卒業
一九八七年の三月、僕は高校を卒業した。
昨日まで当たり前のように顔を合わせていたクラスメイトたちと、昨日までと同じような顔をして別れた。
その時はまだ、またいつかどこかの街角で偶然に再会することもあるだろうと漠然と考えていたけれど、実際には、ほとんどの人間とその日を境に二度と出会うことはなかった。
僕たちの人生という名のレールは、ある一点を境に急激に枝分かれし、それぞれが固有の速度で遠ざかっていったのだ。
大学の入学式を数日後に控えたある日、僕は式に臨むための新しい服を買いに出かけた。
当時の僕は、いつか映画で見たアイビー・スタイルという、古き良きアメリカの学生を模したスタイルに心を惹かれていた。
僕は上野の丸井(MARUI)へ向かい、そこに入っていた「VAN」のショップで一式を揃えることにした。
深い色合いの紺のブレザー、精緻なグレンチェックのパンツ、そして清潔なボタンダウンのシャツにレジメンタル・ストライプのネクタイ。
靴だけは、地元の金町駅の近くにある靴屋で、リーガル(REGAL)のコインローファーを調達した。
僕は鏡の前に立ち、真新しいブレザーを着た自分の姿を眺めた。
中学、高校とずっと昔ながらの学ランで過ごしてきた僕にとって、それは人生で初めて締めるネクタイだった。
鏡の中にいたのは、お世辞にもその格好が似合っているとは言えない一人の少年だった。
残念なことに、その後僕がこのブレザーに袖を通す機会は二度と訪れなかった。
今になって思えば、二十歳の成人式に出席しなかった僕にとって、その日が、僕の意識の中だけでひっそりと執り行われた「一人きりの成人式」だったのかもしれない。
入学式が終わると、そのままオリエンテーションが始まった。
僕は自分の学籍番号が記された教室に入り、少しひんやりとしたパイプ椅子に腰を下ろした。
ふと顔を上げたとき、目の前に座っている人物の背中を見て僕は驚いた。
キノシタさんだった。
それはあまりにも唐突な偶然だった。
僕たちの学籍番号は、まるで測ったかのように一つ違いだったのだ。
入学前に同じアルバイト先で出会ったことさえ、確率の気まぐれだと思っていた。
でも、今ここで前と後ろの席に座っている。
僕は静かな混乱の中で、何かしら予感めいたものを感じていた。
それはこれから僕の人生に訪れる、不思議な「偶然」という名の連鎖の、ほんの序章に過ぎないのだと。
五月中旬、キャンパスを吹き抜ける風が初夏の匂いを運び始める頃、僕は一つの事実に直面していた。
僕の大学には女子学生の姿がほとんどなかったのだ。
僕が漠然と思い描いていた、柔らかな光に満ちたキャンパスライフという名の幻想は、あっけなく音を立てて崩れ去った。
僕は他のみんながそうするように、テニスサークルという場所に身を寄せた。
それは千葉商科大学のすぐ目と鼻の先にある和洋女子大学との合同サークルだった。
もっとも「テニス」という言葉が指し示す実態は、とても希薄なものだった。
僕たちは週に三回ほど、市川市が運営する総合グラウンドのコートを借り、遊びの延長のような練習に興じた。活動の目的はテニスそのものではなく、むしろ「ミーティング」という名の飲み会や、その日の講義後に喫茶店で交わされるとりとめのない会話にあった。
そうして、何となく大学生らしい生活の歯車が回り始めた。
その頃の僕たちは、まるで示し合わせたかのように似通った格好をしていた。
ラルフローレンやラコステ、あるいはフレッドペリー。
胸元にワンポイントの刺繍が入ったポロシャツを着て、リーバイスのジーンズを履き、足元には白いアディダスのスタンスミスを合わせる。
それが当時の僕たち大学生の制服みたいなものだった。
けれど僕は、当時流行り始めていたベネトンのポロシャツを選び、足元には白いK-SWISSを履いていた。
僕は僕なりに、その他大勢とは少しだけ違う自分を主張していたかった。
ミスタードーナツでのナイト・シフトを終えると、僕はそのままの足で大学へ向かった。
講義のチャイムが鳴ると、僕は吸い込まれるように机に突っ伏し、深い眠りの底へと沈んでいった。
バイト明けの電車の中で、揺れに身を任せながら眠りこけてしまうことも珍しくはなかった。
一度、あまりに深い眠りに落ちてしまい、目を覚ますとそこは京成佐倉駅だった。
一時間近くも眠り続けていたのだ。
まぶたを開けた瞬間、自分が世界のどこに位置しているのか、それすらも判然としなかった。
大学という場所で、僕が学問らしい学問に触れることはほとんどなかった。
試験が近づくと、サークルの先輩から前年度の過去問を譲り受けた。
それは驚くほど毎年同じ内容の繰り返しだった。
何かが決定的に違っている。
高校時代に僕が思い描いていた、どこか光り輝くような未来の断片は、どこにも見当たらなかった。
何となく入学し、何となく卒業し、何となくどこかの会社に滑り込む。
そんな輪郭のぼやけた未来の自分が、少しずつ、でも確実に、僕の心を不安の影で浸食し始めていた。




