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切り離された未来  作者: 篠井七紗
第二章 失くした未来
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仮染めの幸せ(6)

 次の日の朝、いつものようにアリシアを保育園に送り届けてから、私は職場に向かった。いつもと同じ作業は、頭を使わなくても自然にこなせる。棚のほこりをはたきながら、私はぼんやりと考えていた。

 ――アストはどうして、あんなに良くしてくれるのだろう。子どもが好きだから、懐いてくるアリシアを邪険に出来ないのはあるかもしれないけれど、だからってうちに晩御飯まで食べに来てくれるなんて…。アストに会えて私は嬉しいし、アリシアも喜ぶけれど、アストはどうなんだろう?明日も食べに来てと言ったときの、眩しい笑顔を思い出す。まるで、アスト自身もうちに遊びに来ることを楽しみにしているみたいだった。…そんなにコロッケが食べたかったのかな?

 いまもシチューが大好きなんだなあと思って、くすっと笑う。またアストに再会して、こんな風に親しくできるとは思っていなかったから、幸せだなあって強く思う。だけど、心の奥に燻る寂しさが時折顔を出す。アストは、私を覚えていない。私を愛してくれたアストは、もういない。――こんな幸せな日々も、以て三ヶ月しか続かないのだ…。

 ため息をついてから、慌てて首を横に振った。今だけでいいからアストの傍にいたいと決めたのは私なんだから、いつまでも落ち込んでいちゃ駄目だ。気合いを入れようと両頬をぺちんと叩いた途端、背中から声を掛けられた。

「――リディ、あなた変よ」

「ひゃあ!」

 吃驚して変な声を上げてしまった。ぱっと振り返ると、イーシャが怪訝そうな顔で立っていた。

「い、イーシャ。今日は早いね。おはよう」

「おはよう。別に早くないわよ?いつもと同じじゃない」

 イーシャに言われて壁の時計を見ると、知らない間に時間が立っていた。

「あ、本当…」

 早くティーポットにお湯を沸かさなきゃ。はたきをしまって手を洗っていると、イーシャがさっさとお湯を沸かしてくれた。

「ありがとう、イーシャ」

「何かあったの?なんだか様子が変だったけど…」

 気遣わしげな目を向けられて、どきっとする。私は、イーシャにアストと再会したことをまだ話せていない。イーシャに心配を掛けたくなくて、笑顔を浮かべた。

「ううん、別に何もないよ?ごめん、ぼんやりしてたの」

「…とりあえず、そういうことにしておいてあげるわ」

 イーシャは呆れたように嘆息して、新しいタオルを投げ渡してくれた。



 夕方、仕事を終えてからアリシアを迎えに行き、手を繋いでスーパーに向かった。六時まではまだ時間があるから、恐らくアストはまだ来ていないだろう。私はアリシアと並んで、スーパーの入り口近くにあるベンチに腰掛けた。今日の晩御飯は家に有る物で作れるので、買い物をする必要が無いからだ。何かお買い得品があるかも、なんて気持ちでスーパーを覗くと、結局余計なものまで買ってしまいそうだから、スーパーには入らないことにしたのだった。

