持ちには答えられない、と言いながら、好きだと言われたことを喜び、会いに来てくれることを心待ちにしている私。自分の醜さが嫌になり、また溜め息をひとつ吐いた。
チリンチリンというベルの音に、はっと顔を上げる。いつの間にか昼休みになっていた。立ち上がったイーシャが、隣に立って私を見下ろしている。私は手元の書類に目を落とした。いつもの習慣か、無意識に仕事を進めていたようだけれど、ところどころ順番が入れ替わっている。仕方がないから昼休みを返上してやり直そうと思ったとき、イーシャが社長に声を掛けた。
「すみません、今日のお昼、私とリディ、外行って来ていいですか?」
え?私も?ビックリして顔を上げてイーシャを見るけれど、イーシャは社長の方を見つめていた。
「ああ、いいよ。最近忙しくて行ってなかったもんな。ゆっくりしといで」
「ありがとうございます!じゃあリディ、いこう」
イーシャに腕を引っ張られ、私は慌てて書類を重石で押さえた。
「で、でも、イーシャ、私、仕事が終わってないから…」
「昼休みなんだから、いいの。後で手伝ってあげるから。そんなことより、ご飯食べなきゃ」
強引に引きずられ、私とイーシャは久しぶりに事務所の外でランチをとることになった。
近場にあるイーシャお気に入りの可愛らしいお店に入って、私とイーシャは向かい合って座った。お昼時だからかそこそこ混んでいたけれど、丁度、窓際の日当たりの良い席に座ることができた。おすすめのランチプレートを二つ注文し、ウェイトレスの女の子が去って行った瞬間、イーシャはテーブルにぐっと身を乗り出した。
「で?」
いきなり、そう聞かれても、ランチに行こうと言い出したのはイーシャの方だ。てっきり何か話を振られるものだと思っていたので、私はきょとんとして言葉に詰まった。
「えーと…、久しぶりだね、ここでランチ出来るの」
このお店のランチプレートは、小さなサラダとパスタにグラタン、デザートがセットになっていて、見ているだけでも楽しい。見た目も可愛らしいし、味も美味しいしで、初めて訪れた日にイーシャがいたく気に入って、それからはランチに出るときは大抵ここで食べていた。それでも、最近は仕事が忙しかったから、こんな風にランチを食べに来たのは久しぶりだ。
「それは、そうだけど。違うでしょ。あんた、私になんか隠してるでしょ」
「な、何かって?」
吃驚してそう返すと、イーシャはわざとらしく溜め息を吐いた。
「それを聞いてるんじゃないの。あんた、ちょっと前からなんか変だとは思ってたんだけど、ここ数日は明らかに様子が変じゃない。何かあったに決まってる。今日は、それを聞かせてもらおうと思って」
気づかれてたんだ、と一瞬驚いたけれど、あの仕事の進み具合じゃ、気づかれていて当たり前かもしれない。
「ごめんね、イーシャ、迷惑をかけて…」
私が小さく頭を下げると、イーシャはまた、溜め息を吐いた。
「迷惑なんて思ってないわ。ただ、あんたは真面目の塊みたいなところがあるのに、仕事も疎かになるくらい考え事をしているなんて珍しいから、気になって。何かあったのなら、話してくれない?」
真面目の塊ってどういうことだろう、と思いながらも、そんなことより、イーシャの気遣わしげな目を見て、心配をかけていることを申し訳なく思った。本当は、私の胸の内に閉まっておくべきことなのかもしれない。だけど、私はこの心を、話してしまいたくなった。誰にも話せずにいた心の内を、話してしまいたくなった。
「…あのね」
話してしまっても、いいだろうか。イーシャはアストと知り合いではないし、何より、口の堅い女性だ。一度俯いて息を吸い、私は思い切って顔を上げた。イーシャの心配そうな瞳を見た途端に、言葉が滑り出していた。
「…アストに、会ったの」
イーシャに促されるまま、私は、アストに再会したこと、アリシアがアストのことをとても慕っていること、一緒に遊園地に行ったこと、そして、告白されたことまでをすべて話してしまっていた。途中で、ウェイトレスさんがプレートを持ってきてくれたから、先に食べようと言ったのだけれど、話が先だと制されてしまった。机の上の料理はもう、すっかり冷めてしまっているだろう。久しぶりのプレートなのに、イーシャは私の話の方が大事だと言ってくれたのだ。申し訳無く思うと同時に、そこまで親身に話を聞いてくれるイーシャの優しさがとても嬉しかった。
