第四章「試験委員会の正体」
一次試験の会場は、東京法術庁の地下三階にあった。
地上は普通のオフィスビルだ。ガラス張りの外壁に、政府系機関特有の無表情な看板。だが地下に降りると空気が変わる。壁のコンクリートには微細な術式が組み込まれているのか、耳の奥が微かに圧される。
適性場の干渉だ。
レンは会場の入口で受付票を見せた。端末にバーコードを読み取られ、受験番号を確認される。
「霧島レン様。特例推薦枠ですね。——お席はB-22です」
受付の女性職員は特別な反応を見せなかった。特例推薦が珍しいことは知っているはずだが、表情には出さない。プロだった。
試験室は講堂のような広い空間で、長机が整然と並んでいる。受験者は約二百名。ほとんどが法術師養成学校の学生か、一般公募のAランク以上の受験者だ。
レンがB-22の席に着くと、隣の席の受験者が彼をちらりと見た。二十代前半の男。スーツを着ている。
「……高校生? 珍しいな」
「特例推薦で」
「へえ。Sランクか?」
「——いえ」
それ以上は聞かれなかった。試験開始十分前。誰もが自分の準備に集中している。
レンは筆記用具を確認した。シャープペンシル二本。消しゴム一個。受験票。
そして——胸ポケットに入れた折り畳んだメモ用紙。白紙だ。カンニングではない。試験中にメモを取るための紙。思考を整理するための道具。
試験官が入室した。スピーカーから注意事項が読み上げられる。
試験時間:百八十分。
出題範囲:法術理論、適性場物理学、法術倫理学、法術関連法規。
問題数:全八十問(選択式六十問+記述式二十問)。
レンは問題用紙が配られるのを待った。
***
百八十分後。
レンはペンを置いた。
八十問のうち、自信があるのは六十七問。残り十三問は推測が混じっている。だが過去問の合格ラインから逆算すると、六十七問の正答で上位30%には入る。
校長との約束は守れるはずだ。
だが、試験の内容よりもレンの心に引っかかったのは、試験室の「空気」だった。
講堂に充満する適性場の圧。受験者二百名の適性場が重なり合い、部屋全体が法術的な干渉を受けている。レンには感じ取れないはずだった。
——なのに、感じた。
微かに。本当に微かに。
隣の席の受験者が集中したとき、空気の「重さ」が変わった気がした。前の列の受験者がペンを強く握ったとき、背中に何かが触れた気がした。
気のせいかもしれない。
だが「気のせい」が三か月前より頻繁になっている。
***
一次試験の結果は二週間後に通知された。
合格。受験者二百十一名中、四十二位。上位20%。
校長の条件をクリアした。
柴田教諭は驚いた顔をしていた。
「霧島……本当に通ったのか」
「はい」
「上位20%って……法術理論の専門教育を受けていない高校生が……」
「勉強しましたから」
柴田教諭は言葉を失っていた。
***
二次試験までの三週間。
レンの自宅リビングは、即席の作戦室になっていた。
財前がホワイトボードの代わりに模造紙を壁に貼り、法術理論の数式を書き連ねている。水無瀬はソファに座って、養成学校時代の試験ノートを読み返している。
レンは床に座って、二次試験の想定課題に対する「理論応用型解答」のパターンを十七種類作っていた。
「過去の二次試験の課題傾向は三つに分類できる」
レンが模造紙を指した。
パターンA:物体の移動・変形(物理操作系) → 出題確率45%
パターンB:障壁の生成・防御(防御系) → 出題確率30%
パターンC:環境の変化への対応(応用系) → 出題確率25%
「どのパターンが来ても、『法術理論の応用による解決』で対応する。法術を直接使うと宣言しない代わりに——」
「適性場の自然な挙動を利用する」
財前が続けた。
「法術は適性場を人為的に操作する技術だけど、適性場自体は自然現象でもある。人間が操作しなくても、環境条件によって適性場は変動する。その変動パターンを予測し、利用する——それは『法術的手法の理論的応用』に該当する」
水無瀬が目を閉じたまま言った。
「理屈はわかる。でも試験会場で『適性場の自然変動を利用する』って、実際どうやるの? 誰がタイミングを計るの? 装置もセンサーもないのに」
沈黙。
レンは自分の右手を見た。
指先が微かに震えている。——いや、震えているのとは違う。何かに反応しているように、脈打っている。
「……条件さえ揃えば、感覚でわかる——かもしれない」
「かもしれない?」
水無瀬が目を開けた。
「最近、適性場の変動を感じることがある。はっきりとした感覚じゃない。体温が上がるような、耳鳴りが変わるような——」
「ちょっと待って」
水無瀬が立ち上がった。ソファを離れ、レンの前に膝をついた。
彼女の右手がレンの額に触れた。
一瞬、レンの視界が白く染まった。