「おかあさん、おかいものは?」

 スーパーの前まで来て入らないことなんてないから、アリシアは不思議そうにしている。私はアリシアに笑みを向けた。

「今日はお買い物はしないよ。ここで、お兄さんを待とっか」

「うん」

 頷きつつも、アリシアは不思議そうにしていたけれど、アストの姿を見つけるとぱっと顔を綻ばせた。

「おに―さん!」

 ベンチからぴょこんと降りて、ぶんぶんと手を振っている。私達の姿を認めたアストは、足早に近寄って来た。私もベンチから立ち上がった。

「ごめんなさい、おまたせしました」

「こんばんは!」

 アリシアがアストに駆け寄って、ぎゅうとしがみついた。

「こんばんは、アリシア」

 アストは躊躇せずに、アリシアを抱き上げる。それから、私に向かって小さく会釈した。

「こんばんは、リディ」

「こんばんは」

 私が挨拶を返すと、アストは心配そうに眉根を寄せた。

「すみません、大分おまたせしましたか?」

「え?今来たところだよ?」

 どうしてアストがそんな心配をしているのか分からなくて、きょとんとして返すと、アストはほっとしたように息を吐いた。

「ベンチに座ってるのなんて珍しいから、待たせちゃったのかと思いました」

 アストの言葉に漸く合点がいった。私達がベンチに座っていたのは、買い物を済ませたからだと思ったんだ。

「あ、ごめんね。今日はお買い物する必要が無かったから、無駄遣いしないようにスーパーに入らなかったの」

 そう言って、買い物袋を持っていないことを示すために、両手のひらを見せる。アストも納得したように笑みを浮かべた。

「そうなんですね」

「しあ、はやくコロッケたべたい!」

 アストに抱き上げられたままで、アリシアが笑顔で言った。

「そうだね、帰ろっか」

「うん!」

 歩き出す前に、アストはアリシアを下ろそうとしたけれど、アリシアはアストにぎゅっとしがみついてそれを拒んだ。

「アリシア。お母さんとお手手繋いで歩こうよ」

 私がそう声を掛けると、アリシアは少し悩んだようだったけれど、ふるふると首を横に振った。

「しあ、だっこがいい」

 アストにだっこしてもらえてアリシアは嬉しいのだろうけれど、三歳の子どもは結構重たい。しんどくないだろうか、とアストを見上げると、アストは大丈夫だと言うように、優しく笑った。

 ――そんな表情にまで、いちいちときめいてしまう自分が、嫌になる。

「じゃあ、パン屋さんまでだっこな」

 アストの言葉に、アリシアが顔を輝かせた。

「うん!」


 パン屋の角を曲がったところでアストはアリシアを下ろした。アリシアは名残惜しそうだったけれど、約束通りアストから離れて、私の方に駆け寄ってきた。アリシアは私と手を繋ぎながら、反対隣を歩くアストをちらちらと見上げる。物言いたげにちらりと見ては目を逸らし、またちらりと見ては目を逸らし、とそんな動作を繰り返している。

「ん?どうした?」

 アリシアの様子に気付いたアストが不思議そうに問い掛けると、アリシアはおずおずと切り出した。

「…おてて、つないでくれる?」

 そっと差し出された小さな手を見て、アストは一瞬きょとんとしたような表情を浮かべた後、柔らかく笑った。

「なんだ、そんなことか」

 アストがアリシアの小さな手を取ると、アリシアは花が咲くように顔を綻ばせた。

「しあ、りょうてでおててつなぐの、したかったんだあ」

 屈託ないアリシアの言葉に、胸が詰まる。しばしば見掛ける、幸せそうな家族の姿。お父さんとお母さんと手を繋いで歩く子どもの姿を、アリシアは羨ましいと思っていたんだ。そんなこと、私には言わなかったのに…。

「えへへ」

 夕日に照らされた、三つ並んだ影をアリシアは幸せそうな笑顔で見つめている。

「おなかへったねぇ」

 アリシアはにこにこしたまま私を見上げた。私は、そうだねぇ、と笑って頷いた。


 家に着くと、昨日と同じようにアストとアリシアにはリビングで待っていてもらい、私はキッチンで晩御飯の準備に取り掛かった。

「しあねぇ、あのね〜」

 アリシアが楽しそうにアストに話し掛けている。昨日、今日とアストがうちにいるなんて、なんだか不思議な気分だ。キッチンまで二人の笑い声が響いてきて、こうしているとまるで普通の家族のようだ…と、そっと幸せを噛み締めた。


 ――シチューのコロッケは、アストの好みにヒットしたようだった。あっと言う間に食事を終えた後、私はテーブルを片付けると、ティーカップを載せたトレイを持って、アリシアの隣の席に戻った。

