嫉妬心
その頃の僕は、自分でも制御できないほど不安定な精神の揺らぎの中にいた。
周りの風景も、自分自身の輪郭さえも、深い霧に包まれたように判然としなくなっていた。
唯一、世界と僕を繋ぎ止めていたのは、彼女と過ごす時間だけだった。
ただ隣に並んで歩き、とりとめのない会話を交わす。
それだけで、僕の心は静かに癒されていった。
それ以上の何かを、僕は求めていなかった。
あるいは、求めるのが怖かったのかもしれない。
十月の僕の誕生日の夜、彼女は水元公園の入り口にある、古びた外灯の下で足を止めた。
オレンジ色の光がぼんやりと周囲を照らす中で、彼女は僕にプレゼントを手渡した。
Papasの白いスウェットのフードパーカーだった。
僕はその場でパーカーを頭から被り、彼女に見せて喜んだ。
その時、僕は彼女を抱き寄せキスをしたいと思っていた。
喉の奥までその衝動が迫っていたけれど、結局、僕は動けなかった。
僕はあまりにも子供すぎて、その一歩を踏み出すための勇気も、作法も持ち合わせていなかった。
外灯の下で、彼女の瞳から期待の色がすうっと消えていくのを、僕は残酷なほどはっきりと感じ取っていた。
彼女が望んでいた恋愛の形と、僕が提供できるものは、あまりにもかけ離れていたのだろう。
一歩を踏み出せない自分自身を、僕は激しく、そして無力に恨んでいた。
ヤスエさんから電話がかかってきたのは、ある午後のことだった。
明日の夜、タカオちゃんと一緒に三人で食事に行こうよという誘いだった。
翌日、僕たちは金町駅の改札前で待ち合わせた。
タカオちゃんと顔を合わせるのは久しぶりのことだった。
僕はあいにくお酒が飲める体質ではなかったけれど、僕たちは駅の近くにあるありふれた居酒屋の暖簾をくぐった。
席に着くと、僕たちはそれぞれ飲み物を注文した。
ヤスエさんとタカオちゃんは生ビールを注文した。僕はレモンハイを選び、付き合い程度に口をつけた。
三人でとりとめのない会話をしばらく続けたが、レモンハイを半分ほど空けたところで、案の定、気分が悪くなってしまった。
僕の身体はアルコールという物質を、不純物として拒絶するようにできているのだ。
一度席を立ってトイレに行き、戻ってきてからはテーブルに顔を伏せて目を閉じていた。
世界がゆっくりと回っているような感覚の中で、ヤスエさんとタカオちゃんの会話だけが、薄い膜を通したような響きで僕の耳に届いていた。
そんな静かな対話の最中、ヤスエさんがふいにタカオちゃんに告白した。
「あのね、オザワさんに急にキスされたの」
僕は伏せた顔の下で驚いていた。
彼女はおそらく、僕がアルコールのせいで深い眠りに落ちているのだと判断したのだろう。
「オザワさんの車に乗って、弟の相談をしていたら、いきなりされて驚いちゃった」と彼女は続けた。
その時、僕は気づいた。彼女がわざわざ今日タカオちゃんを呼んだのは、この出来事を打ち明けたかったからだ。
僕は彼女とまだ一度もキスをしたことがなかった。
僕は顔をうつ伏せたまま、激しい嫉妬の炎が胸の奥で静かに燃え広がるのを感じていた。
それと同時に、なぜ彼女がオザワさんと二人きりで車に乗って出かけたりしたのか、という苛立ちが、冷たい泥のように僕の心に堆積していった。
あるいは、彼女は僕が聞き耳を立てていることを知っていたのかもしれない。
ただ二人きりでその事実を告げるには、あまりに気まずすぎたのだ。
僕はそれからしばらくして、何も聞いていなかったような顔をしてゆっくりと頭を上げた。
翌日、僕はタカオちゃんに電話をかけた。
そして、昨夜の二人の会話をすべて聞いていたことを告げた。
僕の声は努めて静かだったけれど、僕が内側で激しく怒り狂っていることは受話器越しにも十分に伝わったはずだ。
タカオちゃんは当時、オザワさんが店長を務める店舗がある代田橋の近くで、小さなアパートを借りて一人暮らしをしていた。
彼はミスタードーナツのアルバイトを続けていて、ときどき代田橋の店に入ることもあった。
僕はこれからそっちに向かってもいいかな、と尋ねた。
彼は了解してくれた。
夕方、僕は電車を乗り継いで代田橋駅へと向かった。彼が始めたばかりの一人暮らしの部屋を訪ねるのは、それが初めてのことだった。
到着すると、彼はいつものように屈託のない明るさで僕を迎えてくれた。そのアパートは、まるで時の流れに置き去りにされたような、古びた木造二階建ての建物だった。
間取りはひどく簡素だった。六畳一間に小さな流し台がついているだけで、トイレは隣の住人と共有するという、今となっては絶滅危惧種に指定されてもおかしくない作りだ。
「この前なんてさ、トイレのドアを開けたら、隣の人がちょうど用を足している真っ最中で、二人で顔を見合わせて『すいません』って謝り合っちゃったよ」
彼はそんな笑えないような笑い話を披露してくれた。おそらく彼なりに、僕の張り詰めた神経を弛めようとしてくれていたのだと思う。
僕は、やり場のない溜め込んでいた感情をすべて言葉にした。
どうしても許せなかったのだ。
それは純粋な嫉妬心と、彼女に対するやり場のない怒りが複雑に混ざり合った、出口のない迷路のような感情だった。
しかし、彼女のことを強く想っていたからこそ、その膨大なエネルギーの矛先は、彼女ではなくオザワさん一人へと向けられることになった。
「明日、アイツを殴りに行く」と僕は言った。
タカオちゃんは少しの間をおいて、「俺も一緒に行くよ」と言ってくれた。
今にして思えば、彼は僕が一人で暴走して取り返しのつかない事態を招かないように、彼なりのやり方で静かに気を配ってくれていたのだと思う。
その夜、僕はタカオちゃんの部屋に泊めてもらうことになった。
部屋には予備の寝具などなく、布団は一組しかなかった。
僕たちは頭と足の向きを逆転させる「あべこべ」の形で、男同士で一枚の布団に潜り込んだ。
「なんだか、俺たち変な感じだな」とタカオちゃんがボソッと言い、僕たちは暗闇の中で声を立てて笑った。
復讐の決意と、滑稽な添い寝。
そのアンバランスな夜が、僕たちを包み込みながら静かに更けていった。