水無瀬の手から——いや、水無瀬の適性場から、微弱な波動が流れ込んでくるのを感じた。暖かくもなく冷たくもない、ただ「在る」という感覚。
「——嘘でしょ」
水無瀬の目が見開かれた。
「あんた、適性場に反応してる。微弱だけど、明らかに共鳴してる。——これ、0.3の反応じゃない」
財前が眼鏡の奥の目を光らせた。
「仕様書のバグ——」
「仕様書の百四十一ページ」
レンが言った。
「0.2〜0.5の範囲の被験者は、測定精度が保証されていない。校正誤差で実測値が最大±40%変動する可能性がある」
「0.3の40%上振れなら0.42。それでもEランク以下——」
「ただし」
レンの声が低くなった。
「仕様書に書いてあるのは『校正誤差』だけだ。測定アルゴリズム自体が閾値以下の信号をノイズとして切り捨てる設計になっている。もし俺の適性場が閾値のギリギリにあって、測定時に信号が三サイクル連続で閾値を下回ったら——」
「ノイズとして処理される。本来の値がどれだけ高くても、出力は0.3になる」
財前が震える声で言った。
「——七番目の穴だ」
レンは黙っていた。
自分の適性スコアが「本当は0.3ではない」可能性。
三か月間、脳の片隅にあった仮説。
だが——それを確かめる方法は、ない。少なくとも、公式の測定装置では。ノイズ処理のアルゴリズムが修正されない限り、何度測定しても0.3と出力される。
「でも、試験会場で使えるの? その——覚醒しかけてる何か」
水無瀬が聞いた。
「わからない」
レンは正直に答えた。
「法術として使える段階にはないし、そもそも制御できない。ただ——適性場の変動を感じることはできるようになってきた。それだけで十分かもしれない」
「環境の適性場変動パターンを身体で検知して、理論で予測した最適なタイミングで課題に対応する——」
財前がノートパソコンを打ち始めた。
「それなら数式は作れる。適性場の波形パターンさえわかれば、変動のピークタイミングを予測するモデルが組める。レンが現場でタイミングだけを感知して、残りは計算で——」
「——いける」
水無瀬が低い声で言った。
***
二次試験の前日。
レンは一人で東京法術庁の建物を外から見上げていた。夜の十一時。ビルの灯りはほとんど消えている。
明日の試験で、人生が変わる。
変わらないかもしれない。落ちるかもしれない。
だがレンの心は静かだった。
一次試験から一週間後、ネットで興味深い記事を見つけていた。法術関連のニュースサイト。小さな記事。ほとんど誰も読まないような場所。
「法術師国家資格試験 試験委員会、新規委員に
第一機関理事・五条院紫月氏を任命」
第一機関。Sランク以上の法術師のみで構成される政府直轄組織。
五条院紫月。
レンが調べた限り、この人物は過去三年間で「試験制度の改革」を何度も提言していた。内容は非公開だが、法術関連の学術誌に寄稿した論文の中で、「現行の適性スコア制度は測定精度に重大な欠陥がある」と指摘している。
——仕様書の百四十一ページと同じ指摘。
つまり、試験委員会の中に「適性スコアの欠陥を知っている人間」がいる。
それが八番目の穴なのか、それとも壁なのか——レンにはまだ判断がつかなかった。
五条院がレンの味方になる保証はない。だが、「制度の穴を知っている人間が審査する側にいる」という事実は——レンの解答が「ルールの悪用」ではなく「制度上の正当な行為」であることを認める可能性を持つ人間が、試験官席にいるということだ。
レンはビルから目を離した。
ポケットの中のノートを取り出した。
「穴の一覧」
01. 測定精度の欠陥 ★確認済み・本人に影響あり
02. 特例推薦枠 ★使用済み
03. スコア非照会 ★確認済み
04. 「法術的手法」の定義 ★利用予定
05. 課題の本質は「解決力」★利用予定
06. 再測定は任意 ★確認済み
07. 閾値処理によるスコア切り捨て ★本人適用(推定)
08. 試験委員に制度改革派が存在 ★確認済み
必要な穴の数:8個
現在の進捗:8/8 ——完了。
全部揃った。
レンはノートを閉じた。
深呼吸を一つ。
明日、二百人の法術使いの中に、法術を使えない人間が一人だけ立つ。
誰にも気づかれないように入り込み、
ルールの中だけを歩き、
誰も使ったことのない穴を通り抜ける。
——泥棒の仕事だ。
盗むのは宝石でも金でもない。
「あるべきだった可能性」を、取り返しに行く。
レンは静かに歩き出した。
夜の街に溶けるように。
***
翌朝。
二次試験会場の扉が開いた。
レンが最初に見たのは、試験官席に座る女性の姿だった。
黒いスーツ。銀色の髪を短く刈り上げ、鋭い目が会場を見渡している。左胸に「第一機関」のバッジ。
五条院紫月。
彼女の目が、入場する受験者たちをひとりずつ見ていた。
レンの番が来た。目が合った。