「――で?あんたは、勿論OKしたのよね?」
疑うべくもない、と言った表情で掛けられた問いかけに、少しの気まずさを覚えながら、私はかぶりを振った。
「…ううん。好きな人がいるって伝えたの」
「好きな人って…、それそいつのことじゃなかったの?」
イーシャははっとしたように私を見た。
「もしかして、あんたの好きだった人とは、すっかり変わっちゃってたの?」
だから好きになれなかったの、と聞かれて、私は首を横に振った。
「ううん…、そんなことないよ」
変わってしまっていると感じた部分もあったけれど、少なくとも根幹的な部分は変わっていないように思えたし、何より、私は今のアストのことを愛おしく思っている。
「いまも好きなんでしょ?だったら、何でOKしなかったのよ?あんたのことだから、また余計なこと色々考えちゃったんでしょうけど…」
余計なこと、なのかな。私も好きだって、言ってしまえば良かったのだろうか。…ううん、でも、やっぱり駄目だ。
「だって、アストは、まだ若いし…もし、勘違いだった、やっぱり好きじゃないって振られたら?そんなことになったら、私だって辛いし、何より、アリシアが傷つくことになる。そんなのは、嫌だから…」
「アリシアを悲しませるようなことはしないって言ってくれたんでしょ?それとも何、そんなに信用できない男なの?」
私はかぶりを振った。
「ううん、アストは優しいから。…本当はね、アストの気持ちが冷めたとしても、きっとアストは私たちを放っておけないと思うの。でも、だからこそ、嫌だったの。私、アストの足枷にはなりたくない。だって、まだ十七歳なんだよ?」
イーシャはどこか痛ましげな目で私を見た。
「あんたって、なんでそう、他人のことばっかり考えられるの?まだ十七歳って…分かってる?アリシアを身籠ったばかりのあんたが、一人にされたのと、同じ年齢じゃない。あんた、アストのこと恨んでたっていいくらいなんだから」
「恨むわけ、ないよ。…それにね、イーシャ。私、人のことばかり考えてる訳じゃない」
アストが望んで切り落としされた訳ではないことくらい、分かっている。それに、こんなにも好きなのに、恨む訳がない。寧ろ、アストには感謝しているのだ。私を一人にしないで、アリシアという大切な存在を残してくれたことに。
――それに私は、イーシャが思ってくれている程、心が綺麗な訳じゃない。
「本当は、アストに気持ち伝えなかったのも、ただ私が怖かっただけなのかもしれないの」
「怖かったって…?」
「もう一度、アストを失うことが、怖い。もし、また同じようなことがあって、またアストが切り落としにあったら?そうしたら、きっと私はもう立ち直れない」
アストの足枷になりたくないのも、アリシアを悲しませたくないのもどれも本当の気持ちだけれど、本当は私自身が傷つくのが怖いだけなのかもしれない。
「リディ…」
気遣わしげなイーシャの瞳を見ていたら泣きそうになって、私は慌てて笑顔を作った。
「ごめんね、こんな話聞いてもらって。ランチ、すっかり冷めちゃったね」
「そんなことはどうでもいいのよ。今日の目的はあんたの話を聞くことだったんだから」
イーシャはまだ何か言いたそうだったけど、もう何も言わなかった。でも、ランチを食べ終わって、お店を出た後で、ふいに立ち止まって私を呼び止めた。
「…ねぇ、リディ」
「ん?」
私が振り返ると、イーシャはなんだかぎこちなく笑った。
「私、思うんだけど。記憶がなくてもあんたのことまた好きになるなんて、やっぱり、運命ってあるんじゃないかしら」
「え?」
運命…?もしも、そんなものがあるのなら。今のアストが私のことを好きだと言ってくれたのは、ただの偶然ではないというの?ーーもしも私たちの間に運命があるのなら、かつて切り離された私たちの未来が繋がることも、あるのだろうか。
そんな夢みたいなことを一瞬考えて、けれど、すぐに首を振ってそれを打ち消した。私に都合の良いことばかり考えていては駄目だ。そう思いながらも…、運命が私達を引き寄せたのならば、と考えずにはいられなかった。