「あー、すっごくおいしかったです。ごちそうさまでした」

 眩しいくらいの笑顔を浮かべるアストに、私も自然と笑顔を返した。おいしいと言ってもらえると、作った甲斐がある。そっとお茶を差し出すと、アストは小さく頭を下げた。アリシアには、少しぬるめのお茶を渡す。

「すみません、頂きます」

 アストは俯きがちにカップに口をつけながら、上目遣いに私を見た。

「リディの次のお休みはいつですか?」

 どうしてそんなことを聞くのだろう、と思いながら、私は壁に掛けられたカレンダーを見上げる。

「えっと…」

 先週までは、仕事が立て込んでばたばたしていたけれど、それも少し落ち着いてきた。確か、次の週末はお休みを貰えていたはずだ。

「週末は、お休みだよ」

 私がそう答えると、アストは、その日の予定は決まってるんですか、と問い掛けてきた。ますます質問の意図が分からなくて、私は不思議に思いながらも答える。

「まだ、何も。アリシアとどこかに行こうかなって思ってるけど」

「あの、一緒に遊園地に行きませんか?」

 アストは唐突にそう言った。

「へ?」

 きょとんとする私の横で、アリシアが顔を綻ばせ、大きな声を出した。

「ゆうえんち!いく―!!」

 アリシアの言葉に、アストがどこかほっとしたように目を細める。

「昨日も今日もおいしい晩御飯をご馳走になっちゃったんで、何かお礼がしたいなと思って」

 アストの言葉に、私は慌てて首を横に振った。

「そんな、気を遣わないで」

 三人で遊園地に行くというのは凄く魅力的なお誘いだったけれど、晩御飯のお礼なんて、気にしなくていいのに…。

 アストは、カップを机に置くと、少し寂しそうに私を見た。

「ご迷惑ですか?」

 そんな聞き方は、ずるいと思う。

「迷惑なんかじゃないよ。凄く嬉しい。でも、折角のお休みなのに、私たちに付き合わせるのは…」

 気を遣って欲しくて、晩御飯に誘った訳じゃないのに。そう思って戸惑っていると、アストの方も困ったような笑顔で私を見つめた。

「お礼って言うのも、嘘じゃないんですけど…。本当は、俺が一緒に行きたいだけなんです。嫌じゃなかったら、付き合って貰えませんか?」

「おかあさん、しあ、ゆうえんちいきたい!」

 アリシアが両手をばたばたと動かした。――どうしよう。私だって、本音では一緒に行きたい、と思うし、アリシアだって行きたがっている。だけど…。

「でもアスト、実習で疲れているでしょ?遊園地なんか行ったら、余計に疲れちゃうんじゃないかな…」

 微笑を浮かべてアストを見上げたら、アストはもう笑っていなかった。

「――リディ。それは、気を遣ってくれているんですか?…それとも、拒絶ですか?」

 アストは、どきりとするくらい真剣な瞳で私を見据えていた。

「俺は、二人と遊園地に行きたいんです。アリシアは、行きたいと言ってくれています。俺が知りたいのは…、あなたの気持ちです」

 アストはそう言って、すっと翠色を閉ざした。

「…行きたい、な」

 私の口から、自然と心が漏れ出していた。

「三人で遊園地に行きたい…な」

 なんだか急に恥ずかしくなって、ぎゅっと瞳を瞑った。でもすぐにアストの反応が気になって、そっと瞳を開く。

 ――アストは私の言葉に安堵したように、ふわり、と優しい笑みを浮かべた。

「…良かった」

 その笑顔に心臓が鷲掴みされたような気持ちになって、私は思わず胸に手を当てる。アストが、じゃあ次のお休みに遊園地に行こう、とアリシアに声をかけ、アリシアが飛び上がりそうな勢いで喜んでいるのを、私は胸を押さえたままで見つめていた。

 アストに見つめられるだけで、微笑まれるだけで、心臓がどきどきと暴れだす。とてつもなく幸せだけれど、どうしようもなく苦しい。私を(さいな)むこの痛みは、私がアストの傍にいる限り、私に付きまとって離れてはくれないようだった。


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