一秒。
五条院の眉が微かに動いた。
そして——レンを見たまま、ノートに何かを書き留めた。
レンは目を逸らさなかった。
三秒。
五条院が先に視線を外した。次の受験者に目を移した。
レンは自分の席に向かって歩き出した。
心臓が脈打っている。胸の奥の振動が、今日はいつもより強い。
適性場の共鳴——なのか、ただの緊張——なのか。
どちらでもいい。
レンの頭の中にはもう、ひとつの言葉しかなかった。
「法術は使いません」——そう宣言する瞬間まで、あと十五分。
***
課題が発表された。
壇上のスクリーンに文字が映し出される。
「第二次試験 実技課題」
「試験場中央に配置された水槽内の水(50リットル)を、
指定された形状に30秒間維持せよ。
使用する法術的手法は問わない。
評価基準:形状の精度(60%)、手法の独自性(20%)、安全性(20%)」
水の形状制御。
パターンAの変種だった。物体の移動ではなく、液体の形状維持。
周囲の受験者が動き出す。腕を上げ、指先に適性場を集中させる者。目を閉じて詠唱を始める者。
レンは動かなかった。
水槽を見た。
透明な水が揺れている。会場の適性場干渉で、水面が微かに波打っている。
——感じる。
水の中の適性場の流れが、かすかに見える。見えるのではない。体で感じる。腕の産毛が逆立つような、背骨の奥が振動するような——。
財前が作った波形予測モデルを思い出す。適性場の変動は周期的だ。会場内の二百人の適性場が互いに干渉し合って、複雑な波形を作り出している。
だがその中に——規則的なパターンがある。
レンは右手を上げた。
試験官に向かって。
「——質問があります」
会場が静まった。試験中に質問する受験者は珍しくないが、このタイミングは異例だった。
「適性スコア0.3の受験者です。法術の発動はできません。施行規則第十二条に基づき、法術的手法の理論的応用による解答を提出します。——これは受理されますか?」
沈黙が広がった。
二百人の受験者がレンを見た。
試験官たちが顔を見合わせた。
五条院紫月だけが——微かに、唇の端を持ち上げた。
「——規則上、禁止事項には該当しません。解答を許可します」
会場がざわめいた。
レンは水槽に向き直った。
右手を伸ばした。法術は使わない。使えない。
代わりに——
ポケットからメモ用紙を取り出した。白紙のメモに、ペンで数字を書き始めた。
適性場の波形パターン。変動のピーク。残留干渉の位相。
レンの体が感じている微弱な振動を、数値に変換する。
そして——水槽の縁に、計算した座標を記したメモを貼り付けた。
「何をしてるんだ、あいつ——」
誰かが囁いた。
レンは答えなかった。
水槽の水に手を触れた。
冷たい。ただの水だ。
だが——その水の中に、適性場の「流れ」がある。会場中の法術使いが発するエネルギーの残滓が水に溶け込んでいる。それは自然現象だ。人間が制御する法術ではなく、環境に漂う背景ノイズ。
そのノイズの流れを——「読む」。
財前との一か月の訓練で作り上げた理論。
適性場の背景ノイズのパターンを理論モデルで予測し、
ノイズの流れが特定の形状を自然に維持する瞬間を逆算し、
その瞬間に水に最小限の物理的外力(=手で触れる)を与えれば——
水は——法術なしで、形を持つ。
レンの指先が水面に触れた瞬間、水が動いた。
螺旋を描いて上昇した。
正確には——レンが動かしたのではない。環境中の適性場のノイズが、レンが計算したタイミングで、水に方向を与えた。レンはそのタイミングに合わせて、指先の微かな力で「方向」を補正しただけだ。
水が螺旋を描き、指定された形状——六角柱——に近づいていく。
完璧ではない。法術師のように滑らかではない。螺旋の端が微かに揺れている。
だが——六角柱は六角柱だった。
三十秒間。
レンの額に汗が浮かんでいた。呼吸が荒い。指先が震えている。
三十秒が過ぎた。水が崩れた。
レンは水槽から手を離した。
沈黙。
二百人の受験者。五人の試験官。
誰も声を出なかった。
五条院紫月が、ノートにペンを走らせている。その表情は読めなかった。
だが——ペンを止めたとき、彼女はレンを見た。
今度は三秒ではなかった。
五秒。
そして彼女は——小さくうなずいた。
試験結果の通知は三日後。
レンは会場を出た。外の空気は冷たかった。
スマートフォンが震えた。財前からのメッセージ。
「どうだった?」
レンは返信を打った。
「穴は全部使った。
結果はわからない。
でも——」
少し考えて、続きを打った。
「世界のバグを使い切った人間が、
次に何をすべきか、考え始めてる」
***
——これは、適性スコア0.3の男が、世界のバグを使い切るまでの話だ。
だがバグを使い切ったあとに始まる物語を、彼はまだ知らない。




